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法華経の効果

作者: 久賀 広一

すさまじく如何いかがわしい内容です。


でもまあ、これで毎日の生活が少しだけ救われたり、心軽く生きていくことができる方もいるんじゃないかな~、と思えるんで、僭越ながら書かせて頂きます。


……まず始めに、いわゆる”葬式仏教”でしかおきょうに触れたことのない若い方は、間違って認識されている可能性もあると思います。


仏教というものは、本来、死者のために節目ふしめ節目で便宜的に使用するものではありません。


めっちゃ強引に言うと、人が生きていく上での四大苦『しょうろうびょう』をやわらげたり、永遠に続く輪廻(苦しみ)からの解脱を主な目的とし、心安らかに生きていくための、ほとけの教えになります。

つまり、死者ではなく、苦しみを抱えて生きている人のためのものなんですね。


……ちょっとめんどくさい説明になってしまったんですが、ウチはもともと、親鸞聖人が開祖とされている、浄土真宗の檀家でした。


「南無阿弥陀仏……」と唱えるあれですね。


前に真宗についてはあれこれ書かせてもらったので、ここでは『阿弥陀あみだぶつ帰依きえします(南無=帰依する)』という教えのみで、まとめさせて頂きます。(オイ……やり過ぎだ)


……それで、また話を戻しますが、両親をわりに早く亡くしたウチは、お坊さんにつき命日に参ってもらっていました。


年に10,000円ほど出せば、1月だけお休みしてあと11ヶ月は自宅の仏壇に参って下さる、なかなかリーズナブルで有り難い「お寺さん」です。


留学までされていて、大学などでも講義をされている僧の方なんですが、わりに庶民派で他宗にも寛容、その方に「法華経ほけきょうは、唱えるだけで功徳があるという話もありますね」と聞くことができました。


法華経……主に日蓮宗さんなどで有名な、「至上の仏典」「諸経の王」とも言われることがある、あれです。


僕は、ここが一番いかがわしい内容になりますが、ちょっと生活で厄介事を抱えていて、それが「お寺さん」と親の月命日にお経を唱えた時だけ妙にやわらぐ、という、うさんくさい体験をしております。


それで、いわゆる”中年”と呼ばれる歳になった頃からは、けっこう自分でもお経を読むことをちらほらやっていたんですが、「法華経」にはあまり手を出す気にはなれませんでした。


まあ当たり前ですが、生家が浄土真宗で教えがちょっと違うし、それに創価学会の友人がいて、さんざん入会を断ってきたから、バツが悪かったんですね。(創価学会さんは、数ある仏典の中でも、法華経こそが至上であり、それによる社会平和や幸福を広めようとされた、日蓮聖人の教えに続かれている団体です)


あとは、正道しょうどう会さんにも知り合いがいてーーあっちこっちの宗教に出入りしている、来てもらっているのは、ヒマだからです。何か小説のネタにならないかな~とーーそれまでにいくらかは、正道会の方と法華経を唱える機会もあったんですね。


だからまあ、やっぱり適当なんですが、教えが明らかにされていない密教なんかは学僧になる気がないから除外して、お経なら何でもいいか、というような考えでやっていました。


それで、浄土真宗の方から、他宗にも関わらず「法華経は読むだけで功徳があるという説が……」というような器の大きい話を聞いて、「えっ!?」となったわけです。


そんなにすごいのか、と少し期待してしまったんですね。

まあ、日ごろ抱えていた、他人からもたらされる厄介事から、解放されたかった思いのせいでしょう。


それで、般若心経を読むがごとく、自由になりたくて読経してみる日々が続きました。

ーー手元に、友人からもらった”学会入会セット”みたいな冊子しかなく、そこに書いてある方便品ほうべんぽんの冒頭と自我偈じがげ(法華経からの抜粋)をーー


結果、「あれっ、何これ?」という事態になったんですね。

もたらされる厄介事は、そう変わることがない。

でも、妙にゆったりした幸福感が麻薬のように持続して、物事はそれなりに明らかに見えているのに、あまり心が傷つかなくなってきたんですね。


……この話、学会に関係して離別されたことのある方なら、「危険な兆候だ」と思われるかもしれません。


創価学会さんの中には、日蓮聖人が法体(核)として掲げた”題目だいもく”『南無妙法蓮華経』(法華経に帰依する)という言葉を大切にされていて、朝晩の勤行と共に、それを何万回も唱えれば、も言われぬ幸福感と元気が満ちあふれてくる、というような教えで活動されている方がおられます。


