矛盾が矛盾しない方法を考える話
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昔々、楚の国のある商人が矛と盾を売っていた
商人は矛を手にして道行く人にこう言った
「私の矛は鋭くて、どんな盾でも突き通すことができる」
続けて盾を手にしてこう言った
「私の盾は頑丈で、どんな矛でも突き通すことはできない」
それを聞いていた者が商人に尋ねた
「ならあなたのその矛でその盾を突いたらどうなるのですか」
商人は何も答えることができなかった
「どんな盾でも貫く矛」と「どんな矛でも貫けない盾」が存在するのは理屈が通らないからである
もし矛で盾を突いた時、矛が盾を貫けなければ矛は嘘になってしまう
一方盾が矛に貫かれれば盾が嘘になってしまう
このようなつじつまの合わない事柄を矛盾と言うようになったのはこの矛と盾を売る商人の話が語源である
これは矛盾が矛盾しない方法を真剣に考える話
矛盾と言えば矛と盾を売る楚の商人の話
「楚」は紀元前1030年〜紀元前223年まで中国に存在した国である
元は中国戦国時代の法家、韓非の著書「韓非子」の中に出てくる喩え話で、
法治主義を唱える韓非が徳治主義の思想を批判するためにこの話をしたそうだ
教科書に載る程有名な話である
誰でも一度は聞いた事があるだろう
そして誰でも一度は考える事かもしれない
この商人の矛と盾を矛盾させないようには出来ないものかと
矛と盾が成立しないからこそ矛盾と言う、それは分かるがしかしどちらか一方が勝利した場合の想定だけで辻褄が合わないと言われても考えものである
実際にはもっと様々な想定が出来る訳で、それを全く不可能であるかのように語られては可能性に挑戦したくなるものである
まずどのような方法が考えられるだろうか
喩えば「盾は貫かれ矛は折れる」
この場合は盾の負けである
矛は折れても砕けても勝敗に影響はない
”どんな盾でも貫く矛”なのだから貫きさえすればいい
対して盾は貫かれれば盾の敗北となり商人は盾に関して嘘をついた事になる
貫くか否か、勝敗はそこで決する
喩えば「盾が割れて矛が折れる」
この場合は矛の負けである
盾は割れても砕けても勝敗に影響はない
”どんな矛でも貫けない盾”なのだから貫かれさえしなければいい
対して矛は貫けなければ矛の敗北となり商人は矛に関して嘘をついた事になる
前の案とは真逆の結果である
喩えば「矛が盾に深く突き刺さる」
矛は深く突き刺さすも貫通には至らず、盾は深く突き刺されるも貫通は譲らずと、両者を押したり引いたりして互角という印象を感じるのかもしれないが
深く突き刺さろうと、浅く突き刺さろうと、貫かなければ矛の負けである
喩えば「矛が盾に突き刺さり、先端が丁度盾の裏側の境界で止まる」
矛が刺さる深さと盾の厚みがピッタリ同じなら貫いたとも言えるし貫かれていないとも言える
という考えだが、これではただ刺さっただけで貫いてはいない
貫くというのは盾の反対側を突き破る、突き抜けている状態のこと
境界で止まっては貫いたことにはならない
盾の裏側を飛び出るか出ないかのどちらかであり境界上の中立的位置は存在しない
故にこの場合矛の負けである
まず考えるのはこのあたりだろうか
やはりどちらかが勝つ事となり、どちらかを嘘にしてしまう
まさしくあちらを立てればこちらが立たず
矛盾は矛盾してしまう
商人がぐうの音も出ないのも無理からぬ話である
普通はこれくらいで満足して矛盾に穴はないのだと納得出来るのかもしれない
しかしこれらはまだ正攻法の範囲と言えるだろう
単純な矛と盾の打ち合いの中での可能性の模索である
それにこだわらなければもっと様々な考え方で臨む事が出来るだろう
喩えば「矛が劣化していれば盾は貫けず、盾が劣化していれば矛に貫かれる」
どんなに強力な矛でも、どんなに堅牢な盾でもボロボロに損傷していれば使い物にはならない
もし矛の貫通力と盾の耐久力が完全に互角だとすれば、勝敗を分けるのは両者の状態、劣化具合ではないか
