それしかないから
「ひにたくな――」
叫びながら目を覚ます。
かすんで見える視界は真っ白で上手く見えない。まるで数日は寝てたように定まらない焦点で周りを見渡す。
薄暗い壁らしきものから木漏れ日のような縦長い光が差し込む。カーテンか。
聞こえるのは静寂を均等に割く機械音。時計か。
そして全身には気だるさよりも思い感覚。身体が思うように動かない。
それでフレッシュバックする。
そうだ。
俺は車に轢かれた。
じゃこの意識は何だ。まだよく見えないがかすんだ視界。時計音でも聞き取れる聴覚。幽かな汗の匂いをかげる嗅覚。口の中がすっきりしないと分かる味覚。
五感をちゃんと感じ取れる。
じゃ俺は――
――死んでないのか。
俺は、生きている…?
それを自覚したら感情の雪崩れを止められなかった。
ぶわっと目が熱くなる。乾ききったかすんだ視界が鮮明になると思いきやまたかすむ。何かで頬がかゆくなる。
涙だ。これは涙だ。
生きていると知った安堵感が涙となり頬を伝う。
「…いきてる…おれは生きてる…!」
泣いているせいか。それとも車に轢かれたせいか声が普段と違う。
枯れているようで少し高い。
「…奏…」
名前を呟く。忘れられない名前。誰よりも大切な人の名前。
妻の名前が出た瞬間、止められない気持ちに駆られる。早く彼女に会いたい。彼女を安心させたい。
「…!?」
身体が思うように動かない。力が上手く入らない。
考えなくても分かることではないか。俺は車に跳ねられたんだ。無事では済まされない。きっと身体のあっちこっちが悪くなっているはず。
涙が止まると段々視界が鮮明になり、薄暗くて白い空間に一人寝ていてたことが分かる。
壁には四角の黒い物体―テレビがあり、その下の物入れには花瓶が置かれてある。カーテン越しに差し込む光が反対側の壁に白い縦線を作る。そして点滴のチューブが掛けられているのが見えた。
施設を見るかぎりここは病室か。
「…だれか…! だれかいませんか…!」
高く掠れた声で呼んでみる。医者かナースが来るだろう。来ないと困る。
何度か呼んでみるが力なき俺の声は誰にも届かなかったようだ。
そうだ。ナースコール用のブザーがあるはず。
「くっ…」
気だるさを押しのけて身体を起こそうとする。普段より頭が重い。寝すぎたせいだろう。
見回わって俺が寝ていたベッドについてるはずのブザーを探す。予想どおり枕元についてる起爆ボタンみたいなものを探し出せた。
そしてそれを手にした瞬間物凄い違和感に見舞わされた。
ブザーに?
いや。
これは――。
「…手が小さい…」
まだ視覚がおかしいだろうか。どう見ても大人の手じゃなかった。白くて可愛い子供のような手。
まぁ視力は時期に戻るはず。まず誰かを呼ばないと始まらない。
迷いなくボタンを押した。
愛する妻が来ることを期待しながら。
◈ ▣ ◈ ▣ ◈ ▣ ◈ ▣ ◈ ▣
「…!?」
ナースとともに現れた女性が俺の両頬に手を置き涙を流すのを見て物凄い恐怖を感じた。
素朴な感じの半袖Tシャツに長いスカート。普通の団地妻のような女性だ。
理解が追いつけない。知らない女性からこんな態度をとられる理由が思いつかない。
この人は誰なんだ。何で俺にこんなに近づく?
「…南斗、大丈夫? どこか痛くない!?」
俺は確かに皆戸だが、初対面の女性に溜め口されるいわれはないんだよな。騒がせながら俺の身体のあっちこっちを見る女を非力な腕で引き離そうとする。
「どこか痛むの!?」
「…い、いや…」
普通にセクハラですから。心配してくれるのが分からなくもないですが、俺はあんたが誰か分からないんですよね。
「…どなたですか…?」
「ママだよ? 大丈夫?」
「ママ? 真間さん? 真間何さんですか? どこかでお会いしましたっけ?」
「南斗? 何言ってるの? ママだよ? ねぇ!?」
「お母さん、落ち着いてください」
女性が真に迫って俺を問いただそうとするのをナースさんが止める。ありがたい。正直初対面の人からこんな態度をとられると怖いものがあるな。頭がおかしい人に絡まれるときの恐怖に似てる。
「南斗くん、私は君を担当してるお医者さんだよ」
「あ、はい。どうも」
50代は越えてそうな中年のお医者先生が声をかけてくる。いや確かに俺の方が年下なのは分かるがくん付けで呼ばれるのはちょっとおかしくないか?
