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不和のエリス  作者: 氏原ゆかり
Maidens in the Elysium
17/17

第8話『枯れ野ばら』(後)

ChapteR.8 Withered Rose

 西城花姫がぼろぼろの状態で登校してきてから数日。俺は普段と変わらない日常を送っていた。学校に行って、授業を受けて、昼休みはあんずたちと屋上で昼食をとり、放課後になったら唯と一緒に旧校舎の美術室へと向かう。ただそれだけの日常で、特別なことは本当に何もなかった。

 西城も当然のように毎日登校してきていた。個人的にはしばらく静養してもいいのではないかと思うけれど。

 ところでそんな彼女だが、翌日からは学校指定のポロシャツを着て登校するようになった。両腕の動きが制限されている今、着替えるたびにボタンの開け閉めが必要になるカッターシャツでは色々と不便だったのだろう。

 それから週末を挟んで、六月二十九日の月曜日。その日は朝から雨が降っていて、例によって頭痛持ちの俺は憂鬱な気分に陥りながらも一限目の授業をつつがなくこなす。そして迎えた休憩時間に、俺は何気なく――本当に何気なく、暇潰しに携帯をいじる最近の若者よろしくスマートフォンの画面に電源を入れた。


「……はっ!?」


 思わず、そんな声を上げてしまう。それで驚かせてしまったのか、隣の席のあんずがこちらを振り返った。


「え、何。どうしたの?」

「ああ、悪い……なんか通知がえぐくてさ」

「通知? 何かバズったの?」

「いや、全部親から……」


 言いながら、液晶へと向き直る。果たしてそこには不在着信の通知が大量に表示されていた――いや、着信だけじゃない。メッセージアプリからの通知もかなりの数届いていて、不在着信も加えると五十件近くに上る。一限の授業のあいだに、一分に一度着信が来ていたような状態だ。

 念のため母に代わって言い訳をさせてもらうが、いくら彼女が俺に過干渉と言えども、授業中と知りながら息子に鬼電をしてくるほど非常識な人ではさすがにない。曲がりなりにも火宮本家に嫁いだ女性なのだ。相応の良識や価値観はきちんと備えている。

 だというのに、これはなんだ……?

 呆気にとられていると、またメッセージが届いた。うっかり既読をつけてしまわないように気をつけながらメッセージアプリを確認する――と、そこで初めて気がつく。俺はてっきり、通知はすべて母親からだと思っていたのだが、そうじゃなかった。

 鈴音から、三件届いている。俺は迷わず彼女のトークルームをタップした。


『ハルくんへ。授業中にごめんさい』

『スズちゃんが、土曜日に病院へ搬送されていて、今も入院してるみたいなの』

『それについて本家の人じゃなきゃいけないお話があって……このメッセージを見たら連絡をお願いします』


 読み終えて、それからすぐに席を立つ。


「ちょっと、電話」


 あんずにそう言い置くが早いか、俺は教室を飛び出して急ぎ足で屋上に続く階段の踊り場へと向かう。そして画面に表示させたままのトークから鈴音に電話をかけた。

 通話は、すぐに繋がった。


「もしもし、鈴音? 俺だけど」

『ハルくんっ!』


 繋がった――と思った瞬間、悲痛な声が鼓膜に届く。

 その泣きそうな声に、ただごとではない雰囲気を感じ取る……だからこそ、俺は努めて平静を装いながら話しかけた。


「今、平気?」

『大丈夫……休憩時間だから』

「だよね、俺もそうだよ。……それで、うちの母親からも鬼電きてたけど、あいつ何やらかして病院送りになったわけ?」

『そ、それが……』


 戸惑いを隠せない口調のまま、歯切れ悪く、彼女はそれを口にする。


「――――え?」


 その、耳を疑わずにはいられない内容に、思わず困惑の声が漏れてしまった。


「ごめん、今……なんて言った?」

『気持ちはわかるよ。私も、信じられないもん』


 鈴音はそこで一拍間を置いて、


『――スズちゃんが、悪いお薬のせいで入院しちゃっただなんて』


 と、そう言った。

 悪い薬、と彼女はぼかしたけれど、おそらくは薬物のことを指しているのだろう。

 薬物――違法ドラッグ。


「……当然、あいつが自主的にやったわけじゃないよね?」

『勿論だよ。スズちゃんがそんなこと、するはずないもの』

「だとしたら……」


 だとすれば。

 第三者に、無理やり使われたということだ。


『男の人が数人がかりで押さえつけて、そのまま……』

「…………」

『その人たちはもう逮捕されてるんだって。ただ……スズちゃんがうちの一族の子だなんて知らなかった、って言ってるらしくて』

「……知らなかった?」


 火宮一族だとひとくくりにしても、雀は現当主である火宮翔鳳の実娘だ。……俺や鈴音とはレベルが違う、本家の中でも本当に手を出してはいけない人間である。

 それも知らずにそんな凶行に及んだということは、犯人たちが無差別に選んだ結果として運悪くあいつが襲われたのか――あるいは、誰かに雇われていたということか?


『詳しいことは私もまだ聞かされてないの。ただ、そのあたりの事件性も考えて、この話は本家以外の人には知らされてないんだって。スズちゃんが病院にいることも、分家の人たちにはまだ言っちゃ駄目って……』

「それは」


 そこで一度、俺は言葉を区切る。


「あいつを守るためじゃなくて……たぶん、ただ外聞を守りたいがためなんだろうね」

『……私も、そう感じた』


 外聞。体裁。体面――世間体。

 それらの重要性は俺だって理解している。理解はしている……けれど。

 火宮翔鳳。

 実の娘に対しても、そんな対応をするのか。

 そんな対応が、できてしまうのか。


『ユウくんも心配してるみたいだし、私としても、スズちゃんが入院してるってことくらいは伝えてあげたいんだけど……』

「鈴音が悪いわけじゃないよ」


 形ばかりの慰めを口にする。確かな本音ではあるのだけれど、それを伝えたところでなんら意味をなさないということは、俺にもわかっていた。

 それから二、三やり取りを交わしたあと、俺は通話終了のボタンをタップした。そして端末をスリープモードに切り替えてからスラックスのポケットにしまおうとして――その手を止める。