実力が全くの互角なら僅かな差で勝敗は決する
劣化している方が敗北するのなら少しでも状態の良い方が勝ち、悪い方が負けるだけ
つまり状態の良し悪しにより矛はどんな盾でも貫く事が出来、盾はどんな矛でも防ぐ事が出来る
故にどちらが勝利しても商人は嘘をついた事にはならない、という案である
だがこれでは矛盾を回避することは出来ないだろう
劣化していたなら商人は武具の手入れをしていなかったという事になる
そんな事があるだろうか
確かに商人が何屋かまでは分からないため、さほど手入れが行き届いていない可能性はある
武器商人などその道の専門家なら武具の状態を仕上げておいて当然だが骨董屋や質屋かもしれない
流れてきた品をそのまま売っていただけなら考えられなくはない
しかし声高らかに宣伝するならば完璧に手入れしておいている筈であるし、何より矛も盾も完璧な状態に仕上げれば結局矛盾となる
喩えば「実は盾が防具ではなく象徴としての盾だとしたら貫かれても貫かれない」
世の中では個人や団体を武具に比喩する事がある
「あなたの盾となり剣となる」や
「組織の後ろ盾」「組織の懐刀」など
盾は盾でも何か個人や団体の称号や象徴として作られたものだったとしたらどうだろうか
単なる記章の類いに過ぎないものだとしたら、いくらそれを貫いても形式的な盾に穴が空くだけで本意の盾には傷一つ付かない
神像を壊しても神を殺した事にはならない様に、個人や団体の信念だったり結束だったり防衛力という形の無いものを盾と呼んでいるのだとしたら、どれだけ強き矛でも貫く事は出来ない、という案である
しかしこれを解答とするのは難しい
まず商人は実物の矛と形の無い盾を声高らかに一緒に宣伝することになるが、それは流石に不自然ではなかろうか
そんな状況があるだろうか
百歩譲ってそれをあったとしても、その防衛力に商人の矛で挑むことも出来るだろう
形の無い盾と比べるなら、その形の無い盾に矛を突き立てればいいだけである
〜の防衛力に勝てば矛の勝ち
〜の防衛力が勝てば盾の勝ち
これで矛盾となるだろう
もしも「矛が負けたら矛の使い手が悪い」と言い訳するとしても「ならまともな使い手が使えばいいだろう」と切り返されればやはり袋小路である
喩えば「矛と盾、勝敗は使い手の力量次第」
矛の使い手が盾の使い手より上手なら矛が勝利する
盾の使い手が矛の使い手より上手なら盾が勝利する
矛と盾が独りでに戦うわけではない
人間が使う事で初めて機能するのだから、どちらが勝つかは使い手の力量を加味しなければならない
最強の矛と最強の盾のみでは矛盾は成立しない
結局使い手次第、という案である
ここで言うところの勝敗とは何だろうか
矛が盾を貫くか否かではなく、矛を持った者と盾を持った者が戦った時どちらが倒れどちらが生き残るのかという事なのか
それとも矛の突き方と盾の防ぎ方のより上手い方が勝つという事なのか
どちらにしても矛盾とは全く関係の無い勝負となる
「矛対盾」ではなく「人対人」になってしまう
矛盾における勝敗とは矛の貫通力が勝るか盾の耐久力が勝るかの武具の性能勝負であり、人間同士のチャンバラ勝負ではない
「人間が使用しなければ機能しない」
故に矛と盾それぞれに使い手が必要という考えなのだろう
だが実際はただ矛で盾を突けばどちらが嘘でどちらが真か結果が出る
地面に盾を置いて矛で突けば、人ひとりで十分事足りる
人数も技術も必要はないし、むしろ人の力量に左右されない方法こそ武具の性能を量ることが出来ていると言えるのではないだろうか
どうにか無理矢理でもと手を考えるも残念ながら商人の矛と盾は成立しない
打ち合いの外から可能性を求めるも、ただ屁理屈をこねるだけになってしまっている
どうやらこの様な遠回りな思考で挑んでも答えを見ることは無さそうである
しかしではどうすればいいのか
”矛盾を矛盾させない”
どうすればそんな事が可能なのだろうか
実は、その答えはそこら中に溢れている
珍しくも何でもない理屈である
こんな寓話がある