「ここがどこか分かるかい?」
「病院…ですよね」
「そうだよ。君に名前は?」
「皆戸衛です」
俺の答えに俺に迫っていた女性の顔が真っ青になりお医者さんとナースさんが目を合わせる。
「そう…南斗くん、覚えてる最後の記憶は何かな」
子ども扱いする口調が一々癪に障るが医者に質問には素直に答えたほうがいいいだろう。
最後の記憶、それは忘れるはずもない。
「家に帰る道で車に轢かれました」
「それは災難だったね」
「で、どれくらい寝てたのでしょうか。俺の家族は…?」
「南斗、ママならここにいるじゃない! 分かるよね? 分かるといって?」
縋るような女性の態度に心が動いたけど、知らないものは知らないからどうしようもない。俺は奏としか付き合ってないから昔の女の名前って線もない。
「すみません。どなたでしょうか」
「あ…ああ…!」
俺の言葉を聞き女性が二歩くらい後ろに引いてはそのまま崩れる。
「お母さん、気を確かに!」
「南斗…ママが、分からないの…?」
ナースさんが崩れる女性ー真間さんを脇から支えては隣の椅子に座らせる。真っ青な顔を見て心配になってくる。
「あの俺よりあの方のほうが心配なんですが」
「南斗くん」
「はい」
「君の母親の名前は言えるかい?」
「…何言ってるんですか」
みんなの視線が俺に向けられる。
「俺に親はいませんよ」
「ああ…!」
真間さんが気を失った。
◈ ▣ ◈ ▣ ◈ ▣ ◈ ▣ ◈ ▣
俺のベッドの横に真間さんが寝込んでる。彼女にナースさん何人が集まって点滴をうったり色々何かをする中で俺と目を合わせるように椅子に座るお医者先生。
「南斗くん。今から君に色んなことを聞くから覚える限りで答えてね」
「ええ…」
「君は今何歳かな?」
「28です」
「…家族は?」
「妻が一人」
「…どこに住んでるかな」
「東京ですが」
「どこか身体に不便はないかい」
「ちょっと距離感がおかしいですね」
「ふむ…」
お医者さんは何か考え込み始めた。そしてカルテに色々書き始める。
一体何なんだ? 目を覚ました途端変な女に絡まれるわ今度は質問攻めの後だんまりかよ。
「博美さん」
「はい」
「姿見一個もらえるかね」
「手鏡ならありますが」
「かしてくれ」
真間さんの介護をしていた若いナース――博美さんがポケットから手鏡を取り出しお医者さん――土井さんに渡した。先生は一息入れた後にそれを俺に渡してくれる。
渡されるままそれをもらった。
小さな鏡は俺に向けられたが、そこに俺は写っていない。
いまだに目が回復していないのかな。目をこすってまた鏡を覗き込む。
またも俺はいない。
だが誰もいないわけではない。
俺を映すべき鏡には――
「先生、この鏡がおかしいんですか。それとも俺の目がおかしいんですか」
「南斗くん、よく聞きなさい」
「はい」
何だ。雰囲気がおかしいぞ。
「おかしいのは、君の記憶だよ」
「はい?」
記憶? 何か間違ったか。
もしかして車に跳ねられて記憶が飛んだとかそんなわけじゃないだろうな。まさか映画でもあるまいしそんな――洒落にならないぞ。
「君の名前は酒井南斗。8才の小学校二年生だよ」
「はい?」
「母親の名前は藤井裕子。忘れてるだろうけどね」
「ちょ、ちょっと待ってください。俺は…」
土井さんが寝込んでる真間さんを見渡しながら「藤井裕子」と言った。それはわかった。何もかも飲み込んでわかろうとした。だがこれだけは分かりきれない。
俺が誰だって?
「俺が8才のガキなわけ…」
「その姿見に見えるのが事実だよ」
「そんなバカな…!」
土井さんの言葉を聞いてもう一度手鏡に自分を映してみる。
間違いない。確かに映ってるのは8才くらいに見える男の子だ。
「わかった。どっきりとか何かですね。この鏡にも仕掛けがあるん…」
「南斗くん、今は混乱するだろうけど」
「俺には! 28年生きた記憶がある!」
「……」
ふざけるな。俺の記憶が生きた証が紛い物だというのか。俺は東京で28年間生きてやっと結婚して子供ももうすぐ生まれるんだぞ!
