賽は投げられた―始―
目を開けた瞬間、意識が覚醒する。
昨日は気持ちよく眠れたからか、朝は信じれないほど眠気が無く、とてもさっぱりとした爽快さを覚えた。
だが、心地の良い朝だと、とてもじゃないが思うことは出来たなかった。
……天気いいな。
窓に映る、入道雲の群れは有名な画家が描いた作品から溢れ出たのではないかと思うほど夏を大いに感じさせるし、美しい。だが、今の志穏にとっては気だるさを思わせる青さだ。
……1回寝て目が覚めたら、元の世界に戻ってる。なんてことを少なからず期待していたのだが、そう上手くは行かないようだ。
セシルがいれば安心だ。だが、これから何をすればいいんだ。
そう思うとどんな景色も焦燥感に呑まれてしまう。
志穏は身体を起こし、遅いメトロノームみたいな鈍い足取りで部屋を後にする。
今更なのだが、この世界では夏なのに蝉の声が聞こえない。10万年の時が経ったから、絶滅してしまったのだろうか。
そう思うと、いつもうるさくて仕方のなかったあの声の一つ一つに耳を傾けておけば良かったと後悔する。
後悔と言うほどのものではないかもしれないが、えらく感傷に浸ってしまう。
今までの彼等の声が断末魔だったのではないかと思ってしまったからだ。
彼らは何か違う生き物に進化していったのだ。
何故かそう願った。
ゆっくり階段を下る。
2人はもう起きているのだろうか。携帯や時計が部屋にないから、時間もまともに分からない。
1階に降りた。居室からは声が聞こえる。2人の、セシルとグレイブの声だ。
何か、話し合いをしているように聞こえたので立ち止まった。
「これから、どうする?奴らは絶対に逃がさないぞ。」
「けど、これ以上何かを失いたくない!アイリ達に招集をかければ、きっとなんとかなる。」
セシルは感情的な叫びを上げた。それを聞きグレイブは押し黙る。
……何の話をしているんだ?
居室の入口の横で壁に身体を這い寄らせ、かくれんぼみたいに息を殺して、中を伺う。
…入るべきか逡巡するが、決心して志穏は居室に入った。
「おはよう!」
「お、おはよう…!」
2人は驚くようにしてこちらを向いた。
セシルがやんわりとした笑顔を浮かべる。それが愛想笑顔だと、志穏はすぐに分かった。
彼女の碧色の瞳がくぐもっているように見えたからだ。美しい湖面に泥を投げ入れたみたいに淡い黒さが瞳に広がっていた。
……きっと何かあったのだ。
「二人ともなんかあったの?」
つい馴れ馴れしく言ってしまったことに"失敗した"と舌を出す。
「えっと、ね~何から話そうか……」
「大切なことだから、よく聞いて。」
とてつもなく広大な敷地。
その中に大きく構えた白いホワイトハウスのような建物やそれに林立して、低い背の黒いビルが3軒。
それらは古代ヨーロッパの城にありそうな洒落た城壁に囲まれていて、おどろおどろしい雰囲気で一帯を支配している。
それは第8能力卿機関 「中央省」 の名にまさしく相応しい。
その周りには前に見たビルとほぼ同じものが林立していた。
等間隔に道が置かれているので、碁盤の目状のように何か規則正しく配置されているっぽい。
さっきまで通った道は沢山の人が行き交っていて、繁盛していた。
だが「中央省」に繋がる大路は嘘のように人波が途絶えていた。いるのは警備員くらいだ。
また、空間の温度が桁違いに下がっている。
「中央省」の敷地一帯は底冷えするくらいに涼しい。
悪寒のような寒ささえ感じる。
ここで俺は死ぬのか…?
身震いがした。ネガティブな考えは今はよした方がいいな。
気がつくとセシルが目の前にある大扉の前に立っていた。そして左目を大扉の左横に近づける。
すると大扉の横から「完了」という文字が流れ、大扉がゆっくりと開く。地面の細やかな凹凸が大扉と擦れて、少しつっかえたりする。
ちらりとセシルの表情を覗き見たが、かなり緊張しているように見える。
その証拠に、セシルは表を正面に向けていたが、瞳は目のやり場に困っているみたいにチロチロと視線の向きを変えて、一向に定まらない。
そして、庭園を超えて中へと進む。館内はやはりとてつもない広さだ。中は淡白な白に覆われ、底が高く、左右にはいくつかの分かれ道があった。
セシルは"こっちよ"と先導してくれる。
だが、その道は1番志穏にとって予期しない道だった。左右の岐路ではなく、ど真ん中の大通りだ。会議場連絡通路と横に書かれている。
庶民以下の俺が中央省の建物、しかも会議場に行くなんて…夢にも思わなかったぞ。
鳥肌は一層強くなり、震えが連動的に起こる。自分がちっぽけなゴミだと気付かされるほど大きな存在と今から対峙するような気分だ。まあ、実際そうなのだが…。
会議場へ繋がる通路に今にも竦みそうな足で歩く。
何が起きるか分からないという恐怖が全身をヌメリとした感触で包む。
出来れば着かないでほしい…廊下がこのまま延々と続いてくれた方が幾分ましだ。志穏は切実に思う。
だが、向こうからの光は刻々と近づき始めてきた。こういう時の時間の経過はとてつもなく早いのだ。
2手の岐路が現れた。するとセシルが"右に曲がって"と言うので志穏はセシルに従うがまま着いて行った。
目の前に広がるのは深淵のように深く、薄暗い。そんな場所だ。
雰囲気は大きな洞窟の中みたいで閑散としている。
そして、次に目に飛び込んできたのは白色が輪郭をなぞっている十字架の形をした8つの椅子だ。円を作るようにしてそれが配置されている。
その椅子には既に6人が座っていたのが辛うじて見えた。
なんだ…これは。志穏は呆然と立ち尽くした。
セシルは志穏の目の前にある十字架の椅子に座り、グレイブはその横に立っている。
…無風無音。恐怖すら思わせる静けさに心臓が爆発しそうな程、緊張する。心臓の拍動が頭に移るようにして、じんじんとこめかみあたりが痛くなってきた。
早く!!始めるなら、早くしてくれ…。
すると――
「やあ、志穏くん。」
不意に名前を呼ばれ、いささかキョドる。
8つの椅子が並ぶ円の真ん中、中心に男が現れた。
驚愕する。あの場所に人なんていなかった。なのにこの男はその事実すら踏み潰し、嘲笑うようにしてそこにいる。
突然、空気そのものに焼き付いて出てきた得体の知れぬ何か、なのではないだろうか、本気でそう思った。
困惑の中、漆黒の闇に目を凝らして、男を視察する。
残念ながら、姿形は薄暗くていまいち分からない。
何なんだ、奴は…。
人に近いが人で在らず、幽霊に近いが幽霊で在らず。
志穏から見て、男はそんな曖昧な言葉でしか捉えれない、不透明で不明瞭な何かなのだ。
威圧を放ちながらただ、そこに立っている。
この男……危険だ。
第五感が訴える。
「それじゃぁ始めようか。」
男はそう言った。