 ひとつ、確かめなければならないことに気がついたからだ。

 再度スマホに電源を入れて、画面のロックを解除してから、ブラウザアプリを起動させる。

 そして俺は――パンドラの箱を開いたのだった。



* * * * *



 四限までの課程を終えて、昼休み。授業で使った教科書やノートを片付けていると、不意に、隣の席のあんずが話しかけてきた。


「ねえ遥」

「ん?」

「二限のとき、何か聴いてた?」

「ああ、うん」


 その問いかけを肯定するように、俺は頷く。


「ちょっとね。秘密にしてくれよ?」

「いいよ。ばれてなかったと思うし」


 こちらを訝るような様子もないままに、先生には内緒にしてあげるね、と彼は笑ってくれた。

 二限目の授業のとき――正確には鈴音との通話を終えて自分の席へと戻ってすぐ、俺は無線のイヤホンを右耳にだけ装着した。完全ワイヤレス式のものだから目立たないし、二限の先生は基本的に板書で授業を進めるタイプの人なので教壇からは死角になっている。

 そして何食わぬ顔でノートを取る振りをしつつ、左手は机の中でスマホの操作をする――まさか自分がこんなことをする日が来るなんて、想像だにしなかったけれど。

 授業を放棄してまでそんなことをしたのは、言うまでもなくパンドラの箱を確かめるためだ。

 くだんのサイトを開いてみると、トップページには新着動画が上がっていた。投稿者は、果たしてピュリスである。

 その内容を簡潔に言い表すのなら、西城花姫の二番煎じだった。時間帯はわからない。薄暗い路地裏のような場所で、ひとりの少女が複数人の男たちに腕ずくで地面に押さえつけられている。

 前回の動画と相違点を挙げるとするなら、まず男たちの面子が大きく入れ替わっていることと――前回の彼らは西城の手で根こそぎ半殺しにされたとのことなので当然かもしれないが――そして何より、映像の少女が西城花姫ではなく、火宮雀であるという点だろう。

 動画に映し出されているのは、数人がかりで身動きを封じられている雀の姿だった。唯一自由な口で何事か怒鳴っている。おそらくは罵詈雑言のたぐいなのだろうが、常から訛っている彼女の口調が一層激しさを増していて、俺にはまったく聞き取れなかった。

 男たちは地面に押さえつける以上の暴力を雀に振るってはいない。前回の彼らのように不愉快な笑い声も上げていない。ただ黙々と、事務的なまでに粛々と、まるでロボットか何かかのように作業を進めていく。

 そして、光を反射して鈍い輝きを放つ、細長い注射器が画面に映ったところで――映像は終わった。

 動画を最後まで見届けたあと、俺はサイトのページを切り替えて投票結果を確認する。

 結果は、僅差で龍崎風歌の勝利だった。

 そして――かつて雀の写真があったはずの場所に、こんな英文が表示されている。

 She is in Elysium.


「火宮ァー」


 声をかけられて、俺は我に返る。

 振り向くと、いつの間にかクラスメイトの男子が立っていた。野球部に所属しているくせに遊び呆けてばかりいて、果てには俺に金をせびってくるやつである。

 ちなみに、あんずに教えてもらった彼の名前についてだが、土日を挟んだことですっかり記憶から抜け落ちている。別に困らないからいいのだが。

 今度は何用なんだよ、と思わず構えるも、しかし彼の用向きは予想外なものだった。


「A組の九条が、なんか火宮を呼んでほしいって」

「えっ、雄助が?」


 あまりにも思いがけない内容だったので、うっかり素のリアクションを返してしまった。

 俺には俺の人間関係があるように、当然、雄助には雄助の人間関係がある。俺たちは親友だし幼馴染でもあるけれど、それでも結局は赤の他人だ。相手のコミュニティに余計な干渉をするべきではない。

 だから、お互いになんらかの取り決めをしたとか、別にそういうわけじゃないけれど、なんとなく、学校で会うのは放課後の美術室だけという風になっていたのだ。

 それなのに、彼は昼休みに俺の教室を訪ねてきた。

 嫌な胸騒ぎが、瞬時に身体中を駆け巡る。


「……ちょっと行ってくる。あんずは先に行っててくれていいから」

「はーい」


 ひらひらと手を振るあんずの姿を認めてから、俺は教室を後にした。

 雄助は廊下に出てすぐのところにいた。昼休みを迎えたばかりなので生徒の往来が激しく、そのため彼は邪魔にならないように、窓側の壁にもたれかかるようにして立っている。

 そんな姿勢のまま、雄助はじっと足元を見つめていた。そのせいで長い前髪が目元を隠して、表情が読みにくくなってしまっている。そばまで近寄ってみても反応がなくて、こちらに気付いているのか気付いていないのか、そもそもきちんと見えているのか否かも俺には判断がつかなかった。


「雄助、どうした?」

「…………」


 声をかけてもうつむいたままで、彼は黙り込んでいる。

 雄助、ともう一度呼びかけてみる――そこで初めて、彼は顔を上げてくれた。

 上げてくれはした……けれど、そうしてやっと見ることができた雄助の顔からは、感情というものがすっかり抜け落ちているように思えた。

 ……これは、あまりよくないかもしれない。


「土曜から――スズと連絡がつかねえんだよ」


 前触れもなく、彼が沈黙を破る。雄助が雀について訊いてくるだろうことは、一応は予想できていたことなので、やっぱりそのことか、とだけ俺は思った。

 俺と雄助が幼馴染ということは、必然、雀や鈴音たちも彼とは幼馴染ということになる――どころか、あちこちに転校してばかりだった俺と違って彼女たちはずっと古鷹にいるのだから、単純な付き合いの長さならふたりのほうが上だ。

 特に雀は、昔からいつも雄助とつるんでいたように思う。周囲からもニコイチなんて呼ばれるほどだったし、本人たちもお互いのことを相棒かのように扱っていた。その関係は今でも変わらないようで、九条雄助は火宮雀の腰巾着である、みたいな噂を時折耳にすることだってある。外野には本家だの分家だのといった関係なんてわからないだろうから、そんな風に見えてしまうのも致し方がないのかもしれない。

