愛し子はパパの愛に呆れている
シルヴィアとパパ。パパマジパパ。
2:愛し子はパパの愛に呆れている
シルヴィアと名付けられることになる娘がこの世に誕生して初めて聞いたのは、産婆の「おめでとうございます! 元気な女の子ですよ」ではなく、母親の「私がママよ」でもなかった。
天上から響き渡る、感激に涙ぐんだ野太い男の、
『うおおおぁぁぁ――! 生まれたー! パパだよ――!!』
実に残念な喜びの雄叫びだった。
そんなパパの叫びに驚いたせいで産声をあげたのは、親不孝だったかもしれない。
しかしそのおかげでシルヴィアは「そういえば自分は愛し子だった」と自覚することができた。地上に降臨すると前回の記憶は消去されるので混乱するのだ。
前回の記憶があるとそれに引きずられて感情が左右されてしまう。そして前回の愛し子に思うところのある人が生きていたりすると大変厄介なことになったりするので、防ぐためにもリセット必須なのだ。せっかく新しく生まれたのだから、人生を楽しみたいと思うのは我儘ではないだろう。
薄ぼんやりとした視界の中で、パパが撒き散らした花が次々降ってくるのが見える。無事に生まれて嬉しいのはわかったから、ちょっと落ち着いて。
「ふやぁ……っ。あっ? あぅー」
シルヴィアは根性で泣き止むと、きゃあと歓声をあげてみせた。パパへのご機嫌アピールである。感情と体のバランスがまだ不安定な現状、地味につらい。
なにより突如として起こった怪奇現象に怯える母を安心させ、一刻も早くおっぱい飲んでねんねしたい。少なくとも寝ている間はパパの声を聞かずに済む。
『パパがわかる? そう、いい子だねー。君はどんな名前になるのかなあ。とんでもない名前だったらパパが全力で止めてあげるからね!』
お気遣いありがとうパパ。全力で断る。
だいたい両親はパパが適当に選んでいるのだから、初子に浮かれてはっちゃけネームを付けるような親ならそれはパパの責任だ。
パパの止めるは命か心臓の二択だ。どちらも意味は同じである。
生後数日で孤児になるのは避けたい。シルヴィアは生まれて早々暴走スタンバイするパパに向けて必死に演技した。
母は我が子を抱きしめて震えていたが、娘が楽しげに笑っているのにようやく落ち着いてきたらしい。よしよしとあやされた。
「ごきげんね、シルヴィア。会えて嬉しいわ」
私がママよ。汗に濡れた頬を綻ばせ、シンシアはまだしわくちゃの娘の頬にキスをした。
「う、うぶぶ、うぶ、産湯を。愛し子様のお体を清めなければ」
「あら、そうね」
ここまで血まみれである。
パパが焚いてくれたのだろう香のおかげで血生臭くはないが、ひどい有り様だった。へその緒は産婆が条件反射で切ったようだが、ベッドの上、母の足の間には生々しい出産の跡がでろんと残っている。
適温のお湯の中でシルヴィアは心地良さにほっと一息ついた。
産婆は緊張しまくっているらしく、シルヴィアを持つ手が震えている。落とすなよ、絶対落とすなよ、と心で念じておいた。
『シルヴィアかぁ……。うん、いい名前だね』
まともな名前で良かったです。愛し子だからって『マリー・マルチュラ・メルテッロ・フェルリヨンオーヌ・リズベリッヒ・ミラクミュルジェ』とかだったらどうしようかと思ったわ。両親から親戚、神官まで名付けに加わった結果全部繋げちまえとか、どこの笑い話よ。呼び辛いわ。
シンシアも汗を拭き、蒸しタオルで乳房を拭っていた。両方の乳房が張って、母乳がとろりと垂れてきている。
「おっぱいが出てきちゃったわ」
「はいはい。愛し子様、おっぱいしましょうね」
産着に包まれてやっとご飯にありついた。んっくんっくと懸命に飲んでいるシルヴィアを微笑ましい目で眺めていた産婆は、ためらいながらもシンシアに声をかけた。
「シンシアさん。この子のことだけど……」
「はい。……愛し子、なんですか?」
「まず間違いないと思います。さっきから院内が騒がしいですし、今頃は院長が教会に駆け込んでいるか、教会から神官様が来たのかもしれません」
「シルヴィアはどうなるのでしょう」
シンシアの声が震えた。
教会で洗礼を受けるのは、何事もなければ生後一ヶ月から半年の間だ。その際に魔力の測定が行われる。
魔力はどんな生物であれ一定量持っている力だ。人間の場合はほぼ血統で容量が決まるため、平民は弱めの快癒魔法を一回か二回がせいぜいである。貴族であれば戦場の最前線を任せられるほどの魔力を持っていた。
