どうも、大変なことになりました。
ふつかれんぞくでかきあげれました、えらい。
大変なことになってしまった。
いつもの奥様─元奥様の癇癪に耐えてたら女の子に割って入られ、それを助けに来たその父親に引き取られる形で連れてこられた。公爵家に。
ついさっきまで置いてもらっていた子爵家も貴族の邸宅らしくなかなか大きかったのだが、公爵家はその比ではなかった。
まず門から屋敷までの道がヤバい。一般的な平民が住む家が三つ四つ並んでも余裕がありそうなほど長い。その脇に続く庭もヤバい。色鮮やかに咲き誇る花々が視界を遮り─俺の身長が低いせいもあるが─あるはずの石塀が見えない。しかし丁寧に手入れされているのだろう、様々な色があるにも関わらず乱雑な印象は一切なく、美しいという印象しか得られない。
そんな中庭に目移りしつつ屋敷に辿り着くと─恥ずかしながら、あちこち見渡していたせいで足元が疎かになり何度か転けそうになった─立派な扉が出迎える。ドアノッカーはライオンだし、ダークブラウンの地に金の装飾は要所要所にあるだけで過剰装飾にならない程度。子爵家は奥様の趣味なのかごてごてとした飾りが多く目が疲れたのを思い出した。
扉を開けるとレッドカーペットを挟んで整列した使用人達が並んでいた。屋敷の外装と同じく、内装も彼らの服もシンプルながらに地味さを感じさせない、鮮麗されたデザインだ。
「お帰りなさいませ旦那様、お嬢様」
その列の間、カーペットの中央で恭しく頭を下げる初老の男性は執事だろうか。他の使用人より少しだけ飾りが多い。見知らぬ薄汚い子供の俺が所在なさげに立っているのを見てもにこりと笑うだけで、顔を顰めたりしない。所作もそうだが家の格に見合う対応なのだろう、子爵家ではこんなふうに接してもらったことはなかった。
「ヒューバート、帰って早々すまない。 この子に丁度いい服を用意してくれ。 ワインを零してしまってね、このままでは可哀想だ」
「はい、直ちに」
先に連絡でもしていたのだろうか。屋敷の誰もが俺の存在に驚く様子はない。ぺこりとお辞儀をして数人のメイドが奥に引っ込んだ。公爵様の言ったように俺の服を用意してくれるのだろう。
「あの…俺」
「ああ、心配しなくていいよ。着替えが終わったら今後のことを話そうか。…ついでに身体も流しておいで。 もしかしたら怪我をしているのかもしれないし、手当もしておこうか」
「は…はひ……」
マジでこんなに優しく対応された事がなくて変な声が出た。今世、基本的に冷遇か性的にか信仰的な扱いしかされたことないもんな。…冷静に考えたら狂ってるな。
「さて、ヒューバート。 彼を浴室に…」
「サントル!」
自分の人生に戦慄していると、着々と準備を進める公爵様の名前が呼ばれた。
見るとお嬢さんをそのまま大人にしたような女性が駆け寄ってくる。
「アンジュ! 走ると危ないよ」
「平気よ、サントル! ねえその子が連絡があった子かしら? エピと同じくらいの年ね? 可愛らしいわ!」
ころころと鈴を転がしたような声で笑うその人は、一児の母とは思えないほど若々しい。子持ちとは思えないのは公爵様も同じだが、若く見える公爵様に対して公爵夫人様は幼いと称しても差支えがないほどだった。お嬢さんと並んだら母娘というよりは少し年の離れた姉妹のように見える。
しかし不思議なことに抱き合う二人は夫婦なのだと一目瞭然だ。なるほど、子爵夫人様が荒れてた一端はこの光景にあるのかもしれない。こんなにお似合いな二人に割って入る余地などない。
「おかあさま! わたしもかえりました!」