 いずれにしろ、週末から突然音信普通になったあいつを案じて彼が俺の元を訪ねてくるというのは、鈴音との通話の時点で十分に考えられる可能性だった。


「リンには昨日、自分にもわからないって言われちまったんだけどさ」

「ああ……それはたぶん、本当に知らなかったんだと思うよ。俺もついさっき聞いたばかりだし」

「じゃあ本家内に情報が回り始めたのは今朝方ってことか……ふうん……」

「……ごめんな。教えてやれなくて」

「いいよ。本家には本家の事情があるだろ」


 本家の中で起きた不(・)祥(・)事(・)を分家に口外するなと命じられたことは過去にも数度ある。その前例については俺と雄助も幾度か経験していた。

 そうだ、俺たちは知っている。一族の人間である限り、今回のように沈黙を余儀なくされることもあると――有事の際にはそのような対応を本家が取りかねないということを、俺たちは身をもって体験している。

 だからこそ。


「だけどよ……箝口令が敷かれてるってことは、相応の事態に巻き込まれてるってことじゃねえのか」


 だからこそ――似たような状況がまた起きたときには、嫌でも察しがついてしまうのだ。

 当然ながら、いくら察しがついたところで雄助はそれを俺に訊くべきではないし、俺も答えるわけにはいかない。なんのための箝口令だ、という話になってしまう。

 きっと本人も、頭では理解しているのだろう。けれど感情では納得しきれていないといったところか。

 ……とはいえ。俺が口止めされているのは、あくまでも上が把握している情報に関してだけである。パ(・)ン(・)ド(・)ラ(・)の(・)箱(・)に(・)投(・)稿(・)さ(・)れ(・)た(・)動(・)画(・)に(・)つ(・)い(・)て(・)は(・)そ(・)の(・)限(・)り(・)で(・)は(・)な(・)い(・)。

 だから、あくまでもくだんのサイトと動画についてだけなら、俺は雄助に教えてやることができる――できはする、のだが。

 そこまで考えて、その思考を一旦ストップさせる。それから上目を使うようにして、目の前にいる幼馴染の顔色をうかがってみた。

 表情が硬い。緊張したように顔の筋肉が強張っているのに、垂らした前髪の下にあるまぶただけが神経質そうに伏せられている。その瞳には懸念や苛立ち、焦燥感といった感情が複雑に入り混じっているのが見てとれて、ぴりぴりとした空気を放っているのがこちらにも伝わってきていた。

 これはまずい……非常にまずい。今の雄助はまさに一触即発状態だ。実は男たちが数人がかりで雀を押さえつけて違法薬物を打った動画があるんだけど……、なんて言えるわけがない。そんなこと話してみろ、絶対にぶちギレるどころじゃすまない。

 そもそもこいつはこいつでかなり血の気が多いのだ。気性の荒さが目立つ比較対象が多いせいで相対的に穏やかな気質をしているように思われがちだが、実のところ雀にも引けを取らないレベルで気が短い。唯のときだって静かに話を聞いているように見えてやばいくらいキレていたし、もしも俺が行動を起こしていなかったら雄助は雀と一緒に竹河を半殺しにしていたことだろう。

 ……ここは、慎重にいかなくてはいけない。絶対に勘づかせないように、杞憂だと思わせるように。


「あんまり気にするなよ。どうせいつもみたく、あいつがなんかやらかしただけ、だって――」

「…………」


 努めて柔らかい口調を意識して、そんな諭すようなことを言おうとした途中で――しまった、と思った。

 言葉の選び方を間違えたわけじゃない。むしろそれ自体は最適解のものだったろう。

 ただ単に、タイミングを誤ったのだと、彼の目を見た瞬間にそう悟った。

 とっさに後ろへ下がろうとしたときにはもう遅く、瞬きをした次の瞬間には、雄助は俺の胸倉へと掴みかかっていた。

 そして。


「てめえは、ダチが――家族が! 大切なやつが危ない目に遭ってるかもしんねえってのに、なんでそんな落ち着いてられんだ!」


 咆哮のような怒鳴り声が、昼休みを迎えたばかりの廊下へと響き渡った。当然だが人通りはそれなりにある。だというのにその瞬間、周囲は水を打ったようにしんと静まり返ってしまった。

 しかしそれも束の間のことで、すぐに元の喧騒へと戻る――いや正確には、また新たにどよめきが起こった、と表現すべきなのだろう。なんだ、喧嘩か? 誰か先生を呼んできたほうが……、などといった声があちこちから聞こえだす。


「ゆ、……すけっ」


 襟口が閉まっているので呼吸ができない。幼馴染の名前を口にしたはずなのに、零れる声はまともな音にもならなかった。

 ああもう、ちょっと最近こんな目に遭ってばかりじゃないか? ひと月も経たないうちに胸倉を掴み上げられること四回目だぞこれ。前世で俺はどれだけの罪を犯してくれやがったんだ!

 さながら現実逃避かのように、前世の自分への恨み言を胸中へと吐き捨てる……と、そんな俺の襟元を締め上げる雄助の腕を、横から伸びてきた第三者の手が掴んだ。


「ちょっと、九条!」


 声を荒げるその姿があまりにも彼らしくなくて、思わず反応が遅れてしまったけれど、その人物を――萩原杏のことを、俺が見間違えるはずもなかった。

 まだ唯のところに行っていなかったのだろう。そして教室にいたのなら、ほとんど壁一枚しか隔たりのない場所で起こっている騒ぎなんて、そりゃあ気付くに決まっている。

 騒ぎに気付いて、その渦中に俺がいるとわかったから、彼は駆けつけてくれたのだ。


「何やってるんだよ、やめなよ!」

「うるせえ!」


 あんずは雄助を俺から引き剥がそうとしたのか、その腕にすがりつくように掴みかかる。が、彼の手は雄助の荒々しい動作によっていともたやすく振りほどかれてしまった。


「これは俺とハルの話だ、部外者は黙ってろ!」


 雄助はあんずに向かって怒鳴り、そして睨みつけた。そのすさまじい剣幕に気圧されてしまったのだろう、彼は怯んだように一歩後ずさりをする。

 あんずの手は雄助から離れてしまったものの、しかし雄助の意識はそちらへと向いてくれた。おかげで、今も胸倉を締め上げる手からわずかに力が抜けて、不自由だった呼吸が楽になる。