「昔々あるところに仲のいい静少年と陽少年がいた
ある時陽少年が遊びで友人や知人相手に占いを始めた
子供の遊びなのだから当たる筈がないと思われたが、特に心の内をよく当てると評判であった
静少年は何故そんなに当てられるのかと陽少年に尋ねると彼はこう答えた
「そもそも友人や知人を相手にしているのだから元より情報は十分だし、子供の遊びだと期待していないから少しでも当たれば過剰に反応してしまう
でも一番重要なのはそもそも当ててすらいないということ
人間は多面的な生き物なんだ
周囲から”あいつはこうだ”と何かイメージを付けられていても”実はこういう所もある”と反対の事を言ってやれば当てられた気になるけど、本当はただ当たり前の事を言ってるだけなんだ
君だって例外じゃない筈だよ」
この答えに静少年は驚いた
そう言われて考えるてみると確かに自分の中にも相反するものが沢山あった
直感的であり打算的でもある
神経質であり大雑把でもある
寛容的であり狭量的でもある
利己的であり利他的でもある
現実的であり夢想的でもある
論理的であり情緒的でもある
善良的であり不良的でもある
挙げれば切りがない程、相反するものが自分の中にも存在した
つまり矛盾している
しかし性格や体質などという目に見えない曖昧なものではあるが、なぜこんなにも相反するものが共存出来るのか疑問であった
そこでこう考えた
例えば、完全な打算人間で神経質で慎重で欲深で合理的な人間なんているものなのか
「あの人はどんな人ですか」と聞かれて「温厚な人ですよ」と答えたとしても、温厚だけを持って生まれた人間などこの世にはいないだろう
善いだけの人間はいない
悪いだけの人間もいない
人は一つだけだったり片方だけを持って生まれてくる事など出来ないのではないだろうか
占いなどで「あなたはこんな人で~こんなところがあって~」と言われて当たらなくともあまり外れた気になれないのは、人が元々色々なものを持って生まれて来るからではないだろうか
それは目や耳や手足のように
それぞれ少しずつ色や形や大きさが違うだけで、多くの人は心の中にも同じだけパーツを持っているのではないだろうか
自分にも確かにそんな部分があるなと思うのは当然の事なのだろう
もし人の心を数値化するならば、多くの人の項目は同じ数でそれぞれに数値が割り振られていて、直感と打算の項目が両方あるのは当たり前の事で、神経質と大雑把の項目が両方あるのは皆同じなのだろう
その中で特出した部分が人の目に映り、人となりとして語られるのだろう
そしてそれらは時と場合によってそれぞれ顔を出す
人に引かれ、欲に誘われ、事象に巻かれ
あちらに偏りこちらに偏り、
どちらでもなくどちらでもある
人とは生来そういう生き物なのだろうと、静少年は人間の多面性について知った」
これは人間の多面性を説いた話だが矛と盾を成立させる方法に直結する
それは一つ一つを全く別々のものと見ていては矛盾が生まれてしまうが、多面性のある一つのものとして捉えれば相反するものでも共存が可能となるという事
つまり「~であり~である」というどこにでもあるような理屈である
それを商人の矛と盾にも当てはめればいいい
即ち結論はこうである
『矛と盾が、矛でもあり盾でもあればいい』
どんな矛でも貫けない盾であり、どんな盾でも貫くことができる矛でもあればいい
二つの身体にそれぞれ論理と情緒が在るのではなく
一人の身体に両方が存在出来るのだから
矛盾は矛盾しないのではないか
理屈としては単純な事だが「実際矛であり盾でもある、などというものが存在できるのか」と思われるかもしれない
しかし世界は広いもので、攻防一体の武具というものはいくつも存在する
西洋の「ランタン・シールド」や「マン・ゴーシュ」
インドの「マドゥ」や中国の「カイ」
日本の「十手」も我らが誇るべき攻防一体型の武器と言える
例えば十手には鈎というものがついておりそれで刀を受け止め、そして堅牢な棒で突いたり打つなどして相手を制する事が出来る
