廃公子と魔女の娘 1
声がした方へと顔を向ける。
暗い森の中で、だがそれよりも尚暗い闇を持つ影。
「人間風情が何しにここへ来た?
――ふん…しかも、その顔には見覚えがあるな」
言葉と共に影は揺らぎ掻き消え、次の瞬間には至近距離から自分を覗き込む黒い――、どこまでも黒い瞳。
自分よりも低い位置にあるそれなのに、何故か見下ろされているような。
そして、剣呑に細められた瞳。
「!!」
それは一瞬で。
為すすべもなく、体は側の樹木へと叩きつけられる。
「―――ぐっ!!」
避けることも、身構えることも出来なかった。まさに圧倒的な力。
体は縫い付けられたようにその場から動けない。
それを行った魔女は、結果を確認することもなく。完全にこちらを視界の外に置いたままラーウの側へと屈む。
眠る娘の頬に掛かる髪を耳へ掻き上げると、
「全く…、呑気なものだな…」
苦笑混じりの、だが柔らかな呟き。
その姿に少し驚いて。
「本当に…自分の娘だという、認識なのだな…」
「………は?」
苦しい中、でも思わず零れ出た言葉に、魔女の意識は再びこちらを向く。そしてその言葉は、余計彼女の期限を損ねたらしく、押さえつける力が強くなった。
「―――……で?」と、
娘から離れ自分の目の前へと立った魔女。
「お前…、――いや、カイディル公子様
このような場所に、一体どのようなご用件で?」
微笑む魔女エルダはとても優雅で、
心の芯を凍らすように冷たく美しい。
樹木へと縫い付けられたままのカイ…いや、カイディルは、自分の名の後ろに付けられた敬称に僅かに眉をしかめる。
分かっていてやっているのだろう。本来の名を知ってるいるのだから当たり前か。
微笑みは嘲笑へと変わる。
「――ああ、すまない。もう公子では無かったな」と。
そう―――、カイディルが公子であったヒルトゥールと呼ばれた公国はもうない。
西から勢力を伸ばしてきたラドラグル帝国に無条件で降伏し、今はただのヒルトゥールという帝国の一領地となった。
大公はただの領主となり、現段階では国の管理を任されてはいるが、何れその地位は帝国の息のかかった者に取って変わるだろう。
カイディルは自嘲の笑みを浮かべる。
だがそれも、もはや今の自分とは関係のない事柄だ。
「魔女エルダ。貴方にお願いがある」
だから真っ直ぐに、黒い瞳を見つめ言う。
直ぐ様、胡乱に眉をひそめる魔女。
「……この状況でそれを言うのか?」
馬鹿なのか?と続く、呆れの混ざった声。
そう問われれば、確かにそうなのだろう。
自分が今から口に出そうとしている言葉も、きっとそのせいだ。
「俺に――、魔女の殺し方を教えてくれ」
──‥──‥──‥──‥──
『また、迷い込んだか?』
闇の中から声が聞こえる。
ここはさっきと同じ。
ラーウの無意識下で繋がった世界。目覚めれば忘れてしまう世界。
だけど今度こそ思考の全てがクリアだ。
わたしが、わたしとして認識出来ている。
闇が人の形を作る、黒い影のシルエット。
そして声は、その影から発せられる。
「この世界で、□□□□は今幸せか? 」
微かに心配を伴った声に、ラーウは笑う。
黒い瞳を細めて。
「もう、その名ではないの。今のわたしはラーウと言うのよ、母さんがつけてくれた」
「ああ――…。 あの始まりの魔女か…」
影の言葉に、ラーウはより一層笑みを浮かべ。
「フフ、大丈夫。『この世界』はわたしに優しい世界。そうでしょ?」
「…ああ、そうだな」
「そう…、あの時の全てはもうないもの」
僅かに声が落ちる。
では――、あの男は一体なんなのか?
俯いた自分の顔の横に、緩やかにうねる黒く長い髪が寄り添い流れる。
それを自らの耳に掛ける――と同時に、再び顔を上げたラーウ。
「―――あっ…」
「……どうした?」影が尋ねる。
「母さんが……。――ちょっとマズイかも…?」
「戻るか?」
「……――ええ」
頷いて、佇む黒い影を見る。
全てが闇色の色彩に染められた男。
それは無機質な、寸分の狂いもなく創られた造形。
完璧で美しいそれは、観る者に寄っては恐怖をも感じるかも知れない。
だけどラーウにとっては――…。
もし今度、この無意識下の中を訪れたとしても、自分は今の自分としての意識を保てていないかもしれない。
こちらを見つめ、微かに闇色の瞳を細める男を、ラーウも返すように暫く見つめる。
誰よりも。今のラーウと関わる誰よりも。
わたしのことを思ってくれている存在。
戻れば、全てを忘れてしまうのに。
「…………行くね」
「ああ――」
別れの言葉は短く。
ラーウは素早く翻る、わたしが消える前に。