「あ……あんず!」


 ようやくまともに出せるようになった声で、俺はあんずに向かって呼びかける。


「俺は大丈夫だから……放っておいていいから!」

「で、でも……」


 困惑したような顔つきでこちらを見つめるあんず。無理もない、もしも立ち位置が逆だったなら俺だって彼を見捨てて置いていくような真似はしないだろう。

 けれど、だからといって激昂している雄助の矛先をあんずに向けさせるわけにはいかない。そんな思いが通じたのか、あるいは単に横から口を挟んだことが癪に触ったのか、幸いにも――と言っていいのかはわからないが――雄助の視線は俺へと戻る。襟口を掴む手に再び力がこもるのがわかって、俺は反射的に固く目を瞑った。

 そのときだった。


「――騒がしいな」


 氷のように冷たく透き通った声が聞こえて、外野を含めたこの場にいる全員の視線が、一斉にそちらへと向けられる。


「往来の邪魔なんだよ、君たち」


 果たしてその先には、さながら淡雪のような白磁の肌と、まさしく残月のごとき白銀の髪をもつ。

 雪村月見が眉をひそめて、そこに立っていた。

 彼女の姿を誰もが視認した瞬間、俺たちの周りにひしめいていた野次馬どもがそろって左右に分かれた。廊下を通ろうとする雪村のために道を譲った、というより、彼女の影を踏まないために廊下の端へと逃げた、というような動きで。まるでモーセの海割りである。

 ふと見れば、開けた人垣の先にいたのは雪村だけではなかった。三年A組――奇しくも雄助のクラスメイトである龍崎風歌も、その背に立っている。

 いや……奇しくも、なんて副詞を使うのだったら、それは雄助のクラスメイトであることに対してではなく、彼女が雀の対抗馬だったことに対して用いるべきなのだろう。

 龍崎が選ばれ、龍崎が勝利を得てしまったからこそ。

 あいつは今病院にいて、巡り巡って俺がこんな目に遭っているのだから。

 ……勿論、くだんの投票は龍崎の埒外で行われたのだから、彼女を責めるのはお門違いもいいところなのだが。


「つ、きみ……」


 不意に誰かの声が聞こえて、俺はそちらへと視線を向ける……と、雄助が狼狽のような表情で雪村を見つめている姿が視界に入った。いつの間にか彼の拳はほどかれていて、俺の制服からも離れてしまっている。

 見るからに取り乱している雄助の様子に、突然どうした、という疑問を挟む隙もなく――出し抜けに、雪村が彼の頬を張った。

 ぱしん、と。軽く乾いた音が立つ。思わず呆気にとられていると、彼女は続いて俺の頬にも平手打ちをした。雄助のときと同様に、いっそ痛快なくらいに乾いたいい音が響いたけれど、そんな響きに反して思ったより全然ダメージはない。

 とはいえ、呆然としていたところに追い打ちをかけられたようなものなので、どうしたって反応は遅れてしまう。そんな俺に雪村は一瞥もくれないまま、くるりと回れ右をした。白い髪が流れるように翻る様に、思わず目を奪われる。

 そして彼女は、何故かあんずにもビンタを喰らわせた。

 ……………………。

 いや、本当になんでだよ。


「ええぇーっ!?」


 悲鳴を上げたのは龍崎だった。


「どうして今の流れで萩原さまもビンタなさったの!? 明らかに仲裁なさっていた側なのに!」

「うるさいな。ついでだよついで」

「ついで!? あなたそんな軽いノリで人に平手を打つの!?」


 おお、俺たちが思っていることを全部歌姫が代弁してくれている……若干本性の地金が出てしまっているけれど、キャラを演じる余裕もないくらい彼女も動揺しているのだろう。


「いいんだよ、君は気にしなくても。さ、こんなやつら放っておいて、あっちで私とゆりゆりしようぜ」

「え、よろしいのですかっ? ……って違いますわ! さすがに今のは謝罪と説明を――あのっ、手を引っ張らないでくださいー!」


 喚く龍崎をガン無視して、雪村は彼女の手を掴むと、引っ張るというよりは半ば引きずるような形で強引に割れた人海のあいだを渡っていく。その足取りがいささか急ぎぎみだったせいか、引きずられている龍崎の足元が幾度か危ういことになっていた。

 そうして、あっという間に彼女たちの背中は見えなくなる。それを見届けてしまうと、なんというか、がっくりときた。

 突然登場したかと思えば瞬く間にシリアスな空気をぶち壊して、あまつさえ俺たちを放置したうえで早々に退場する。まるで嵐のような女である――いや、むしろこの場合は、吹雪と形容したほうがそれらしいのだろうか。

 ひとつ深い息を吐いて、俺は雄助へと目をやる。彼は呆然とそこに突っ立っていて、けれどその表情には先ほどまであった強張りはもう見えない。目からは激情の色が消えているし、光も戻っている。本当に、ただぼんやりと考えごとをしているだけといった様子だ。

 俺はそのことに心からの安堵を覚えて、それから気を取り直すようにあんずへと視線を向ける。


「なんか、変なことに巻き込んじゃってごめんな」

「へ、……あ、ううん。僕は大丈夫、なんだけど」


 全然痛くなかったしね、と笑いながら彼は自分の顎の辺りを撫でる。どうやら身長差があったせいで雪村の手はあんずの頬にまで届かなかったようだ。


「えっと……それで、遥は?」

「俺のことは本当に気にしないでいいから、あんずは唯のところに行っててくれるか」

「でも……」

「あいつを待ちぼうけさせるほうが可哀想だろ」


 俺はそう言って、再び雄助へと向き直った。


「行こう、雄助。な?」


 促すように彼の腕を掴むと、黙り込んだままではあったものの一応は頷いてくれる。その反応を確認してから俺は人だかりをかき分けて廊下の奥へと雄助を連れ出した。

 三年B組から離れて、適当な空き教室の中に入る。そして椅子に腰を下ろすのとほとんど同時に、


「……悪い」


 と、雄助が口を開いた。気まずそうに目を伏せてこそいたけれど、存外素直に謝罪の言葉を口にする。


「いいよ、別に。気にしてない」

「でも、かっとなって八つ当たりした……ハルが悪いわけじゃないのに」


 そういう思考に至れるくらいにはどうやら平静を取り戻しているらしい。ならそれでいい。いきなり胸倉を掴まれたことには、まあ当然驚きはしたけれど、元より俺はそれに対して憤りを覚えてなんていないのだから。