他に挙げた武器も相手の剣や矛を受け止めるための防御箇所と制するための攻撃箇所が存在する
これらの武器を人は攻防一体型、または攻守一体型の武器と呼ぶ
実在する矛でもある盾、盾でもある矛である
しかし「なら攻撃箇所と防御箇所を分断して矛と盾の状態にしてしまえば簡単に矛盾が生まれるのではないか」と言われるかもしれない
だが一体となっているものを分断したとしてそれが最強の矛と盾と言うこと自体無理がある
まず通常の武器でも半分にされたり壊したりすれば威力は半減するだろう
そしてどちらがどれ程本来の性能を発揮出来る状態なのか誰にも分からない
しかし例えばインドの「マドゥ」は盾に動物の角が付いた武器だが、この場合角を取るだけで矛と盾となる
これなら綺麗に分けることが出来るため立派な矛盾になるだろう、というの意見もあるかもしれない
それについてはなかなか否定が難しい
故に最強の矛と盾を一体にするならば、「ソードブレイカー」や「トンファー 」といったような、分けるに分けられない形体にするべきかもしれない
だが実際のところ、分断すると矛盾するかしないかという話にはあまり意味がない
もし分断した状態を矛盾しているとしても、分断した状態が矛盾しているだけであって、一体となっている状態の「一体が故に矛盾しない」という論を何ら揺るがせるものではないのだから
この論は喩えるならメビウスの環のような理屈かもしれない
裏があれば必ず表がある
表があれば必ず裏がある
両者は決して交わらず、互いに一方が無ければ一方も存在出来ない
これを否定したのが裏でもあり表でもある
「表裏一体」の図形、メビウスの環である
これが既知の人間にとってみればこれまでの話は当たり前で退屈な話だっただろう
しかしこの話にはまだ続きがある
ともあれまずは結論を得られたところで楚の国の商人の矛盾になぞらえて最強の矛と盾を成立させてみる
「昔々、楚の国で盾と矛を売る商人がいた(中略)
ある者が「あなたの矛でその盾を突いたらどうなるのですか」と言った
商人は答えることができなかった
しかし次の刹那、商人は何かを思い立ち、矛と盾を取って何かを作り始めた
しばらくして商人は矛と盾を一体と化し、これを持ってこう誉めます
「私の矛盾は頑丈で、どんな矛でも弾き返すことができる盾であり、また私の矛盾は鋭くて、どんな盾でも貫き通すことができる矛でもある」と言いました
すると今度は商人に指摘をした者の方が何も言えなくなってしまったとさ
めでたしめでたし」
これで少しは商人が報われたのではないだろうか
だが考えてみれば最強の矛と最強の盾などあまりに胡散臭い商品紹介である
おそらくこの後誰かに「どんな矛でも、どんな盾でも、などと言うがそんな事どうやって調べたんだ」と言われてまたおし黙る事になるのだろう
結局この話には救い様がなさそうだ
だがひとまず商人の矛盾は打開出来たのではないだろうか
しかしこの答えは商人の矛盾以外の矛盾にも通用するのだろうか
商人の矛盾を打開する事で矛盾そのものを非矛盾化する方程式を得ることが出来るのではないか、ということが本旨である
単純に考えれば商人の矛と盾を成立させられるのなら、他の矛盾にも通用するものと思えるが、証明とは検証の上に成り立つものである
検証は無論必要である
世の中には矛盾に関する問題が多数存在する
それらに”表裏一体”という解決法が有効か検証していこう
例えば”ジレンマ”
ジレンマとは、「ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり選択を決めかねるという板挟みの状態のこと」である
有名なジレンマの一つにこんな話がある
『ある冬の寒い日に、二匹のヤマアラシが身を寄せ合って暖を取ろうとした
しかしヤマアラシの身体には鋭い針が生えていて、近づき過ぎるとお互いの身体に針が刺さり傷ついてしまった
仕方なくお互い一旦離れて過ごしたが、また寒さに駆られ身体を近づけ針で傷ついてしまったのだった』
これが「ヤマアラシのジレンマ」である
