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瞳を閉ざした彼女の顔は、血の気もなく。
その体温も徐々に冷えてゆく。
「………ラーウ…?」
呼び掛ける声にも、反応はない。
抱えたはずの両腕に感じるのは氷のような冷たさ。
これではまるで…、死者の――…。
「キリアン、代われ!」
苛立った声がする。
一瞬身を震わせ顔をあげれば、
人型となった幻獣がキリアンの腕からラーウを奪う。その凍える体を。
「――っ、ラーウは!?」
いったい何が!?
焦って問い掛けるキリアンを、アルブスは一瞥して。
「話は後だ。――おい、魔女!」と、
宙に向かって大きく声をあげた。
その宙を――、
景色を、割く一本の線。
「聞こえてる。喚くなバカ犬」
降ってきたのは不機嫌な声。空間に走ったその線からの。
線は揺らめき、ぶれて円へと形を変える。
そしてその円は、魔女を吐き出すと、何事もなかったかのように静かに消えた。
二人の、目の前へと現れた魔女。
アルブスに抱えられている娘に近付くと額に触れる。眉が僅かにひそめられ。そして黒い瞳を縁取る、長い睫毛がゆっくりと下りる。
ただ静かな一連の動作。
だけど微かに、ラーウの頬に赤みが差したのが見えた。
キリアンはほっとして。だけどアルブスの顔は険しく。
魔女が目を開くが、やはり眉はひそめられたまま。
「何時もより早いな。まだ二、三年は持つと思ったが…」
誰ともなく呟く魔女の声に、アルブスが眉間にシワを寄せる。
「後どれくらいだ?」
「ただの応急措置だからな。こうなれば、…まぁ数日だろうな」
「……そうか」
珍しく無駄なく会話をする、エルダとアルブスの声は低い。話が読めず取り残されたキリアンは、ただ二人を見つめるだけ。
そんなキリアンへと、魔女の視線がずれた。
そして浮かぶ苦笑。
「何て顔してんだ?
……本当にあの子は人以外からは好かれるな」
前者は自分に向けての。後者は魔女の独り言。だけど。
自分の顔など確認出来ないキリアンには、
その後者の言葉でこそ、はっきりと理解出来た。
顔に出るほど、そう言われるほど、
自分はラーウに好意を寄せているのだと。
あってたかだか数日。差し伸べられた手の、助けてくれたことへの恩を覚えたとしても、
実際に処置を施したのは魔女エルダだ。
それなのに、何故?
( こんなにもラーウに心を惹き付けられるのか…? )
そしてエルダとアルブスの会話は、キリアンを不安にさせた。
「………ラーウは?」
苦笑を浮かべたまま、エルダはキリアンから一旦視線を外し、娘を抱えた男を見る。
「アルブス、先にラーウを連れて戻れ。わたしはキリアンと話してから戻る」
エルダの言葉に、アルブスは小さく頷くと、
ラーウを自分の体に凭れるように抱え直し、重さを感じさせないほど軽やかな足取りで去って行った。
見送るキリアン。
実際に幻獣である時のアルブスからしたら、ラーウの重さなど無いに等しいのだろう。けど――、
それが少し、羨ましい。
今の自分ではラーウを受け止めることは出来ても、抱え上げることは出来なかったから。
「――さ、少年。 ちょっと行こうか」
後ろから魔女の声がする。
「……?」
話をすると言ったのにどこに行くというのか?
振り返えったキリアンに、
エルダは「ついて来い」とだけ言い、背を向けさっさと歩き出した。
家がある方向とは反対に。
正直、ラーウの側へと直ぐにでも行きたい。マシにはなったとはいえ、さっきまでの彼女の姿に拭えない不安がある。
彼女を失う…、かの恐怖。
だけど先を行く魔女に焦りは見えない。
生死を達観しているのだと言われればそれまでだけど、それとは少し違う気がする。
けど、読めない。
( 話すというのだから、とりあえずはそれを聞かないと… )
キリアンは一度小さく息を吐くと、魔女の後を追った。
森を行く魔女の足取りは淀みがない。
人の手が加えられていない森には道らしきものなどなく、木の根や石、湿地などに足を取られ。黒く長いローブを纏ったエルダには歩きにくいはずなのに、キリアンとの差は開いて行く。
息を切るキリアンの前方で魔女が止まった。
やっと追い付き前を見ると澄んだ緩やかな水が流れる小川。
「ここの水は綺麗だから汗を拭え」
告げるエルダ自身は汗ひとつかいていない。
ここは言葉に甘える。
両手で水を掬って顔を洗い、ついでに喉も潤す。
やっと一息ついた。そんなキリアンに魔女が声を掛ける。
「この川から向こうは結界外だから、今度はあまりわたしの側から離れるな」
「………何故?」
不思議に顔を見上げれは、魔女は呆れた顔をする。
「お前…、何も知らずにこの森に入ったのか?」
「瘴気が…、体に障りがあるから誰も嫌がって入らないのだと…」
確か周りはそんなことを言っていた。
「ふん…。 自分達とは関係ないよそ者だからか」
魔女はやはり呆れたように言うと、
「『黒き森』には化け物どもが沢山いる。お前がたまたま会わなかっただけで。
わたしやアルブスがいるなら奴等は姿を見せないが、今のお前では出会ったら直ぐ死ぬぞ。覚えとけ」
魔女はそう言うと、休憩は終わりとばかりに小川に掛けられた粗末な橋へと向かった。慌てて後を追うキリアン。
その背に敢えて問う。
「……化け物って?」
背を向けたまま答えるエルダ。
「哀れな…、巻き添えを食らった動物達と―、」
「愚かな考えに取り付かれた人間達のなれの果てだ」