「ハルのことだから、俺を落ち着かせるためにわざとあんな態度を取ったんだって、少し考えればわかることだったのに」

「もういいって」


 少しだけうんざりした風の声色を装って言えば、そこでようやく雄助は顔を上げてくれた。すっかりしょげこんでしまっているその表情があまりにもらしくなくて、俺は思わず失笑してしまう。


「今日の放課後、鈴音と一緒にあいつの様子を覗いてくるよ。それを雄助に話せるかどうかは、実際に会ってみないとわからないんだけど……」

「ああ……うん、そうだな。ふたりによろしく」


 そう言って頷く雄助。真っすぐにこちらを見据えてくるその瞳は、もう沈んでなんていなかった。

 お互いの視線が正しく交差したことを確かめて、やにわに俺は彼に向かって拳を突き出す。そんな不意の行動に雄助は瞠目したようだったが、しかし次の瞬間には理解したらしく、彼は顔をほころばせると自分の拳を俺のそれにぶつけてきた。


「……スズのことは頼んだぜ、親友」

「ああ。任されたよ、親友」


 そう返しながら、なんて卑劣なのだろう、と自分で思う。幼馴染を案じているからこそ激昂して、それを親友に当たり散らしてしまったことで自己嫌悪に陥る……雄助は確かに気が短いけれど、だからこそそんな彼の感情表現はいつだってストレートだ。

 対して俺はどうだろう。慚愧に堪えないといった様子の雄助を見たくないがために、こうして意味のない慰めを言葉にしている。雀のことを頼まれたところで、それを確約できる保証もないくせに。

 こんな俺を、あの兄は道化と呼んだのだったか。

 まったくもっておっしゃる通りだ。



* * * * *



 金剛町に所在しているその病院は、古鷹高校の最寄りのバス停から一時間ほどの距離にあった。路線の都合、信号の数、雨天による渋滞、利用客の乗降などのロスタイムを加味しての一時間なので、平常時ならもう少し早く到着するのかもしれない。実際、地図アプリによると自動車なら二十分足らずで到着できる計算になるらしい。とはいえ放課後を迎えたばかりの学校にタクシーなんて呼んだら悪目立ちをしかねないし、さりとてこの雨の中を自転車で金剛まで行くというのも当然論外だ。

 そういうわけなので自転車は学校の駐輪場に置きっぱなしにして、金剛までの移動手段にはこうしてバスを利用させてもらっている。

 その病院は県を代表するだけあって立派な外観をしていた。大きくて、それでいて多少古臭さがあるような、そんな印象である。

 正面玄関から院内に入ると、特有の独特な清潔感の匂いがこもっているように感じた。どこか静謐さすら覚える匂いとは対照的に、広い待合ホールは喧騒に包まれている。夏らしく冷房の効かされた空間には、そろそろ診療時間も終わる時間帯だろうに、思いのほか外来の患者らしい人々でごった返していた。

 院内に足を踏み入れた俺は、そのままフロア内をぐるりと見渡す。すると待合ホールに並べられたパステルカラーのベンチ、そのもっとも端の席に腰かけている少女を見つけた。シンプルながら品のよさを感じさせるジャンパースカート。確か明高の制服だったはずだ。

 彼女のほうもこちらに気がついたのか、


「あ、ハルくん……!」


 と。火宮鈴音は不安げな表情から一転、心底ほっとしたように破顔してみせた。


「遅れてごめんね」


 彼女の通う明石学園女子高等学校――通称明高は、金剛町に所在しているお嬢様学校だ。この病院とご近所というわけではないらしいが、とはいえかなりの時間待たせてしまったことだろう。

 けれど鈴音は、


「ううん、いいの。ハルくんが来てくれて、本当によかった……」


 そう言って、彼女はおもむろにベンチから立ち上がる。入院病棟はこっちだよ、と先導するように歩き始めたので、俺は素直にその後に続くことにした。


「本家以外は面会禁止なんだってね」

「……うん」

「総帥殿は?」


 無言で首を横に振る鈴音。まあ予想はできていた。


「土日のあいだは夜鷹さんがずっと付きっきりだったそうなんだけど、昨日からは……」

「社畜極めてるからね、あの人」


 意図せず冗談めかすような口調になってしまったが、我ながらまったく面白くなかった。

 本当なら夜鷹は、仕事も責務も本懐も理想も、何もかもをかなぐり捨ててでも妹のそばにいたかったはずなのだ。あいつはそういう男だ。けれどそんなことをすれば間違いなく雀の怒りを買うだろうし、彼もそれをわかっているからこそ月曜には職務に戻ることを選んだのだと思う。

 自分のせいで、ではなく、自分を理由にしたことに、きっとあの女は怒るだろうから。

 火宮雀は大概身内に甘い女だ。しかし実兄に対しては異様に厳しい節がある。それは歳の離れた兄貴への反抗というより、自分が認めた相手――自分が尊敬するに値すると判断した者には、相応の人物であることを強要しているかのようだった。それはある意味、あの西城花姫とはまたベクトルの異なる苛烈さだといえるだろう。

 夜鷹にとってそれは相当なプレッシャーになっていると思う。実のところ、スペックそのものは彼女のほうが遥かに上なのだ。自分よりも優秀な人間から理想像を押しつけられるなんて、まさに想像を絶するほどの地獄だろう。

 けれどそれも、あの男の言を借りるなら――嫌になったらいつだってやめることができる、なのだろう。

 夜鷹は雀の兄であろうとしている。彼女の指針であり続けることを受け入れている。そんな男が、今更妹の期待を裏切るような真似はしないはずだ。

 それで言うと、悠哉は俺の兄であることを放棄した、ということになるのだろうか。まあそれに対しては、特段苛立ちもしないけれど。

 俺には姉さんがいるし。

 閑話休題。俺と鈴音は受付窓口の前に立っていた。面会終了間際の時間帯だったからかスタッフの女性はそれとなく難色を示したものの、俺たちと患者の名前を告げたとたん、その表情をさっと変える。そして、少々お待ちください、と言い置いて彼女は窓口の奥へと引っ込んでしまった。

 渡された面会証を手にしばらく待っていると、受付ではなく廊下の奥からひとりの看護師が現れた。中年を過ぎたくらいの年齢に見えるが、背筋をしっかりと伸ばした、どこか毅然とした雰囲気を纏う女性である。