寒さで近付きたいが、針で傷つき近付けないという板挟みの状態である
矛盾と似たような状態と言える
傷つかずに身を寄せ合い寒さを凌げるようにするにはどうすればいいのか
その答えはこの話には続きにある
「ヤマアラシ達は何度も近付いては離れを繰り返していた
そうして何度も繰り返す内にやがて互いに傷つかず、凍えない距離を見つけた
近づき過ぎず離れ過ぎず、それが適切であることを知ったのである
こうして彼らは寒さを乗り越えることができたのだった」
近付き過ぎず、離れ過ぎない、これがヤマアラシ達が辿り着いた答えである
何故このジレンマには元より解決法が用意されているかというと、この話はヤマアラシに例えて人間関係を説いた寓話だからだそうだ
人間も近づき過ぎたり干渉が過ぎればトラブルになり、離れ過ぎれば孤独を感じる
「自己の自立」と「他者との一体感」という二つの欲求による板挟みを解決する為には適度な距離が必要である、という喩え話である
付かず、離れず、それはつまり表であり裏でもある”表裏一体”と同様の理屈と言えるだろう
どちらでもなく、どちらでもある、という選択肢
故に表裏一体という解決法がこのジレンマにも当てはまるのではないだろうか
では”パラドクス”ならどうだろうか
パラドクスには主に2つの意味があるが、ここで用いるのは論理学用語としての意味で
「正当な考え方で推論を深めていくと、一般的な結論と逆の答えが導かれ、ものの道理があわなくなること」である
特に有名なのが「嘘つきのパラドクス」である
喩えば誰かが「この発言は嘘である」という発言をしたとする
もしこの発言が真実なら嘘という事になり、嘘ならばこの内容は真実になり、と永遠に連鎖してゆく
反対にこの発言が嘘ならば真実という事になり、真実ならこの内容から嘘という事になりと、やはりこちらも連鎖してゆく
このような自己を含めて言及した命題で、それを真であると仮定しても嘘であると仮定しても、矛盾した結論に陥ってしまう構造の事柄を自己言及のパラドクス、嘘つきのパラドクスという
これを表裏一体という解決法に基づき答えを出すならば
この発言が嘘の場合、嘘であり真実でもある
また真実の場合、真実であり嘘でもあるという事になる
それはつまりどういう事だろうか
まず何故このようなパラドクスが起こるのか
発端は「この発言は嘘である」という発言
次にこの発言自体が嘘か真かを仮定する
例えば嘘だと仮定して、その通りなら発言内容が真になる
そうすると今度はまた発言自体が嘘になる
つまり発言自体の真偽の仮定と発言内容が矛盾する事で、発言に対して発言内容が真になり発言内容に対して発言自体が嘘になりと、無限に連鎖するという構造となっている
「発言そのもの」と「発言内容」
通常この二つが矛盾する事はない
しかし「この発言は嘘である」という発言は発言内容が発言に対して嘘であると言及しているために矛盾が生じる
つまりこのパラドクスは、単に発言が嘘か真かではなく
発言自体の真偽と発言内容の真偽、と捉えなければならない
故にこれが結論である
「この発言は嘘である」この発言が真実なら発言内容は嘘である
発言は真実、発言内容は嘘である
真実の場合、真実であり嘘となる
「この発言は嘘である」この発言が嘘なら発言内容は真実である
発言は嘘、発言内容は真実である
嘘の場合、嘘であり真実となる
これで連鎖すること無く矛盾も無いと考えられる
「ややこしくてよく分からない」と思われるかもしれないが、要は言っている事とやっている事が違うということだ
どちらが本心かは分からないが「発言そのもの」と「発言内容」、どちらかが本心でどちらかが偽りなら矛盾などしない
”ジレンマ”や”パラドクス”など、商人の矛盾以外の矛盾にも表裏一体という解決法は有効となっているのではないだろうか
矛盾を矛盾させない話についてはここまでである
ここからは少し違った話
通常、楚の国の商人の話の続きを考えるなら多くの場合矛盾させない話を考えるだろう
しかし世の中には別の視点で続きを考える者もいる
