戻してあげます
目覚めから一週間がたった。
俺と言う偽者の人格が始めて出現したんだから目覚めという言葉ほど似合うものもないだろう。
担当医者の土井先生の話では、莫大なストレスによる解離性障害の一種ではないかと診断された。だがあくまでも一時的なものである可能性が高いから安定した時間を送るうちに治るかもしれないとも言われた。
治るって何だ。つまり俺が消えて8才のガキしか残らなくなるって言うのか。
目覚めてから何日かは皆戸衛という人間が確かに存在したと主張した。それの根拠として俺の8才らしからぬ知識を披露した。
だがこの酒井南斗というガキはあまりに優れていて俺の邪魔をするに値する子供だった。いわゆる神童だったのだ。
話を聞くと酒井南斗は元から東京に住んでいたという。
俺が持つ東京の知識は、東京に住んでたときの酒井南斗の知識から持ってきたものであるといわれた。認めたくないが大人である俺としては筋が通ってる話だから頷くしかない。
大学の知識を披露したらもしかしたらイケたかもしれないが、残念ながら俺は高卒だ。高校の知識は神童さまでいらっしゃる酒井南斗なら分かるはずだと。
だいたい一人で東京から岡山に来た時点で何も言い返せなかった。少なくとも俺が8才の頃はそんな芸当は出来なかったから。
「た、食べる?」
もしものことを考慮し、もう少し入院していようって話になった。
そして今この病室は俺と、酒井南斗の母親である藤井裕子さん二人だけ。
俺はベッドで重い空気を抱いたまま座っていて、彼女はベッドの横の椅子に座っていた。
一週間も経つとお互い色々覚悟することが出来た。
俺は俺と言う存在の無意味さを。彼女は息子に起きた悲劇を。
「いただきます」
彼女が俺に差し伸べてきたイチゴをもらって口の中に放り込む。甘い酸味が口の中に広がる。
「今は、春、ですね。冬じゃなく……」
「うん、そうだよ」
「……」
「……」
正直にいうと非常に気まずい。
俺の歳は28才だ。作られた人格であれなんであれ俺がそう感じているから俺は28才だ。そして9年が更に過ぎているから今は37才って話になる。
そして我が母となるこの女性の歳は、今年で27才だ。
わかるか。実際問題10才も差があるし、たとえ9才足してなくても俺の方が年上って話になる。
土井先生にその話を聞いて彼女は「でも本当は子供なんでしょ?」って思ったらしいが俺と一週間話してきて、本当に俺が大人だと理解したみたいだった。
「それで皆戸さん…?」
「今までどおり南斗くんでいいですよ。どうせ俺は消えます」
「……」
思いのほか鋭い言葉が出てしまった。彼女は悪くないのに大人気ない態度をとってしまった。
「俺の…母親なんでしょ?」
「う、うん…でも私より年上っていうし…」
「気にしなくてもいいですよ」
「やっぱり大人…なんだね」
俺が彼女を気遣う度に彼女は俺は大人であると実感する。
そして彼女の悲しみにも似た眼差しを見るたび彼女は母親だと知らされる。
だが実感を掴めない。
「南斗くんではなく皆戸…さんについて話してくれる…ますか?」
静寂の末、彼女が話を切り出した。一週間の間、それと似たことを聞いてきたのは担当医である土井さんだけだったのに。
彼女としても勇気を出したんだろうか。なら紛い物なりにも年上である俺がくよくよしてる訳にもいかないな。
「いいですよ。でもタメでいいです。息子ですから」
「いいえ…でも…」
「いいですってば。か、かあさん」
「……」
こっぱずかしい…!