「こちらにどうぞ、ご案内いたします」


 有無を言わせないようなその口調に、俺たちは言われるがまま彼女の背中に続く。

 それにしても、終了時間ぎりぎりの面会が叶ったり、見るからに上役っぽい看護師直々の案内を受けたり……こういうところで実家の権力を感じると、なんとも微妙な気持ちになってしまう。居たたまれないというか、申し訳ないというか。その恩恵にあずかっている立場なので何も言うことはできないのだが。


「火宮雀さんの容態ですが、いまだ血圧、脈拍などの数値にやや不安定さを残していますが、本人の意識自体ははっきりとしています。歩行にふらつきなども見られませんが、現在は大事をとってベッドで安静にしていただいています」

「はい」

「続いて精神面に関してですが、搬送直後はいわゆる錯乱状態に陥っていたことが確認されていまして、おそらくは摂取させられた薬物に由来するものと考えられます。現在は回復されていますので、問題なく対話も行えます。ご安心ください」

「……はい」


 ご安心ください。きっとそれは、俺たちへの気遣いから出た言葉だったのだろうけど、気遣われようが気遣われまいがあいつがドラッグの被害を受けた事実は変わらないわけで。それを思うと、安心なんてできるはずもなかった。

 雀が……あの火宮雀が錯乱状態に陥っていたなんて、にわかには信じられない――ただ単に、信じたくないだけかもしれないが。

 ……それでも、思っていたより容態は回復しているらしい。雄助に報告できることが増えたのは素直によかったと言えるだろう。

 エレベーターで目的の階に到着する。そのまま通路の奥に向かっていると、ところで、と不意に看護師さんがこちらを振り向いた。


「アサヒちゃん、というのは雀さんのお友達ですか?」

「え?」

「繰り返し呟いていたそうなんですよ、その子の名前を。うわ言のように、ずっと」


 そう言って、看護師さんは視線を前に戻した。どうやら特に深い意味があっての質問ではないらしい。

 しかしながら、アサヒという名前の女子に俺は覚えがなかった……まあ、あいつの交友関係なんて把握しているわけがないから、俺が知らなかったところでなんら不思議はないのだけれど。


「――はい」


 と。

 隣の鈴音が、静かな声で頷いた。


「とても大切な、お友達です」


 どこか神妙な面持ちで彼女はそう続ける。それが気がかりではあったのだが、こちらです、という看護師さんの声に俺の意識はそちらへと引っ張られた。

 そこは通路の一番奥の一室だった。看護師さんがノックをすると、どうぞー、と締まりのない声が中から返ってくる。その応答を受けて、失礼します、と彼女は扉を開いた。

 病室は当然のように居間付きのひとり部屋だった。冷蔵庫だのテレビだのは普通の病室にもあるのだろうけど、そこへ持ってきてデスクやユニットバスまで備え付けられている。飾り気のない壁や天井の白さがかろうじて病室らしさを演出しているが、そうじゃなかったらちょっとしたビジネスホテルの一室だと言われても疑念を抱かなかったかもしれない。

 そして、窓際に設置されているベッド――その上に、火宮雀は腰かけていた。


「やっと来たね、待ちくたびれたよ」


 まるでこちらを見透かしていたかのように、そいつは俺たちを出迎えた。謎に標準語の台詞で。

 彼女は入院患者らしい寝巻姿をしていた。とは言っても野暮ったいパジャマではない。フレンチスリーブのシャツとホットパンツは上下ひとそろいのデザインで、一瞥して高品質だとわかるルビー色の生地はほのかな光沢を帯びている。寝巻という呼び方は間違った表現じゃないのかもしれないが、これはルームウェアと呼んだほうが敵を作らずに済むだろう。そしてそれを身に纏っている雀は金色に染めた自身の髪に鋏を通しているところだった。

 じゃぎん、と。どう表現すればいいのか形容に困る音が聞こえた。え、と思ったときにはもう遅く、切り落とされた金髪は重力に従うままばさりと音を立てて床へと落ちていく……というかよくよく見たら、ベッドの下には既に取り返しがつかない量の毛髪が散らばっていた。


「……………………は、ぁ?」

「なーんてな、ツッキーの真似! いやー、いっぺん言ってみたかったんよなあ、これ! そんなわけでいらっしゃいリンちゃん! ってあれ、ハルもおるやん。ちょうどいいわ、あんた手先器用やろ? ちょっちお願いがあって――」

「何をしているんですかーっ!」


 唖然とする俺。隣で言葉を失った様子の鈴音。そしてドン引きしている俺たちに構うこともなくハイテンションで喋り続ける雀――その声に被せるようにして、看護師さんの怒鳴り声がフロアに響き渡った。

 いや、本当に何してんだよ、お前。


「だあーって、せっかくの個室なんに毎日風呂に入れんらしいし、部屋から出るな言われよるけん美容室にも行けんし、そのくせ退院の目処は立っとらんらしいし。手入れもまともにできんがやったら、こげなもん長ったらしくて鬱陶しいだけやわ」

「わからなくはないけど、だからって病室で断髪するやつがあるかよ……髪って、女子にとっては命みたいなものなんじゃないのか」

「髪は死んだ」

「ニーチェとかけたところで何もうまいこと言えてないからな」


 というかたった今お前が殺したんだ。雑に切り乱された金髪を見下ろしながら、俺はそう呟いたのだった。

 ところで、自身の髪を切ったり抜いたりする行いは、精神医学においてある種の自傷行為と考えられているらしい。髪は女の命、なんて使い古されたフレーズがあるけれど、だからそれはあながち誇張された表現ではないのである。自らの手で髪を断つという行動は、それほどに重い意味を孕んでいるのだそうだ。

 ……なのだが。こいつの場合、それこそ大相撲の断髪式のような男らしさを感じてしまうよな……。

 そんなこんなで今現在、俺は鋏を手にして雀の背後に立っている。彼女が腰かけている椅子の下には、看護師さんたちにもらった新聞紙やらビニールやらを敷き詰めていた。……そんなこんなってどういうことだよと思われるかもしれないが、正直それに関しては俺が一番訊きたい。

 切ってしまったものは後の祭りだ、という看護師さんの英断――諦観ともいう――のもと、後片付けをすることを条件に病室での散髪行為に許可が出された。そのために必要な道具を色々と貸してもらったのだけど、俺が持っている鋏も、実は院内の美容室から急遽借り受けたものである。