ある国語の教師が生徒にこんな話をしたそうだ
「どんな盾でも貫く矛とどんな矛でも貫けない盾は結局矛が勝つんだ
なぜなら、実際二つを戦わせたとしたら最終的に考えられる結果は次の三つ
一つは「盾が壊れる」
一つは「矛が壊れる」
一つは「両方壊れる」
盾が壊れたとすればそれは盾が貫かれたということ
矛が壊れたとすれば盾を貫けなかったということ
両方壊れたとすれば矛は砕けて盾は貫かれたということ
盾が壊れるとすれば貫かれた時だけであるからして、両方壊れればそれは盾の負けとなる
つまり総合的に矛が勝つんだ」
なかなか興味深い話ではないだろうか
矛盾が矛盾しない話ではなく、矛盾に決着を付けるならどちらが勝つかという話である
「矛が一度盾に弾き返されたとて負けではない、結果が出るのは壊れるまで試してからだ」と矛の敗北条件を減らした論と言えるだろう
確かに商人は「この矛は”一突きで”どんな盾も突き通す」とは言っていない
むしろ一突きで貫かれる盾など最強どころか粗悪品と言えるかもしれない
思いもよらぬ鋭い指摘である
しかしよくよく考えればこの論にも引っかかる点がある
「盾が壊れるのは貫かれた時だけ」
本当にそうだろうか
形状的にもしかして貫かれるのではなく折れるのかもしれない、溶けるかもしれない、砕けるかもしれない
貫かれるかどうかの勝敗とは別の壊れ方など考え出せば山とあるのではないだろうか
商人はどこにでもあるような、いたって普通の形状の盾だとは一言も言っていない
そして「総合的に勝つ」
面白い発想だがこれで決着には至らない
総合的に勝つというのは例えば
三番勝負で一度負けても二度勝てば勝ちといったような、いくつかの種目で戦えたり何度も戦える勝負において有効な勝利であって
矛盾の話の場合は一度勝敗が決まればそこで決着である
矛が壊れればその時点で盾を貫けない事が証明され矛の敗北
盾が貫かれればその時点で矛を貫かせない事が虚偽となり盾の敗北
三つの結果は三つの可能性でしかない
つまりこの考え方で何か主張をするならば
「どんな盾でも貫く矛とどんな矛でも貫けない盾は矛が勝つ可能性が高い」と言うのが正しいのではないだろうか
面白い話ではあるが正論とは言い難いようである
しかし決着を付けるという試みは興味深い
実際どうなだろう
矛と盾、雌雄を決するとしたら如何なる決着になるだろうか
まず前提として「どちらが勝つか」を決めることは出来ないだろう
情報としては商人の謳い文句だけなのだから、それだけで勝敗を導き出そうとしても土台無理な話である
それはもはや「”Aという人”と”Bという人”どちらが強いか」と言っているようなもの
決着を付けるためには論理的に勝利が約束される具体性を持たせられる方に持たせなければならない
故にここで問題とするのは「どちらを勝たせられるか」である
ではどちらを勝たせる事が出来るのか
それはやはり『最強の盾』だろう
矛と盾の勝敗はひとえに「貫くか否か」である
そこでまず貫くという言葉に注目してみる
辞書で調べると貫くという言葉の正確な意味は次の通りである
・此方側から反対側まで突き通る、貫通する
・端から端まで通る、貫通する
矛は貫くという結果を出すためにこのような条件を必ず満たさなければならない
一方盾は貫かれさえしなければ何でもいい
喩えば盾がスケルトンならどうだろう
矛はいくらその盾を突こうがただただすり抜けるだけである
貫くための面がないのだから、どんな矛でも貫けない
他にも矛が触れた瞬間に砕けたり溶けたりする盾にしてもいいだろう
それでは盾とは呼べないと言われるかもしれないが、このような物言いに意味は無い
喩えばその盾が戦で通用するのか、既存の盾と同じように使えるのか
それはこの問題とは無関係である
「どんな矛でも突き通さない盾」
「どんな盾でも突き通す矛」
このどちらが勝つか、それだけである
そもそもが政治的問題を批判するために生まれた喩え話なのだから
それに盾の使いどころも様々である