「ええ、ええ! 私の可愛いエピトード! 彼も愛らしいけども貴方が世界で一番だわ!」
とはいえその二人の愛の結晶にはそんなことはお構いないらしい。ぴょんぴょんと飛び跳ねるお嬢さんを前に公爵夫人様はあっさりと最愛の夫の抱擁を解いた。公爵様も仕方ないなというように態とらしく溜息を吐くと微笑ましそうに頬を緩める。
「でもサントル? 彼はお風呂の前に髪を整えるべきだと思うの。 伸びっぱなしで前髪が顔を覆っているじゃない? 私、そのままでは目が悪くなってしまうと思って急いで降りてきたの」
どうやら淑女が走った理由は俺にあったらしい。大方、屋敷に歩いてくる途中の俺たちを中から見ていたのだろう。頬を膨らませて、公爵様に向かって“怒っています”という顔をして見せた。
対して公爵様はそんなこと思ってもみなかったのだろう。目を見開いてみせたあと、蕩けるように表情を崩した。あまりの変化に思わず後ずさってしまう。
「嗚呼、流石だよアンジュ! 僕にはとても思い付かない、着眼点が違う! 君はなんて素晴らしい女性なんだ…!」
誰だこの人。
子爵家で見せた冷たい目の持ち主と同一人物とはとても思えない。豹変ぶりに驚いてしまい、助けを求めるように辺りを見渡すと、ヒューバートと呼ばれていた初老の男性と目が合った。
彼は表情は変えずにひとつ頷き、ずっと細めた目だけでこう言った。“いつものことです、慣れなさい”、と。
確かにヒューバート様の言うとおり─言っていないが─“いつものこと”なのだろう。さっきまで乱れることなく並んでいた使用人達は、公爵夫人様が登場するや否や自分の仕事をしに持ち場に戻って行った。残ったのは俺の着替えらしき服を持ったメイドが二人と浴室の用意をしてくれたであろう使用人、あとはやや諦めたような目で飾られた肖像画を見つめるヒューバート様にいちゃつく両親をにこにこと見守るお嬢さんだけになっていた。
「ありがとう、サントル。 彼、きっと身なりを充分に整えられる環境にいなかっただけで、とても素晴らしい素質を持っていると思うの。きっと髪型を整えて、綺麗に洗って、清潔な服を着たら、凄く素敵になるわ!」
漫画なら、どやどやと後ろに大きな文字が現れそうなほど、見事なドヤ顔をした公爵夫人様は、公爵様の抱擁から抜け出すと俺に近付いた。
距離が離れていなかったのもあるが、武人かくやというほど素早い動きで避けられなかった。止める間もなく前髪が掬いあげられる。瞬間、ぴしりと公爵夫人様はかたまった。
「アンジュ? どうかしたかい?」
あまりに不自然な妻の様子に、公爵様は眉を顰める。ああ違います、俺は何もしてません、なのでその訝しげな目を向けないでください、恩を仇で返す真似はしていませんというかするつもりだけはないんですマジで。
内心半泣きでかたまった公爵夫人様に目を向ける。幸いなことに彼女の顔は今までの主人やその周りの人達のものとは違う。最悪の展開にはならないだろうが、公爵様の視線が痛いので早く解凍されてくれ。
「シンシアはいる?」
「アンジュ…?」
俺の願いが届いたのか、公爵夫人様が静かな声で誰かを呼んだのはすぐのことだった。
しかし先程までの弾んだ様子は消え去り、感情の見えない淡々とした声に、公爵様は不安げに彼女の名を呼んだ。しかしそれに反応することはなく、彼女の呼びかけに応じたシンシアさんらしきメイドの方に体を向けた。─肩を掴んだ俺ごと。
「この子を徹底的に磨きあげるのです! この子は宝石の原石だわ………!」
きらきらと目を輝かせ、奥様はそう宣言した。
ああ、最悪は免れたけど、これはなかなか面倒なことになりそうだ…。