 本当、こいつが火宮の令嬢じゃなきゃ絶対に許されない暴挙だぞ、こんなの。

 ちなみに鈴音には清掃用具を借りにいってもらっている。使い走りをさせることになってしまったが、当の本人が喜々とした表情を浮かべていたので、まあ、別にいいのかもしれない。

 ここに来てからずっと不安げだった彼女の顔が、ようやく和らいでくれたのだ。それは雀の愚行のおかげ、というのも確かにあるのだろうけど――こいつのテンションが至って普段通りだったから、いつもと変わらない火宮雀だったからこそ、鈴音はようやく胸を撫で下ろすことができたのだろう。


「……ところでさ、これを整えるとなるとかなり短くなるからな。あとで怒るなよ」

「怒らんて。なんならハルとおそろでもいいわ」

「それは俺が嫌だよ……ていうかこれ、夜鷹にはどう説明するつもりなんだ?」

「うげっ」


 露骨に嫌そうな声を漏らす雀。どうやらそこまで考えが及んでいなかったらしい。本物の馬鹿じゃねえか。

 逐一つっこみを入れるのも面倒なので、黙って彼女の髪に鋏を通す。ある程度の長さまで切りそろえ終わったところで、デスクの上にあるすき鋏を取ろうと俺は一旦雀から離れた。

 すき鋏を手にして振り返る――そこでふと、椅子に腰かけている彼女の姿に意識が向いた。より正確にいうなら、彼女の脚に。


「……なあ」

「うん?」

「それ、……どうしたんだよ」


 雀が着ているルームウェア、そのボトムスは先ほどにも述べた通りホットパンツである。その裾から腹立たしいほどに長い脚が伸びているわけだが、いつもはあったはずの白い包帯が今日は巻かれておらず、その素肌が露わになっていた。

 そうして初めて目にした彼女の右脚には――腿の半分以上を覆い尽くすほどに、惨憺たる火傷の痕が広がっていた。

 初めて目にした、けれど、本当ならこのとき俺は見て見ぬ振りをするべきだった。踏み込むべきではなかったのである。

 それがメリットとデメリットを天秤にかけることでしか物事をはかれない、そんな俺にできるただひとつの最適解であり、最善策だったはずだ。

 普段だったらそれも敵っただろうけど、でも、さすがにこれは……。


「ん、そっか。あんた知らんもんな」


 対して、雀の反応はあっけらかんとしたものだった。唇には笑みさえ浮かべている。


「いや、まあ別に、大したことやないんよ。四年くらい前かな――中二んときに、あたしがやらかしたってだけの話やけん」


 そう語る彼女の表情は、果たせるかな、いつもと変わらない笑顔だった。

 けれど、どこか歯切れの悪さを感じさせるその言い方は、なんというか――


「……なんだかその台詞、あまりお前らしくないな」


 そうだ、そんな言葉は――まるで己(・)の(・)過(・)去(・)に(・)残(・)し(・)て(・)き(・)た(・)未(・)練(・)が(・)あ(・)る(・)とでも言いたげなその物言いは、あまりにも火宮雀らしくない。

 自分の行動は、紛れもない自分自身の意志で選んできたことだと、そう言っていたはずなのに。


「あたしは」


 あくまでも語調を落とすことなく、彼女は続ける。


「あたしはいつだって、あたしのために、あたしのやりたいことをやってきた。それを反省したことは一度だってない」

「だろうな」

「けど――後悔が、なかったわけじゃない」


 その言葉に、俺はふと、西城のことを思い出した。

 自分で選んだことに後悔したことなんて、ただの一度もないんですよ。

 俺はそれを聞いたとき、いつだったか雀も似たようなことを話していたな、と思った。しかし実際にはふたりのスタンスは明確に異なっている。そのことに、俺は遅まきながら気がついた。

 火宮雀は――未練とともに、生きてきた人間だったのだ。


「誰のせいにするつもりもない、あたしのせいや。あたしのせいやけん――たとえあいつに恨まれたとしても、文句は言えなくて……」


 その声は、こちらに向けて言っているというよりは、さながら独白のような響きをしていた。徐々に語尾が細くなっていくに従って、彼女の頭もうつむくようにして次第に下がっていく。そんな姿に、俺の中にあった火宮雀像が音を立てて崩れていくような錯覚を覚えた。

 ずっと苛まれてきた劣等感が、風前にある灯火のように、揺らいでいるような気がする――そのときだった。


「だああああああああ!」


 突如。雀は雄叫びを上げて、そしてがばっと勢いよく上体を起こした。


「暗くなるんはお終い! 薬のせいでやな夢見たけんテンションが引きずられちょるわ! もー、しんけん恥ずかしい! 今の忘れてな!」

「わ、わかった! わかったから騒ぐな、暴れるな!」


 既に病室断髪事件を起こしていることに加えて、こちらはその情状を酌量してもらっている立場なのだ。これ以上のトラブルを起こすことだけは絶対に避けなければいけない。誰もがこいつみたいに太い神経を持っているわけではないのだ。

 ……本当。ドラッグを打たれて救急搬送されたとは思えないくらい元気で、何よりって感じだよ。

 ともあれ、そうこうしているうちに雀の髪を切り終わったので、俺は柔らかい刷毛を使って――正式名称はわからない。なんかでかいメイクブラシみたいなやつ――肩回りの毛を払っていた。本当はバリカンとかで襟足を軽く整えたいところなのだが……手先が器用だからというだけで任された素人の散髪にしては、まあ、そこそこの出来栄えなんじゃないだろうか。

 床に散らばった大量の毛髪――何しろロングヘアをばっさりショートカットにしたのだから相当なものだ――は鈴音が捨てにいってくれている。彼女の戻りを待ちつつ俺は借りてきた道具の片付けを、雀はモップクリーナー片手に床の掃除を行っていた。