スケルトンの盾で言えば「点」の脅威から身を守るためではなく「線」や「面」の脅威に対して身を守るための盾かもしれない
面を無くす事で軽量化、視界の確保、格子の隙間から攻撃を行えるなどの利点もある
実際に存在しても何もおかしくはないだろう
盾の勝利条件は矛よりも制約が緩い
貫くと貫かせないという関係は喩えば
「これは人間である」
「これは人間ではない」
と言っているようなものである
前者の場合は必ず人間でなければならない
片や後者の場合は人間でないなら猿でも牛でも豚でもロボットでもいいだろう
自由度が大きく異なっている
故に盾の方が大幅に有利であり、故に盾に軍配が上がる
矛盾は論理によって勝敗を決する事が出来る
興味深い発見である
ここからは少しばかり余談である
ここまでずっと「楚の国の商人」の話をしてきたが、実はこの話には様々な語られ方がある
本筋は同じだが盾の謳い文句に多少違いが出ることがある
矛に関してはあまり変わらないが、盾の場合は
「どんな矛でも貫けない盾」や
「どんな矛でも弾き返す盾」や
「どんな矛でも防ぐ盾」だったりする
「貫けない盾」と「弾き返す盾」と「防ぐ盾」とがある訳である
これだけ聞くと「言い回しが違うだけで矛盾している、結局同じことだ」と思われるかもしれない
しかし実際はそれぞれ全く別の盾になってしまう
まず「弾き返す盾」だとそもそも矛盾が成立しない
片や「貫く」こと、片や「弾く」ことを目的としている
これではお互いの目的がぶつかり合わない
矛は貫きさえすればいい
盾は弾き返しさえすればいい
つまりこういう事である
「矛が盾を貫いた後、矛を弾き返す仕掛けを盾に付ければいい」
矛は貫いた後に弾かれようが何をされようが関係はない
盾は貫かれた後からでも弾き返すことが出来れば何も嘘にはならない
故に弾き返す盾では矛盾しないのである
因みにこの謳い文句だと、「スケルトンの盾」なら矛に勝てるという論が通用しなくなってしまう
「スケルトンの盾」では矛を弾き返せないので盾を勝たせることが出来なくなる
次に「貫けない盾」の場合
これはもちろん正真正銘の矛盾である
片や「貫く」片や「貫けない」なのだから当然である
因みにこの謳い文句だと貫かれればそこで盾の負けになってしまうので、「貫かれてから弾き返す盾」は通用しない
そして「防ぐ盾」も矛が「貫く」ことを阻止する必要があるため歴とした矛盾である
因みにこの謳い文句でも貫かれれば盾が負けになるため「貫かれてから弾き返す盾」は通用しない
加えて矛を防ぐということは矛の突きを止めなければならないため「スケルトンの盾」も通用しない
このように言い回しの違いで盾の勝敗の条件が変わってしまい、謳い文句によって矛盾の解決に通用していた論が通用しなくなったり通用しなかった論が通用したりするのである
これでは語り方によって解決法が変わってしまい、確かな答えなど無くなってしまう
しかし実は正しい謳い文句というものが存在する
商人の矛盾は、韓非の著書「韓非子」の中で出て来る喩え話が元である
故に韓非子に記述された内容が商人の矛盾における正しい謳い文句と言えるだろう
韓非子の原文ではこうある
「楚人有鬻楯與矛者 譽之曰 吾楯之堅 莫能陷也 又譽其矛曰 吾矛之利 於物無不陷也 或曰 以子之矛 陷子之楯 何如 其人弗能應也」
訳が分からないので書き下し文にしてみる
「楚人に盾と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉めて曰く「吾が盾の堅きこと、能く陥すものなきなり。」と。また、その矛を誉めて曰く「吾が矛の利きこと、物において陥さざるなきなり。」と。あるひと曰く「子の矛を以て、子の盾を陥さばいかん。」と。その人応ふること能はざるなり。」
どちらにしてもよく分からないが、注目すべきは「陥さざるなきなり」と「陥すものなきなり」の部分である
”陥す”とは”貫く”という意味である
即ち「私の矛はどんな盾でも貫き通し、私の盾はどんな矛でも貫くことは出来ない」と言っているのである
