狼煙
志穏の頭の中に浮かんでいたいくつかの感情が熱で溶かされたみたいにどろりと形を失った。
目に映る"それ"がなんなのか分からないと同時にいくつもの疑問が脳内を駆け巡ったせいで頭が白紙になったのだ。頭の中が空っぽな気がする、飲み干されたジュースのコップみたいな気持ちだ。
いや、今はそんな叙情文浮かべる時じゃねえ!えっ、えーと状況をまず整理しろ、と志穏は意識を取り戻し、もう一度左手を見る……
碧色で刻まれた五芒星。その輪郭線から漏れでるオーロラみたいに朧気な光。少し蛍光ペンに似た色合いだ。
かなり深く刻まれているが痛みは感じない。
これはなんだ? ……!! そうだ。俺はこの世界に来る時に手の平をナイフで刻んだんだ!
目の前に映る刻印がなんなのかやっと理解できた。
だが、血が固まったとしても普通こんな固まり方しないし、第一に碧色の血など出るはずもない。青色にしろ、緑色にしろ、それはイカやホヤの話だ。人間でこんな不気味なことにはならない。
新しいことが判明するとそれを数珠繋ぎにして新たな疑問が浮かんでくる。
それと同時に自分が何か違うものに化けたのかもしれないとあるはずのない恐怖を感じた。
「おっ落ち着けよ。志穏、そんなやばいもんじゃないだろーよ。」
グレイブが陽気に言うが、本人も少し動揺しているのが見て取れる。セシルはどんな反応してるんだ?
「そ、それて……レイの?」
セシルはわなわなと肩を震わせながらか細い声でそう言った。
………………レイ? なんだそりゃ。誰かの名前なのか、それか呪文か?
「姉さん、そりゃ禁句じゃねえか?」
さっきより一段と低いトーンの声が響く。
ぞわりとした感触が肩を撫でた。志穏はぱっとグレイブを見る。
グレイブがセシルを鋭く、睨みつけているのだ。今までの目付きを格段と悪くさせ、セシルに噛み付くような姿勢で。
セシルは目を伏せながら、視線をうろつかせ、グレイブに目を合わせようとしない。まるで悪いことをして親にドヤされた子供みたいだ。
今まで、仲良さそうだった兄弟間の雰囲気が一気に凍りついていた。
えっどうしよう、この雰囲気。
同時に志穏が蚊帳の外に追い出される。二人の間に入れる気がしない。(入りたくはない)
ただ頭の中にある疑問は解決させたかった。何故、この左手を見て、セシルがあんなことを言ったのか。そしてこれに関して、何か知っているのか。なので志穏は嫌々ながら2人の中を割って入る事にした。
「えっそのー、俺が悪いのかな?ごめんよ。何か、この左手がそんなに不快なものなのか?だとしたら、謝るから、二人とも、もっと仲良く行こうぜ。」
助けられてる側の分際で何言い出すんだよ、と志穏は心の中で苦笑した。
するとグレイブはハッとした顔をして、表情を少し崩した。
「いや、志穏は決して悪くねえよ。悪いのは俺らだ。すまねえな、変な雰囲気にしちまって。」
チラリとセシルを一瞬睨めつけたたが、だがすぐに志穏の方へと向いた。
するとセシルもおぼつかなかった視線を志穏へと定めて、申し訳なさそうに話す。
「志穏、ごめんね、変な感じにして。今のは忘れて欲しいな。」
今のにはもう触れるな、そう言われた気がした。
「おっそうだ。二人とも夜ご飯食べよ!志穏もお腹すいたでしょ。」
やんわりとした笑顔を向けて、セシルが言う。そんなとても可愛らしい笑顔を直視出来ずに下を向いて返事した。
「うっうん、ありがとうね。」
正直、想像もしない展開だった。さっきまでの陰鬱とした雰囲気がいとも容易く、打ち消されたからだ。呆気ない、という言葉に近い感じだ。
それはともかく、夜ご飯って現実世界と同じなのだろうか。まあ、食えれば別にどうでもいいんだが。
―――――――――1時間後。料理が出来上がった。
一言で言うととても華やかしく、贅沢な料理だ。
大きなダイニングテーブルが居室の真ん中セットされていて、その上に野菜、肉、米、あとよく分からない緑色のゴツゴツとした果実などがある。
芳しい匂いが鼻腔をくすぐる。そして、衝動に近いような空腹感が湧く。よだれが垂れそうになった。
「すっげぇ美味そうじゃん。本当にこれ食べていいのか?」
目とよだれを輝かせて志穏は言う。その志穏から伝う高揚感を感じ取るや否や「どんどん食べて。」とはにかむように微笑んだ。