しかし、僕としては、当時あまりに念仏ーー浄土諸宗の”他力本願”の念仏、『南無阿弥陀仏』の広がり方が強かったために、それに対抗する易行いぎょう(簡単な行)として、『南無妙法蓮華経なんみょうほうれんげきょう』の言葉が生まれ、日蓮聖人の法華経の民衆への表現として、広まり過ぎてしまったように感じます。


……よく言われることですが、言葉には言霊ことだまという力があって、「ありがとう」を一万回くりかえすだけで、涙があふれてくる、という話もあります。


南無妙法蓮華経……と発する題目にも力はあるのかもしれませんが、僕は”法華経”そのものを読むことこそが、噂話のレベルから得た体感ではありますが、意味があることのように思います。

ーーまだ人生に弱った経験がなくて、頑丈な体で強気で生きてた頃には、気づけなかったんですが……


信者を勧誘して、自分が何かとくをするような宗教活動にはまったく興味がありませんし、物書きを目指す上でもニュートラルを保つために、どこかの団体に属するような気もありません。


でも、とりあえず法華経のごく一部 ーー 法華経には28品あり、その第2品と第16品の抜粋(これを日常勤行ごんぎょうとされている宗派は多い) ーー を唱えるだけで、ずいぶん日々が楽になりました。


後に、友人に法華経全文が載った本を手配してもらって、適当に他の品も読んだりしていますが、サボりながらでも朝晩数分を費やす価値はあるように感じます。


普通に生きていける人には、まず関係のない話です。

しかし、日々のちょっとしたことがストレスになって、毎日がしんどくて、生きていくのが辛くて仕方ない!と思われている方に、これまでにも幾つかやってしまっていますが、かなりお勧めしたいと思います。


本当に、漢訳されたもので原文より少しは力が落ちるのかもしれませんが、声に出して身体にその振動を行き渡らせることで、毎日が不思議と楽になるーーかもしれません。(経文は末尾に記載)


どこまでも胡散臭い話でしたが、ここまで、有り難うございました!



ーーあなたは、つねに道の真ん中を歩いている。右側には地獄が見え、左側には天国が広がっている。

どちらを向いて人生を歩むかは、あなた次第である。


……そんなに簡単にはいかないでしょうが、お付き合いくださった方に、ゆったりした幸福が訪れますように!












あと、何で法華経に(べつにどの経典でも大きな違いはないのかもしれませんが)そういった力があるかと言えば、僕は今、「地域の人間関係のドブさらい役」のような自治会長、町内会長をしていますが、それをつきつめてやっていくと、変に楽しくなってきて「もう、どんな問題でも来い!」みたいになることがあります。


ワーカホリックの一種でしょうね。


それと法華経を一緒にしていいかどうかは分かりませんが、仏教には人生の苦しみ、そこからの救いがつきつめて説かれてあって、その一部を読むことで、一時的に高揚するような効果があるのかもな~と、思えています。完全に身につけば、それこそ悟りのように音読は不要になるかもしれませんし、現代語訳では、「ん?」と思えるような所もあるんですが……


もちろん、それは良いことであると同時に、悪い影響を生むこともあると思います。(宗教関係で、一般人、他宗の人も交えると、良い話はめったに聞かない)


でも、古くからすたれずに続いている教えは、時に本当に多くの人を救う財産になるのでは、と感じることもあります。


だから、これまで色々書かせて頂きましたが、どこまでも適当に受け止めて下さると、有り難いです。



あと、本当に蛇足になってしまいますが、世界的にブームになったことのある『般若心経』には、驚くべき効能があります。(あくまでさらに勝手な感想)


あの、”言葉では価値が説明できない”とされている、発音するしかないという文末の”真言”「ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、はらそーぎゃーてー、ぼーじーそわか」


原言サンスクリットでは、「ガテーガテー、パーラーガテー、パーラサンガテー、ボーディースバッハ」(らしいです)


を3度唱えることによって、人に酷いことをされたとしても、やり返そうとする動物的反応「怒り」を鎮めてくれる効能があります。


つまり、どんなに誰かに酷いことをされたとしても、それをやり返すと”より多くを失う”、そして因果応報、人の心を傷つけた人間は、必ず報いを受ける、ということが分かっている、でも『傷つけられた事態が大きすぎて、許せるものではない』という人にとっての、思いを和らげてくれる(かもしれない)救いになります。


……あくまで、適当に受け止めて下さいね。


般若心経の文章に「不増不減」という言葉が出てきます。

これは、”たとえ髪の毛一本だろうとも、この世から何かが失われれば、他のもので補完される。この世で増えるものがあれば、必ず減るものがある。常に世界は、恐ろしいバランスで成り立っている”という意味だと、僕は受け止めています。

……髪の毛が減ってきたから。


まあ、適当にアホがアホなことを言ってるなあ、ぐらいに流して読んで下さると、有り難いです。


それでは、あまりに長くうんちくを垂れてしまいましたが、ここまでありがとうございました!