「奏との結婚も全部嘘だというのかよ! もうすぐ娘も生まれるんだぞ! 東京での俺の28年は嘘じゃない! ははっ! 車に轢かれたくらいで20歳若くなった? どこかの名探偵よりもひどいぞ!」
「南斗くん」
「はぁ…はぁ…」
強く鼓動を打つ胸に手を当てる。小さな少年の手が小さな胸に当たる。手に伝わる感覚はまるで本物。早く打ってる心臓の鼓動も子供のような高い体温もまるで本物のよう。
「何だよこれ。何でお前が動くんだよ。俺の手は!胸は!こんなにちっさくねぇんだよ!」
そうだ。立て。立つんだ。これは全部ベッドに仕掛けられたもので、ベッドから出ればきっと元の姿に戻ってるはずだ。
さっそくベッドから飛び降りて力が入らない足でゆらゆらしながら立つ。まるで生まれたばかりの子鹿のようによろよろな足。
でも力を入れて――
――立つ。
「あ……ああ……」
「南斗くん、今の記憶障害は一時的なものだと思うよ。だから不安がらなくていい」
「嘘だ…こんなの嘘だ…」
何で立っている俺より、座ってる土井先生の頭が高いんだ…?
俺の脚がこんな短いわけがない。俺の背はけっこう高いほうだったぞ。それが今はほぼ半分じゃないか!
「そうだ。これはきっと夢だ… 目が覚めればきっと東京の我が家に…」
「南斗くん、残念ながら――」
ここは岡山だよ。
「おか…やま? 大岡山です、よね?」
病院の手続きか何かで大岡山まで来ざるを得ない事情があったに違いない。
だがそんな期待と裏腹な土井先生の答え。
「…いいや、岡山県の岡山市だよ」
…バカな。そんなバカな。ありえない。
車に轢かれて東京から中国まで飛んだと?
そんな話を俺に信じろというのか。
「嘘だ…これは嘘だ…」
俺が8才のガキ? ここは東京じゃなくて岡山だ? そんなわけあるはずがない。あの医者が出鱈目を抜かしているに違いない。
「俺の目で確かめる!」
そう叫んで走り出した。後ろから「酒井くん」と呼ぶ声が聞こえるが俺はそんな名前じゃないから一向に構わない。
手首に刺してた点滴の針を抜いて走り出す。よろよろな足取りで。
廊下に出ると、あまりにも高く広く感じる病院の景色が目に入る。
ここから出ないといけない。
でるときっと馴染みがある地名が景色があるはず。
確認したら奏に話すんだ。
変な医者が俺を騙そうとしたと。
走れ。
俺の脚じゃないのは分かるけど今は言うことを聞け!
「あっ!」
コナーを曲がる瞬間誰かとぶつかって弾かされる。
身体が小さいからか。まさか俺の方が飛ばされるとは思いもしなかった。
一度転んだら全身が痛みを訴えてきた。足が震えて上手く立ちそうにない。
「坊主、大丈夫か」
俺とぶつかったお爺さんが手を伸ばしてきた。
俺はこんな爺さんよりも非力な存在だというのか。
その手を拒んで何となく自分で起きる。
そのとき、爺さんの手に握られてる新聞が目に入った。
「ちょっと見せてください」
「坊主、字読めるんか」
新聞の内容などどうでもいい。何か手がかりさえあれば――
『山陽新聞』
――2018年4月4日と書いてあった。
足の力が抜けてそのまま座り込む。
ありえない。こんなの認めない。
偶然あった爺さんが手に取ってた新聞にまで小細工をしたと思えない。思えば楽になるけれど、そこまでバカではないのだ。
でもこの新聞の名前を、その日付を信じたくない。
――俺の最後の記憶より9年は過ぎている。
「坊主、大丈夫か。頭打ったか!」
「大丈夫です。私たちが病室に運びますので」
「ああ、頼んますで」
俺の後ろからナースさんたちがぞろぞろ集まり俺を抱き上げる。
糸が切れた人形のような俺は成す術もなくそのまま彼女らの手によって病室戻された。
「酒井くん、勝手に出ちゃ駄目でしょ? それに針までこんな乱暴に抜いて…」
「消毒するね。痛いの我慢して?」
ナースさんたちが何か言ってるが俺には聞こえない。
聞く気もない。気力がない。
このまま意識さえなくなったらいいのに。
「いっつ!」
だが手首からの激痛が俺を現実に呼び戻した。
「…うぅ…くっ…ううぅ…」
「どうしよう。そんなに痛かった? 泣きやんで?」
目から涙が零れ落ちる。
悔しさの涙も恐怖の涙もましてや悲しみの涙でもない。
これは全てを失くした者が懐かしむ涙だ。
俺には昨日のことのように鮮明なのに既に9年も経っていた。
いやそれどころか全ての記憶が、その記憶で成り立ってる俺自身が嘘でまやかしで紛い物という。
「奏…かなで……!」
ただ名前を呼ぶ。大切な人。この世界で一番愛する人の名を。
答えてくれる人がいないとわかってるのに呼ばずにはいられない。
俺には、それしかできないから。
――それしか、ないから。
毎度基本5千字~6千字になると思います。
何か意見ございましたら残してくださると幸いです。