「ありがとなー、ハル。いやあ、すっきりしたわ!」

「別に。……なあ雀、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「なん?」


 俺は自分の荷物からスマートフォンを取り出して、彼女に問いかける。


「お前さ――『パンドラの箱』って知ってるか」



* * * * *



「……ふうん? なるほどな」


 そんな呟きを漏らして、雀はスマホの液晶から視線を上げる。彼女が手にしている端末は俺のものであり、そして表示されているのは、当然ながらパンドラの箱のページだった。

 今日にアップロードされていたくだんの映像はとっくに管理者権限で削除されている。西城のときと同じパターンだ。とはいえ、ログ自体はチャットルームに残ったままので、それを遡りさえすればおおよそのいきさつは把握できるだろう。

 画面をスクロールしているあいだ、雀はずっと顔をしかめていた。至極当然の反応だと思う。自分たちのあずかり知らぬところでなんの断りもなしに似非人気投票が行われていて、挙句、彼女と西城が襲われた原因はこともあろうにその投票結果にあったというのだから、無理もない。

 しかし雀は、それについては特に何を言うでもなく、


「あんた、ツッキーからなんか言われたか」


 と、俺に向かってそんなことを訊いてきた。


「何かって、なんだよ」

「うーん、ヒントとかなんとか。なんか意味深っぽいこと」


 なんだそれは。どうしてここで雪村の名前が出るんだ?

 質問の意図はわかりかねたものの、とはいえ一応、彼女との会話を思い返してみることにする。

 ヒント……竹河との一件のとき、確かに雪村からは色々と言われたような気がする。色々と、回りくどいことを。それは俺が事件の真相を知るためのヒントであり、そして俺を解答に到達させるためのヒントでもあった。だから実質的には答え合わせのようなものだったといえるのかもしれない。

 竹河たちの動機は、女子生徒を利用して薬物の利益を稼ぐことにあった。雀を襲った犯人どもはその犯行に薬を使用したそうだが、しかしドラッグの密売自体は古鷹の裏で広く行われていたことである。無関係とは断言できないけれど、あの男と雀の件に直接的な繋がりはないと考えていいだろう。それに、西城の一件もある。あの事件は宿木の逆恨みで行われたものだ。薬物とは結びつかない。

 そういえば、と思う。俺がパンドラの箱について尋ねたとき、雪村は紅野に訊けばいいと答えた。それはそれで確かにヒントたりえていたし、考察をするための参考にもなったけれど……彼女はそのあと、俺に向かって何かを吐き捨ててはいなかっただろうか。

 こちらに意図を読ませるつもりもないのに、含みだけは嫌というほど持たせまくった、そんな台詞を。

 ――君がいいなら別にいいんだけどね、私にとってはあまりよくないんだよ。

 ――そんなどうでもいいものに興を持たれちゃ敵わない。

 ――君の優柔不断に巻き込まれるのは、御免だからね。


「…………女子と乳繰り合ってりゃいい、とかなんとか。そんなことを、言われた」

「ははーん? なるほどなるほど」

「それがどうしたんだよ」


 シニカルな笑顔を浮かべる雀。何かが腑に落ちたといった様子だが、俺のほうはいまだ釈然としないままである。


「一杯食わされたごとあって悔しいけん、ちょっとばかし意趣返ししちゃろ思って」


 彼女はそう言って、ひどく愉しげに唇を歪めるのだった。

 ほどなくして鈴音が部屋に戻ったので、俺たちは帰宅することにした。雀の病室を後にして、ふたりでエレベーターホールへと向かう。呼び出したそれに乗り込んでボタンを操作すると、ややあって扉が閉まった。かすかな下降感とともに箱が動き出したことを感じながら、俺は深くため息をついた。


「お疲れさまだね」

「まさか他人の髪をカットする羽目になるとはね。人生ってわかんないな」

「あはは、それは本当にそうだね。でもいい感じだったよ。やっぱりハルくんは器用だね……スズちゃんも元気そうで、本当によかった。あの様子なら、きっとユウくんたちも安心できるね」

「ああ、そうだな。……あのさ、鈴音」

「うん? なにかな」

「アサヒって子の話、聞いてもいいかな」


 俺の問いかけに、鈴音の笑顔がほんのわずかに強張ったのが見えて、やはりいけなかったかと思った。


「……そっか。ハルくんは知らないんだよね」


 彼女は、切なげな表情をして、そう言った。

 似ていると思ったのだ。雀に火傷の痕について尋ねたとき、過去の未練を滲ませた彼女が一瞬だけ見せた表情と――看護師の口から、アサヒという少女の名前が出されたときの、鈴音の表情が。

 まるで遠くに行ってしまった誰かを想うような、そんな眼差しをしている彼女たちが、俺には酷似しているように思えてならなかったのである。


「お友達だよ」

「友達、ね」

「うん。私たちにとって、とても大切なお友達だったの」


 その声音はとても穏やかなものだった。鈴音は唇に微笑をたたえて、言葉を続ける。


「火事で亡くなったんだよ。四年前に」

「…………」

「スズちゃん、ずっと後悔したままなんだね」


 四年前の火災で亡くなった少女と、四年前に見るに耐えないほどの火傷を負った彼女。

 それが……火宮雀の残した未練なのだろうか。

 と、そのとき――視界の端で、何か光るものが零れ落ちたような気がした。反射的にそちらへと目を向けると、そんな俺の視線に気付いたらしい鈴音と目が合う。

 彼女は泣いていなかった。けれど俺は、その目尻が濡れていることに気がついてしまう。


「ごめんね、悲しいわけじゃないんだよ。突然のことだったけど、お別れはきちんと済ませられたもの。……思い出は、今も心の中にあるから」

「うん」

「でも……この気持ちをハルくんと共有できないのは、ちょっと寂しいかな」


 本人の言葉通り、鈴音の表情は決して悲しげなものではない。笑顔だった。ひどいくらいに優しくて、いっそあどけないほどに切なげなその微笑に、俺は舌の上に苦いものが広がるような錯覚を覚える。

 だから甘味で上書きしたくなって、俺は荷物の中から常備している飴のパッケージを取り出す。その袋の開け口を鈴音に向けて差し出すと、彼女はきょとんと目を丸くして、それからおかしくてたまらないとでも言いたげにくすくすと笑い始めた。


「ハルくんは変わらないね」


 そんな言葉に、俺は我知らず、天野唯のことを思い浮かべていた。そういえば今日は一度も彼女と顔を合わせていないな、とそんなことに今更思い至りながら、適当に選んだ飴のフィルムを剥がして口に含む。

 奇しくもそれは、あの金色の少女が好きなレモン味だった。

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