「聞く一つ」

仏教で、悟りを得る秘訣の一つらしいです。

……故にあなたは、こんなワケの分からないの人間の長い話を聞いたーーもう悟りの入り口にいるのです!(笑)



有り難うございました!!!










※以下、必要のなかった方でも、音読してみる価値のあると思われる、法華経抜粋。


初めてまともにお経に触れる方は、文字の並びですでに”狂っている”と思われるかもしれないので、ご注意ください。

極めて、普通の経文です。


(※スマホ用編集。本記は、よくある読み下しのための区切りではなく、文意に添った句読点で表記されています。……読み仮名は、文献によって多々あるので、さほど細かく気にされる必要はないかも……)







━━━ 方便品ほうべんぽん 第二だいに ━━━




にーじー世尊せーそん じゅう三昧さんまい あんじょう而起にーきごうしゃほつ


しょーぶつ智慧ちーえ 甚深じんじんむーりょう其智慧門ごーちーえーもん なんげーなんにゅう


一切いっさいしょうもんひゃく支仏しーぶつ しょーふーのうしょーいーしゃー


仏曾親近ぶつぞうしんごん ひゃく千万億せんまんのく むー数諸しゅーしょーぶつじんぎょうしょーぶつ


無量道法むーりょうどーほう勇猛精進ゆうみょうしょうじん名称普聞みょうしょうふーもん成就甚深じょうじゅーじんじん


未曾有法みーぞーうーほう随宜所説ずいぎーしょーせつ 意趣難解いーしゅーなんげ


舎利弗しゃりほつ吾従成仏已来ごーじゅうじょうぶついーらい種種因縁しゅーじゅーいんねん種種譬諭しゅーじゅーひーゆ


広演言教こうえんごんきょう無数方便むーしゅーほうべん 引導衆生いんどうしゅーじょう令離諸著りょうりーしょーじゃく


所以者何しょーいーしゃーが如来方便にょーらいほうべん 知見波羅蜜ちーけんはらみつ皆已具足かいいーぐーそく


舎利弗しゃりほつ如来知見にょーらいちーけん 広大深遠こうだいじんのん無量むーりょう無礙むーげりき


無所畏むーしょーい禅定ぜんじょう解脱げーだつ三昧さんまい深入無際じんにゅうむーさい


成就一切じょうじゅーいっさい 未曾有法みーぞーうーほう舎利弗しゃりほつ如来能にょーらいのう


種種分別しゅーじゅーふんべつ巧説諸法ぎょうせっしょうほう言辞柔軟ごんじーにゅうなん悦可衆心えっかーしゅうしん


舎利弗しゃりほつ取要言之しゅーようごんし無量無辺むーりょうむーへん 未曾有法みーぞーうーほう


仏悉成就ぶっしつじょうじゅ舎利弗しゃりほつ不須復説ふーしゅーぶーせつ所以者何しょーいーしゃーが


仏所成就ぶっしょーじょうじゅ第一希有だいいちけーう 難解之法なんげーしーほう唯仏与仏ゆいぶつよーぶつ


乃能究尽ないのうくーじん 諸法実相しょーほうじっそう



所謂諸法しょーいーしょーほう如是相にょーぜーそう如是性にょーぜーしょう如是体にょーぜーたい


如是力にょーぜーりき如是作にょーぜーさ如是因にょーぜーいん如是縁にょーぜーえん如是果にょーぜーか


如是報にょーぜーほう如是本末究竟等にょーぜーほんまっくきょうとう









━━━ 如来寿量品にょらいじゅりょうほん 第十六だいじゅうろく ━━━



自我じが得仏来とくぶつらい しょきょう諸劫数しょこっしゅ りょうひゃく千万せんまん 


億載おくさいそう じょう説法せっぽうきょう 数億しゅおくしゅじょう 


令入りょうにゅう仏道ぶつどう らいりょうこう 為度いどしゅじょう 


方便現ほうべんげんはん じつめつ 常住じょうじゅう説法せっぽう


常住じょうじゅう於此おし しょ神通力じんづうりき りょう顛倒衆てんどうしゅじょう 


雖近すいごんけん 衆見しゅけんめつ こう養舎ようしゃ 


咸皆げんかいれん しょう渇仰心かつごうしん しゅじょう信伏しんぶく 


質直しちじきにゅうなん 一心欲見仏いっしんよくけんぶつ 不自ふじしゃくしんみょう 