グレイブはダイニングテーブルの端っこの方で胡座をかいている。何故だろうかいつものイメージと相反して可愛らしく見える。(ホモではないぞ)
そんな事は今はどうでもいい。志穏はかぶりつくようにして料理を頬張る。
味は想像通り、絶品だ。野菜はシャキシャキとして新鮮で、特に肉は信じられないほど甘味があり、弾力がある、飲み込んだヨダレさえも美味しく感じるほどだ。現代のA5ランク肉とはこれくらいの事なのだろう、舌づつみを打ったことは言うまでもない。
そして問題の果実?だが、水水しいイナップルのような味をしていた。もちろん美味だった。
何か食べさせろ、と唸っていた志穏の舌を黙らせるくらい、美味な食事だった。今まで食べた物の上位ベスト3には入るのではないか?と思う程だ。
また、1つ新たな発見があった。食事は箸を使うのではなく、棒を使うということだ。
その棒はボタンを押すとガチンと重い金属音を鳴らし、その先端の周りに皿に盛られた料理を漂わせるのだ。
宙に浮いた食べ物を食べるとか少し行儀悪い気もする。それにどっかのドラ○モンとかが出しそうな道具に似ている気がした。
十分、箸の方が使いやすい。
時刻は8時を回ったくらいだろう。2人は居室でくつろいでいた。志穏はセシルにある質問をする。
「なあ、セシル。この世界は風呂に入るっていう時間がないのか?」
「風呂?それはあなたの世界だとどういうものなの?」
うっ、言葉に詰まる。変な説明の仕方は避けたい所だ。
「か、体を洗うことだ。」
よし、無難最高。言葉足らずな気もするが大丈夫だろう。
「あ~トレックのことか。」
名前の感じからして、日常生活に行う感じではないのだが…。
「そっ、それよ。」
「嫌だなぁ、志穏。やらしいなぁ?」
上目遣いをしながらセシルがこちらをじっとしとした双眸で見つめる。ぐんと、体を近づけ、豊満ではないセシルの胸が。志穏の胸板に当たりそうになる。肩までの茶髪も跳ねるように揺れた。
い、いやらしいのはてめえだよ……でも、可愛い。
頭の中が一瞬、目の前の美少女の突発的行動によりパニくる。
やべえよ。あんま見たら……やべえよ。
……おそらく、かなり紅潮しているんだろう。今の俺の顔。
「そっその!…とレックってやつは何時やるんだよ?!」
「あっ時間ちゃ時間だな~、今からここでするね。」
………………!!!!!!!???????
こいつ何言ってんだよ!?……そんなの耐えれる訳ないだろう!
目の前の美少女がここで脱ぐの!!?
志穏は興奮と緊張のあまり、頭がポーとしてくる。鼻血も出そうな勢いだ。
セシルがしようとしている馬鹿な事を早く、止めないと。それなのに声が出ないのだ。
もしかして、期待してるのか?自分に問う。……そりゃ、高一男子ですから、しょうがないですよねぇ?
頭の中で天啓が鳴り響いた。答え明白じゃねえかよ!
すると、セシルがこちらのことをお構い無しに服を手に掛ける。衣擦れの音がいやに色々生々しい。
やっ!やっやめろぉぉぉぉぉ………。
タタッ。……何かをタッチする音が聞こえる。
目を開けるとセシルは服など脱いでいなかった。その代わり、目の前に奇怪な光景が広がっていた。
セシルの頭上の虚空から天使の輪みたいなものが広がり、そこから青い液体が彼女目掛けて落ちてくるのだ。
それに身を任せるようにセシルは目を閉じていた。その姿は西洋の教会にある彫刻みたいな静謐な何かに見える。
そしてその液体をセシルが浴びた。
表情を伺ったがとても気持ちよさそうに見える。
床に触れた液体はPON!と軽快な音を鳴らして弾けるようにして一瞬で消えていった。そしてどんどんそれは消えていき、液体の出現は止まる。そして虚空の輪っかは窄まっていき、これまた、やがて消えていく。
ものの数十秒のことだ。
えっ…何が始まって何が終わったの?志穏は唖然とした。
「セシル、トレックってそれで終わり?」
「うん、そうだよ?逆にまだ何かあるの?」
いや、そんだけかよぉぉ!!
叫びたい衝動に駆られるが何とか抑える。
つうか、どこが"やらしいなぁ?"だよ!やらしい要素一欠片もねえじゃねえか!……あれっなんで俺は怒ってるんだ?