年下の女性にかあさんって呼ぶのは思いの他、物凄く恥ずかしいものだった。特殊な性癖の持ち主でもないかぎり、年下を母親呼ばわりする機会はそうそうないだろう。ましてや彼女をママって呼ぶなどできるはずもなかった。
「うっ…うう…くすん」
「藤井さん!?」
「ごめんなさい。母と呼ばれるのが嬉しくて…」
「……」
聞いた話によると、南斗くんは母親と離れ離れになれ父親の元で東京で暮らしていたらしい。
藤井さんはいわゆる遊び相手で本気ではなかったものの子供が出来てしまったのは事実。それに神童だとわかった父親は親権を自分が取り息子の南斗くんを連れて行ったという。
「私は中卒のバカですからね。そのまま子供を奪われました」
昨日そういってた彼女の泣き顔が忘れられない。
その腫れた目には、自分の息子の稀なる運命に対する母親の嘆きもあった。
南斗くんの父親には妻がいて、その間から生まれた子もいたらしい。
他の女から生まれた子が自分の子より優れた神童という事実。それを耐えられなかった妻から虐待を受けたのだろうか。岡山の母親の元まで逃げてきた南斗くんの全身には執拗に虐められた傷跡でいっぱいだったという。
「俺の話…ですか」
「…はい。聞かせてください」
「いざ話そうとする緊張しますね」
「…ふふ」
ようやく彼女が笑った。どんな関係であれ、もう俺と彼女は他人ではないのだ。家族…と言えるかどうかは今は分からないが少なくとも彼女のことを冷たくあしらう気にはならない。いやむしろ彼女には笑っていて欲しい。
彼女と南斗くんの人生は辛い記憶でいっぱいだから。
「そう…ですね。俺には両親がいません」
「どういう…ことですか」
「言葉通りです。孤児なんですよ俺は」
俺は生まれて捨てられた。理由は知らない。
捨てられた俺は孤児院に送られそこで暮らした。
妻である奏と会ったのもそこでだ。
「妻…? け、結婚してたんですか!?」
まぁ息子が自分が知らない間結婚してたって感じだろうし。
「俺と奏…妻は二人も孤児で同じ孤児院出身なんです。そうですね…謂わば幼馴染ってとこでしょうか」
俺の顔をじっと見てた彼女は言った。
「好き…だったんですね」
「愛していますよ。今も」
たとえこの記憶が、感情が、魂が偽りの紛い物だとしても。俺が彼女を愛する気持ちは決して変らないだろう。
それから俺の記憶にある俺の人生を一つ一つ紐解いて藤井さんに聞かせてあげた。彼女はまるで御伽噺を聞く少女の顔をしていたが、時々己の子を慈しむ母の顔を見せたりもした。
「…そして子供も出来ましたね。顔は見てませんが」
「…見てない?」
「妻の予定日が近づいた頃が俺の最後の記憶だからです」
「…!」
そこまで聞いて彼女はまたその大きな目に涙を溢れさせた。
「よく泣くんですね」
「涙脆いんです、私」
俺は自分が知らぬうちに手を伸ばせ彼女の涙を拭いていた。藤井さんもそれに驚いたのか目を丸くして俺を見る。
「自分でも驚いてます。南斗くんがそうさせたんでしょうか」
「皆戸さんは、拭かなかったんですか。その…奥さんとか」
「奏は、全然泣かなかったですよ。芯が強いと何と言うか。子供の頃から一緒にいたのに、泣き顔をみたことがありません」
「私と反対ですね」
「そう…ですね」
解離性障害、それも同一性障害は、ストレスの要因から自分を守るために人格を作り出しそれの隠れることが多いらしい。
俺の名前が衛なのも、なんだかんだ俺の記憶が現実を否定する反対の内容になっているのも、俺と言う存在を否定する材料になっていた。
「名前…」
「?」
「赤ちゃんの名前は決めてたんですか」
話をそらすみたいにそう切り出す。
「決まってませんね。生まれたら決めようって考えだったので」
何個か候補は作っておいたが奏には言わなかった。彼女の意見を優先したいのもあったが、戸惑いもあったのだ。
名前が確定された瞬間、子供に対する運命みたいのが決まってしまうような気がしたからだ。
目の前の彼女は、藤井さんはどんな気持ちで南斗くんの名前をつけたんだろうか。いや、彼女がつけたと思うのは早計か。父親側からつけた可能性も否定できない。
父親、か……。
俺には両親がいなかった。孤児だったから親と言う存在に対する憧れもあったし、いざ自分が親になると聞いた瞬間は嬉しさと怖さもあった。
いざ両親が出来たらこんな家庭とは……。
少なくとも藤井さんには幸せになってもらわなくちゃ。俺がいなくなってからの南斗くんのためにも。
「からっぽの俺の話なんかいいんです。それより未来の話をしましょ」
「未来…ですか?」
「ええ。あちらも色々忙しいからまだ手を伸ばしてこないんですが、そろそろ南斗くんを連れ戻すために動くはず」
「…!」
「このまま座ったまま我が子を奪われるつもりですか」
現実に戻す俺の言葉に藤井さんの顔が真っ青になる。膝の上に置いた両手がスカートを力強く掴む。
「聞いた限りのプロフィールと事情を考えると、あなたに親権がわたる可能性は決してゼロではありません」
「ほ、本当ですか!?」
乗ってくる。言わなかったが、虐待を受けたかもしれない家庭に大事な我が子を二度と任せたくないのだろう。俺でも装だったはずだ。いや、最初から誰かに奪われるつもりなど毛頭もないがな。
「聞いた限りでは、南斗くんの父親は相当な有名人らいしですね。資産家であり政権に対してもかなりの発言力も持っていると」