時我じがぎゅう衆僧しゅそう しゅつりょう鷲山じゅせん 我時語がじごしゅじょう 


じょうざい此不しふめつ 方便力ほうべんりき げんめつめつ 


こくしゅじょう ぎょうしんぎょうしゃ 我復於彼がぶおひちゅう 


せつじょうほう 汝等にょとうもん たん謂我いがめつ 


見諸衆けんしょしゅじょう 没在もつざい於苦おくかい 故不為こふい現身げんしん 


りょうしょう渇仰かつごう いん心恋しんれん ないしゅつ説法せっぽう 


神通力じんづうりきにょ 於阿おあそうこう じょうざいりょう鷲山じゅせん 


ぎゅうしょじゅうしょ しゅじょう見劫尽けんこうじん だいしょしょう 


我此土がしど安穏あんのん 天人てんにん常充じょうじゅうまん 園林おんりんしょ堂閣どうかく 


種種宝しゅじゅほうしょうごん 宝樹ほうじゅ多華果たけか しゅじょうしょ遊楽ゆうらく 


諸天しょてんきゃくてん じょうしゅがく まん陀羅華だらけ 


散仏さんぶつぎゅう大衆だいしゅ じょう土不毀どふき 衆見しゅけんしょうじん


憂怖うふしょのう にょしつじゅうまん しょ罪衆ざいしゅじょう 


悪業因縁あくごういんねん 過阿かあそうこう 聞三宝もんさんぼうみょう 


しょしゅどく にゅう質直者しちじきしゃ 則皆見そくかいけんしん 


ざい此而しに説法せっぽう わく時為此じいししゅ 説仏寿せつぶつじゅりょう 


ない見仏者けんぶつしゃ 説仏難せつぶつなん 我智がち力如りきにょ 


こうしょうりょう 寿じゅみょう数劫しゅこう 修業所得しゅごうしょとく 


汝等にょとうしゃ もつしょう 当断とうだんりょう永尽ようじん 


ぶつじっ不虚ぷこ にょ善方便ぜんほうべん 為治いじおう子故しこ 


実在じつざいごん 能説のうせっもう やく為世父いせぶ 


しょ患者げんしゃ ぼん顛倒てんどう 実在じつざい言滅ごんめつ 


じょうけん我故がこ 生憍しょうきょうしん 放逸ほういつじゃくよく 


堕於だお悪道あくどうちゅう じょうしゅじょう ぎょうどうぎょうどう 


随応所ずいおうしょ可度かど 説種種法せつしゅじゅほう まい自作是じさぜねん 


以何いがりょうしゅじょう とくにゅうじょうどう そくじょうじゅ仏身ぶっしん






※方便品文末の、”じゅう如是にょぜ”「所謂諸法~如是本末究竟等」は、3度くり返して読む。

(…筆者は、朝に上記の2つを間を開けて、夜に法華経全文を、少しずつ読経しています)









後記



なぜ、法華経の中でも上にある二品の抜粋を読むかといえば、かつてその教えを広めようとした日蓮聖人が、「寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」と言われたようで、法華経の「方便品」と「如来寿量品」の二つこそ、もっとも大事な法理が説かれていて、そのほかの品の意義も備わっているーー自然と他の教理も身についていくーーということのようです。









(まだやるのか、バカ)後後記ーー



~なぜ、十如是をくり返して読むのか~


仏教ではしばしば聞く”3度読み”ですが、もとは天台大師《智顗ちぎ》(538年-597年)が『法華玄義』の中で、くうちゅうの三諦で三種に読む、と説かれたから、という説が大きいようです。


『三諦 (さんたい)』~天台宗で、実相の真理を明かすものとして考えられた空・仮・中の三つの真理。

1.すべての存在は、空無なものであるとする空諦

2.すべての事象は、因縁によって存在する、仮のものとするたい

3.すべての存在は、空でも有でもなく、言葉や思慮の対象を超えたものであるとする中諦











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