原文には「貫く」「貫けない」とある
故に「貫けない盾」が商人の矛盾における正式な盾と言えるだろう
つまり「スケルトンの盾」が通用するということになる
真反対の関係にして完全に行き違わせた方が喩え話として完成度が高くなるのだから当たり前と言えば当たり前のことなのだろう
ここまでで、商人の矛盾を解消し、矛盾の雌雄を決した
しかしこれらの結論には問題がある
一方では矛と盾を共存させながら、一方では片方を切り捨てている
首尾一貫していない
辻褄が合わない
理屈が通らない
矛盾した話である
これが最後の矛盾である
喩えば「人はなぜ嘘を良くない事としながら噓をつくのか」
それは嘘にも使うべき時と使わざるべき時があるからである
「嘘は泥棒の始まり」と言うが「嘘も方便」とも言う
どんなものにも利点と欠点があり、使うに適した時と場合というものがある
この結論の矛盾も同じ
ただ矛盾を矛盾させたくない時があり、それに矛と盾の共存が必要な場合であっただけ
そして矛盾に決着を付けたい時があり、それに片方の切り捨てが必要な場合であっただけ
これまで語ってきた通りそれぞれがぶつかり合わないように共存させられれば矛盾は解消される
しかし矛盾を解消する、その根本にあるのは視点の違いである
視点の違いがあってこそ共存させたり一体とすることが出来る
喩えば「AでありB」という状態の事柄は日常生活においても多々見受けるだろう
そんな時には必ず時による違いや、場合による違いや、場所による違いなど、視点の違いがある筈である
もし「マイペースが長所であり短所」と言うならば、ある状況下では自分の姿勢を崩さないという長所になり、またある状況下では周囲の統率を乱すという短所にもなる、といった具合である
一つの事柄に対して複数の視点から行った観測をひとまとめにした表現をすることで、全く正反対の属性を持つものでも共存が可能となる
それが「AでありB」という状態である
そしてそれは反対に言えば矛盾とは「”AでありB”という存在や概念がまだ確立されていない状態」とも言える
人は「A」でもあり「B」でもあるものが確立されると新たに「C」という概念を作り出す
人間であり機械でもあるならサイボーグだったり
ウマでありロバでもあるならラバだったり
表であり裏でもあるなら表裏一体だったり
もし表裏一体という概念が無ければ「表であり裏」と言う他ない
故に矛盾とは「A」と「B」との一体、あるいは共存をまだ確立させられていない状態とも言える
そしてこの結論の矛盾から言える事は、矛盾とは視点の変化によって矛盾しないものという事である
喩えば商人の矛盾も時と場合や場所など視点の違いを付ければ、次のように解消できる
「矛は過去どんな盾でも突き通し、盾は現在どんな矛でも突き通さない」
「矛は木製ならどんな盾でも突き通し、盾は石製ならどんな矛でも突き通さない」
「矛は中心部以外はどんな盾でも突き通し、盾は中心部はどんな矛でも突き通さない」
という具合である
そして何より矛盾とはそもそも人により見方により視点が変わってしまえば矛盾しない
矛盾して見える者にとって矛盾は矛盾である事が出来る
矛を矛と見れなければ、盾を盾と思えなければ、矛盾も何もない
ある者から見ればこの上なく大切なものも、他者から見ればゴミ同然に過ぎないものだったりする
石ころも宝石になる
嘘も真実に変わる
人間もタンパク質の塊
矛も盾も棒きれと板切れである
何が論理的で、何を情緒的とするのか
この世の全てが何かであり他の何かでもある
矛盾も矛盾であり同時に矛盾ではない
巨視的に見れば矛盾とはそんな曖昧なものだ
それはつまり矛盾とは微視的なものということである
あらゆる可能性、観点を排除し
ある日ある時ある場所である者がある視点から見た時
辻褄が合わない、理屈が通らない事
それが矛盾である
しかしそれでこそ意味があるのかもしれない
制限があるからこそ可能性は求めるもの
矛と盾が交わるまでの微少で巨多な可能性を