「はい…」
だから若い子を弄んで孕ませてポイとしたんだろう。それどころか赤ちゃんまで奪ってやがって。ますます気に入らない人だ。一泡吹かせないと藤井さんも南斗くんも流石に可哀相過ぎる。
俺はいつか消える人だ。だったらもたもたしてはいられない。今この感情に素直に従おう。俺はそう生きてきた。慣れていることをやるんだ。
くよくよするのは俺らしくない。
慣れないことはするもんじゃない。
「ここに入院した時点で南斗くんが虐待を受けたという可能性は土井さんも承知してるはずです。そして南斗くんは神童だったことも父親が手放さなかった理由の一つです」
自分のために利用するために呼び戻したんだろう。
認めたくないがあんな下衆な人間の考えることなどなんとなくわかる。俺は下衆な人間の相手をする人生を歩んできた。
きっと婚外児を隠すため、もしくは利用するために南斗くんを自分の手元においてたはずだ。そしてこちらには虐待に対する訴えと言うカードを持っている。あちらが何彼構わず力技で来ないとも限らないが、南斗くんにそこまでの価値がないなら…いけるはず。
「つまりですね。南斗くんの価値を無くすんです」
「どういう意味でしょうか」
「あんな下衆な人間は我が身可愛さ、つまり保身的な考えをします。こっちから南斗くんがあなたの子であることを口外するつもりはない。それに虐待を受けたのも口外しないのを条件に連れ戻すんです」
「それだけで大丈夫でしょうか」
「これからが肝心です」
「?」
俺は南斗くんのことをしらない。そして子供でもない。だからこそ有効な策。
「もう南斗くんが神童でないなら?」
「あ…!」
彼女も分かったのだろう。
そうだ。南斗くんの価値は神童であるからこそ生まれるもの。ならその肩書きを無くせばいい。俺としては甚だ不本意だがどうやら俺は精神障害らしいからな。
「南斗くんが精神異常を起こしたのは担当医の土井さんを通じて周知の事実となっています。いつかは治るかもしれないけどそれが何時になるかは分からない。何よりも」
虐待を受ける羽目になる父親の元に戻ったらもっと深刻化する可能性が高いという事実。これは子供を大事にするこの日本社会において決定打になる。
「それで大丈夫ですか」
「ええ、南斗くんをあなたの元に戻してあげます」
「それじゃないです」
「…?」
「あなたのことです。皆戸さん」
彼女の大きな目が潤ってくる。
あの目は苦手だ。どうしていいかわからなくなる。泣く女がこんなにも苦手だったとは。奏、お前が泣かないからだぞ。
「あなたはそれでいいですか。だってその作戦は……」
あなたの存在を全否定するものです。
…といいたいのだろう。分かる。分かってる。分かりきってる。他の誰よりも俺自身が分かってる。
俺自身が異質な物、紛い物、障害による一時的なエラーにすぎないと自分自身で認めるものだから。
「藤井さん、俺は蜃気楼なものです。だから気にしないでください」
「でも!」
大きな目から一粒の涙が落ち、彼女は椅子から立って俺の肩を握る。
「奥さんの話をする時の皆戸さんはとても幸せな顔をしてました。会って間もない私すらどれだけ皆戸さんが奏さんを愛してるか分かるくらいに!」
「…!」
「南斗を助ける方法がそれしかないというのは分かります。ですが私をあなたを否定したくありません! だから自分を否定しないでください。奏さんを、愛したことを…、否定しないで」
「……」
目をそらそうとした事実を思い知らされる。聞く気すらなかったことを聞かされる。知りたくなかったことを諭される。
俺への全否定。それは俺と言う人格、存在の根幹にある奏への想いを否定するってこと。
「奏…、奏……!」
目が熱くなる。咽が枯れそうになる。だけど呼ばずには叫ばずにはいられなかった。胸の奥底にあるこの感情が、心臓を動かすこの気持ちが嘘だというのなら、生きているこの命すら嘘になる。
「俺は…生きてる! 生きてるんだよ!」
小さな拳で、弱き力で胸を強く打つ。叩く。この息苦しさを吐き出すために。鬱憤を叫び出すために。
「俺は病気じゃない…! ここにいるんだよ…! 何でよってたかって俺を否定するんだ…! 何でええ! 何で誰もわかってくれないんだよ!!」
そんな俺を優しく包み込む藤井さん。彼女の胸に抱かれて泣きじゃくる子供のように泣け叫ぶ。
「奏…! かなでぇぇぇぇ! あああああ…!」
「わかってますよ。ママはわかってるから…」
我が子をあやす母親のように、優しく抱きしめて背中を撫でてくれる。
そうだ。彼女は母親だ。
俺への肯定は母親である彼女を否定することになる。
それでも尚彼女は俺を否定するといっている。
ああ、奏。君もそうなのかい。
これが母と言うものなのかな。
君に子供を抱かせたかった。我が子を抱きたかった。
それを分かるからこそ、母親であるが故に、彼女は自分を削っても俺を肯定しようとする。
俺の母親であるために。
「…藤井さん、いや、母さん」
「皆戸さん…?」
「必ず、あなたに南斗くんを、返してあげます」
上手く出ない言葉を搾り出して、涙に誓う。
俺の涙に、彼女の泪に。
「子供には、お母さんが必要です。その逆もまた然り」
あなたに南斗くんを戻してあげます。
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