どうも、サンドバッグです。
「何ぼさっとしてるのよッ!」
ヒストリックな甲高い声に意識が引き戻される。
次いでばしゃっと湿った音がした。肌に張り付く服の冷たさに、どうやら話に集中していないのがバレてワインを浴びせられたようだと気付く。白いシャツを着たのは失敗だった。ワインの赤はなかなか落ちないのに。
「申し訳ございません、奥様」
洗濯の心配をしながら、肩で息をし全身で怒りを表す女性─俺の主にあたる人に頭を下げる。
彼女は王都からやや離れた小さな領地を治める子爵の夫人だ。夫婦仲が悪いというわけでもなく、領地内が荒れているということもない。俺のような身分の低い人間からしたら随分と羨ましい立場にいらっしゃる方だ。
しかし本人からしたら満足がいくものではないらしい。もとは王都に近い領地で育った令嬢だと聞いたので、嫁いできて数年になる商業より農業が盛んなこの地が肌に合わないのだろう。思うようにならない生活のストレスは、俺のような賎しく小さくか弱いガキにぶつけられる。今だって、ネチネチと服装から料理の運び方、俺のなすこと全てに文句をつけられるので、遠い記憶に思いを馳せ現実逃避をしていたんだから。
交通事故にあい“俺”は死んだ、のだろう。気付けば俺は中世ヨーロッパのような世界にいて、貴族の使用人になっていた。それが四歳程度の頃で、それ以前の記憶はない。最初のご主人様が傷だらけで屋敷の前に倒れていたと言っていたので、恐らく何か事件に巻き込まれでもして記憶喪失にでもなったのだろう。大した問題ではない…とは言いきれないが、生きるのに精一杯で過去を振り返る余裕がない。三年経って、やっと煩わしい難癖を聞き流しながら思い出せるようになってきた。意思疎通すら上手くいかないガキの頃の記憶なんて掘り返す暇があれば、どうやってご主人様のご機嫌をとるか考えた方がマシだ。
まあ、それが上手くいかないから、目の前の化粧を塗り固めて整えた顔が見るに堪えないほど歪んでいるのだが。
「アナタ、自分の身分が分かっているのかしら…!? どこの屋敷からも追い出されるアナタを拾って傍においてやってるのが、誰だか理解はできていて?」
「はい、奥様と旦那様のおかげです」
あー失敗した。このところ上手く立ち回れてたから油断した。言い訳ではないが、流石に小さいとはいえ奥様が主催なされているパーティでお叱りになられるとは思わないだろう。
鞭打ち…は人前ではしないにしても扇子で打たれるくらいは有り得るか。そのくらいなら“不出来な使用人への罰”の範囲内だろう。周りの貴族様方も眉をひそめさえすれど止めに入る様子はない。今日は旦那様は王都に出向いていて不在なので、パーティが終わったあとも一日憂さ晴らしに付き合わされるだろう。まあ旦那様がいたところで妻に甘い彼が俺を庇ってくれるかというと微妙なところだが。
唯一の救いは、他の小間使い達に怒りの矛先が向いていないことだ。そう自分に言い聞かせて振り上げられた扇子を見つめる。これは腫れるかなぁと迫るそれをぼんやりと見ていたときだ。
「お…おやめください…っ」
か細い声が、耳に届いた。
聞き間違いかと思うほど、小さく弱々しい声だった。
しかし幻聴などではなかったようで、勢いよく振り下ろされていた扇子の先はぴたりと止まる。
声のした方を見ると、俺と年がそう違わない、しかし俺よりずっとか弱い女の子が大きな目に涙を溜めてこちらを見ていた。
「おやめください、ケガしてしまいます…!」
思わぬ乱入に瞬いていると、今にも泣きだしてしまいそうな少女は一歩ずつ近付きながらそう言う。
驚いたのは俺だけではないようで、周りの客人方も戸惑ったようにざわめく。その様子にハッとしたように奥様はいつもの表情を取り戻し、顎を上げて見下ろすような視線を少女に向けた。
「あら、どちら様かしらお嬢さん? うちの使用人に何かご用?」
暗に“他所の家のことに口を出すな”と言われたのが分かったのか、それとも高圧的な大人が怖かったのか分からないが─何となく後者な気がする─、少女はびくりと肩を竦め、小さく息を漏らす。泣く寸前と言ったふうで目尻に滲む涙の粒が大きくなった。
しかし揺らいだ瞳が俺を捉えると、自分を振るい立たせるように下がりきっていた眉尻を吊り上げる。
「きぞくとは! へいみんのみなさんのため、はたらく人のことをさすはずです!そのように、こうあつてきに…せめ…たてる…? のは!どうかとおもいますっ!」
少女は恐らく自分でも言ってることを理解していないのだろう、たどたどしい口調で、しかし声を張り上げてそう主張する。
本当は大人に刃向かうのが怖いのだろう。握り締められた拳は不安げに震えている。それでも虐げられる子供の為に怒れる彼女は理想的な貴族というやつだと思う。あくまで平民からしたら、だが。
「この……!」
そんなステキな考えを持たない人間からしたらお綺麗な理想論など不快なだけ。貴族とは平民を見下し使う立場の者、そう信じて疑わない人間の多さを彼女は知らないのだ。
現に奥様は苛立ちを隠そうともせず、自分の子ほどの年齢の少女を憎らしげに見下ろす。
少女も少女で、自分の考えを受け入れられることはないと気付いたのか、興奮から赤く色づいていた頬がさっと色をなくす。主張すれば取り合ってもらえる。そんな貴族らしい傲慢さ…いや、幼子らしい純真さが愛おしく感じた。
ああそうか、似ているんだ。とふと思う。
間違いを許せずに自分より強いものにも立ち向かえるその愚直さが。正しいことをすれば報われるというその甘さが。…前世で命よりも大切で守りたかった妹に。よく、似ている。
そう感じては、そう思ってしまっては。もう傍観者ではいられない。…もともと俺を庇っての騒動だから無関係ではないのだけど、それでもこの女の子を矢面に立たせて突っ立っているわけにはいかなくなった。
「奥様、これ以上は…」
さて、どうする。前に出てみたはいいものも、立場の差は歴然。寧ろお嬢さんと奥様の対決の方が勝算があるくらいに絶望的だ。どうにか怒りの矛先を俺に向けることはできないものか。
しかし正義感が強いらしい彼女がそれを良しとするか…また庇おうとする未来が見える…。詰みでは?
そんなことを考えてはみるが、状況を打開する策も浮かばなければ奥様の機嫌も悪くなる一方。もしや今日が俺の命日なのでは。
万事休す。来世に期待しようと諦めかけたそのとき。
「失礼。 私の娘がなにか仕出かしたかね」
どうやらお嬢さんの甘さに根拠があったことを知る。