そして愛し子は、いっさいの魔力を持たないことで知られている。
彼女には神の加護という、魔法など比べ物にならない力を持っているからだ。あらゆる魔法を使えず、すべての魔法を無効化することができた。
ようするに『パパがついてるんだから余計なものはいらないよね!』というパパのゴリ押しである。愛し子としてはそれならせめて防御結界の一つも展開しておいて欲しいところだ。魔法を無効化できても、爆風の余波は来るし水中では呼吸ができず炎の熱には弱い。物理攻撃には完全に無防備なのである。
「安心して。産室に男は入れません。出産直後の母子を引き離すことも、当院は許可していません。ジルベルさんがドアの前に居ますし、神官が押しかけて来たところで入らせないでしょうよ」
ただしパパは見ている。神様だからってちょっとデリカシーがないと思うの。
産婆の力強い言葉に、シンシアは目に見えてほっとした。
『そうだよ。大事なシルヴィアをお母さんから引き離して飢えさせるつもりか? パパはそんなの許さないぞ!』
なんと頼もしい産婆か。シルヴィアはパパそっちのけで感動した。そこまで言い切るからには過去に愛し子絡みで何かあったのかもしれない。
「良かった……。あの、ジルベルにこの子を抱っこさせてあげたいんですけど」
おっぱいを飲んで満腹になればおねむの時間だ。シルヴィアの背中をぽんぽんと叩いてげっぷを促すシンシアは新米ママらしく手付きが危なっかしい。首の座っていないシルヴィアは頭部の揺れに酔いそうになった。赤ちゃんがおっぱい吐くのって喉に詰まらせただけじゃなくて揺らされて酔うのもありそうだ。
うぐ、と喉にせり上がってきた乳臭い圧迫感に、中身を吐き出さないようにシルヴィアは息を吐きだした。ここで吐いたらパパが余計な手出しをする。その結果、嫁に任せちゃおけないと姑がしゃしゃりでてきたら最悪母乳が止まる。嫁姑戦争は断固反対だ。
「ぐぇっぷぅっ」
上手くいったと安心したが、盛大なげっぷ音にさすがに恥ずかしくなった。ついでに白っぽい涎も垂れた。息苦しさがとれてすっきりする。
「もちろんいいですよ。愛し子様といえども赤ちゃんですからねえ」
産婆はシルヴィアを受け取ると眠気を促すように揺らしながらドアをノックした。さすがは歴戦の産婆、実に絶妙な揺らし具合である。父の顔を見るまではと思っていたが、シルヴィアは眠気に負けそうになった。
すぐに開いたドアの隙間から、心労でクマの浮かんだジルベルが顔を覗かせる。ドアの向こうで陣痛の痛みに叫ぶ妻の声に胸を傷め、生まれてみれば愛し子だったとなれば、一晩でやつれるのも無理はなかった。
「ジルベルさん、赤ちゃん無事に生まれましたよ」
父親の大きな腕がおそるおそる伸ばされる。シルヴィアは今にもくっつきそうな瞼をなんとかこじ開けて父を見た。
短い切りそろえられた黒髪に黒い瞳。ゲジゲジ眉毛といかつい顔つきはげっそりとしていたが、シルヴィアを見てくしゃっと歪んだ。次の瞬間両の目からどばっと涙が溢れ出てくる。
「うん、……うん。ようこそシルヴィア。シンシア、よく頑張ったな」
ジルベルの背後には愛し子を一目見ようと詰めかけた神官たちが列をなしていた。父子の邪魔をさせまいと産婆が睨みをきかせる。本当によくできた産婆だ、色々あったんだろうな、と思うと愛し子に限らず出産に押しかける邪魔者は意外と多いのかもしれない。
ジルベルは娘を見つめた。ぽやぽやとしか生えていない黒髪、不思議そうに見上げてくる大きな瞳は黒。白い肌は今は生まれたてらしく赤らんでいるが、きっとシンシアに似て白磁のような肌になるだろうと期待させた。顔立ちはシンシアに似て、色はジルベルと同じだった。
血の繋がりを確かに感じた瞬間、ジルベルの胸になんとも表現しがたい感動が押し寄せてきた。
我が子とは、こんなにも愛おしく、かわいいものなのか。
「……なんてかわいいんだろう。シルヴィア、何があってもお父さんが守ってやるからな」
ファーストコンタクト成功である。シルヴィアは父の言葉に安心して笑い声をあげた。今度こそ眠気に逆らわず瞼を閉じる。
『パパだって守るよ! ああもう、お父さんだけずるいぞ! パパも抱っこしたい!』
パパは自重して。
眠っている間にパパが降臨しませんようにと祈りながら、シルヴィアは眠りについた。
パパはいつだって全力!
パパへの応援よろしくお願いします!