これが寝る前のちょっとした一幕である。
ちなみに"志穏もする?"そうセシルにトレックを勧められたが、意気消沈したため遠慮しといた。
時刻は8時過ぎくらいである。現実世界とは違い、こっちは寝る時間が随分早いらしく。二人共、もう寝てしまった。
俺も一日中疲れたし、もう眠れそうだ。
思えば、まだ1日しか経っていないのか。ここまで一日が濃密だと、時間感覚が狂っているように思えてしまう。あっちとこっちに時差があるのか、あっちの世界に夕方までいたのに、こっちの世界では昼からスタートし、今に至る。
なるほど、確かに俺は普通より長く一日を過ごしていたのだ。
計算すれば、今日朝起きたのが8時とし、今の時間寝るとすると活動時間は半日だ。
だが夕方6時までは確かに一日を過ごしたにも関わらず、無理やり、時間を逆戻しされ、昼からもう一度スタートし、今午後8時だ。
数時間も常人より長く一日を生きたのだ。そりゃエネルギー消費も激しいわけだ。さすがだ俺。
そんなよく分からない勝者の余韻みたいなものに少し浸る。
………………………………………。ベッドの上で志穏は左手の平を睨みつける。
これは本当に何なのだろう。この左手だけではない、謎は尽きぬばかりだ。
少しずつ睡魔が志穏を蝕んでゆく。瞼が重くなり、天井の映る視界もベニヤ板みたいにひらべったく、薄い。
徐々に思考が微睡みに飲まれていく。その最中、気になっていた"謎"がフロントガラスに付いた雨粒みたいにポツポツと頭の中で浮揚した。
まず、セシルが言ってたレイってだれのことだろ。人かどうかもまだ決め兼ねるが。
"気にしなくていい"セシルはそう言っていたが、そう言われて本当に気にせずにする人間などどれだけいるのだろうか。
それに高ノ瀬秀次とは一体何者なんだ。ここまでくると、ただの"叔父さん"ってことはさすがに無いだろうムニャムニャ
じぶんじしんもなぞなのだムニャムニャ……この左手はいったいなにをいみするんだ。そしてなにをしたら俺は現実世界にかえれるんどぁ。なにかおれにやくめでも-------------。
アルカリ電池が切れたみたいにプツリと意識が途切れた。そしてばたりと志穏は眠りに着く。
そうして、長くて、億劫な一日は終わりを告げた。
昨日までの日常が奪われるのだ。
セシル、が空中パネルに対し、怒号を浴びせている姿を見て、グレイブはそう思った。
セシルの表情はかなりの動揺と焦りを含んでいた。
多分、誰かと話している。願わくば、志穏のことでは無いといいのだが……。
不吉な事は考えるべきではない、とグレイブは別のことに目を向けた
それにしても姉さんは一体何を考えているんだ。そろそろ言うべきだろ……自分が第8能力の継承者であることを。
グレイブはテーブルの上で胡座を掻き、そう思った。
かなり大きな事だ。志穏もすぐに気付いてしまうだろうし、あんなに必死に隠蔽する必要はないのではないだろうか。
それにしても眠い…。グレイブは目を擦る、昨日から立て続けに物事が起きすぎていて、布団に入ってからも中々寝れなかったのだ。
一夜空け、それでも未だに半信半疑な自分がいる。自分達が引き取った青年が別の世界から来たなんて…しかも滅んだはずの第1人類の住む世界とは。まあ、これをすぐに鵜呑みにできる人間など相当肝が座っている人か、馬鹿な奴しかいないだろう。
閑話休題、セシルの対応は何故だろうか、グレイブには不自然に見えた。
俺は姉さんとは生まれた時からずっと一緒に過ごしていたから、何となく彼女の表情から感情が分かるんだが……俺が感じた、その感情は………"興奮"だった。
補足するが、決してやらしい意味でのものでは無い。
なんというのか…例えば"流れ星"とか"ダイヤモンドダスト"
、それらを初めて見た時に人はきっと興奮するだろう。
喜びとか感動とか様々あるだろうが、それと並列して、興奮も必ずある。そういう感じの何かをセシルが感じているのをグレイブは傍受した。
間違っている可能性だってある、なんなら確信に至るほどの信憑性もない、憶測に近いものだ。
だが、これだけは確かだ。姉さんはあの時、"志穏の何か"を見定めていた。果たして、一体何を―
ピ!会話を切る音がした。グレイブは瞬時にそちらに意識を傾ける。
見ると、セシルは無言で床を見つめている。漠然とした不安に向き合っているような顔をしていた。
「ねっ、姉さん。一体どうしたんだ?」
「とても………まずいことになった。」
胸のざわめきがより一層強くなるのを手で触れたようにハッキリと感じる。
緊張でこめかみの血管がバクバクと、破れそうなほどに鳴り響く。
何もまだ聞いていないはずなのにその先が何なのか、何となく読み取れてしまうことがたまらなく、嫌で仕方ない。
どうか逆の答えを出してくれ!そう嘆願するがセシルから醸し出る負のオーラはその望んだ答えにはどうにも似つかない。
おそるおそる、セシルに再度、尋ねる。
「何がだ?」
セシルは辛苦の表情を浮かべながらも冷静な声で答えた。
「中央に、志穏の存在がバレた。」
グレイブは絶句する。