小3(大樹の秘密 3)
調理棟の扉をそっと開けると、おしゃべりの声が聞こえてきた。給食のおばちゃんたちが、座敷で休憩のおしゃべりに興じているのだ。
耳を澄ませたが、あの子の声は聞こえてこない。そもそも靴箱の中に、小学生のものらしき履き物はなかった。ここにはいないということなのだろう。俺はそっと扉を閉めた。
しかし、あの子はどこへ消えてしまったんだろう?
「調理棟」と今は呼んでいるけれど、調理棟は調理専門の建物ではない。壊されずに残った旧校舎一階部分の一部を指している。プレハブに調理棟を作るとお金がかかるらしく、調理室の機能が残されているわけだ。
空いている部屋はたくさんあるが、いま使われているのは俺の知る限り3箇所しかない。調理室と調理員さんの控え室に通じる先ほどの扉と、一番奥のゴミ捨て場のシャッター、そして牛乳業者に牛乳を返却するための小さな倉庫である。ゴミ捨て場も牛乳倉庫も、あの子が毎日立ち寄る場所とは思えない。
どこかにフェンスの穴でもあって、実は校外に出かけているのかもしれない。そう思ってフェンスのそばを注意深く観察してみたけれど、アリの巣しか見つけることはできなかった。
それでも、いつも彼女がこっちの方へ歩いてくるのは事実なのだ。また明日、こんどはもう少し近くであとをつけてみよう。
念のためゴミ捨て場のシャッターを開けた俺は、ムッとするゴミのにおいに鼻を突かれ、シャッターを慌てて閉めた。最悪だ。
牛乳倉庫も臭かっただろうか?・・・いや、牛乳倉庫の牛乳はクーラーボックスに入っているからそこまで臭くはないはずだ・・・あ、でも、給食後に返却する牛乳はクーラーボックスに入れないしなあ・・・業者が来るのは2時頃だっただろうか・・・いつも牛乳倉庫って臭かったっけ?・・・まあ、臭くてもいいように深呼吸してから中に入ろう・・・そんなことを考えながら外で大きく息を吸った俺が、勢いよくドアを開けた瞬間
「わっ!」
と驚いた声がして、俺は慌てて扉を閉めた。
何があった!? 混乱した頭の中で、いま見たものをできるだけ思い出す。
床にあぐらをかいて座っていた少女・・・少女のそばに並んだ、空の牛乳瓶・・・そばに何枚か、牛乳瓶の蓋・・・俺の記憶が整理されきる前に、中から再び声が聞こえてきた。
「すみません・・・先生・・・いま、片付けますので・・・」
「先生!?」
振り返るが、誰もいない。先生? 素っ頓狂な声を出してしまってから気がついた。そうか、突然扉を開けた俺のことを、向こうは先生だと思っているのか。
「ち、違う・・・先生じゃないから・・・安心して・・・」
扉の中へ呼びかける。「3年5組の佐藤大樹。この前はありがとう。良かったら友達になって」くらいのことが堂々と言えるようになりたいのに、自分でも情けないとくらいに力のない声しか出てこない。
「本当?」
「うん・・・さ、3年5組の、だ、だいき。さ、佐藤大樹だよ。あのとき助けてもらった。」
「・・・誰? え? てか同期?」
ガチャッと扉が開いて、浅野みどりさんが顔を出す。可愛い浅野さんの大きな目には、「誰?」と言われて衝撃を受け、おどおどと自信なさげに立っている小柄な男子が映っているのだろう。
「何しに来たの?」
「え・・・いや、その・・・ほ、ほら・・・お、お礼を言いたくて・・・ほら、この前、牛乳軽くするの手伝ってくれた・・・覚えて、ない、か、な?」
「・・・覚えてないけど」
そっか・・・まあ、そうだよな・・・覚えてないよな・・・俺の泳いだ目線の先に、空の牛乳瓶が転がっていた。
「それ・・・飲んだの?」
「・・・ああ、まあね」
「え!? それ、全部?」
「そうだけど?」
何を言ったらいいのか思いつかない俺は、ひたすら目に見えている牛乳瓶で時間を稼ぐ。
「1,2,3,4・・・10本あるよ。これ、ほんとに全部?」
驚く俺に、なんだか彼女はちょっと嬉しそうな表情を向けた。
「ああ。てか、さっき慌てて4本、棚に戻したから、本当は14本」
「へ? 14本!? 何で?」
「いまね、自由研究の続きやってるの」
「自由研究!?」
「そ。『お腹いっぱい食べたら胃は大きくなる』って言うじゃん? その続き」
「大きくなるの?」
「大きくなるよ、ちょっとずつだけど。夏休みに私が証明したんだ」
彼女はそう言って、少し胸を張り、お腹をなでる。お腹の形が目立たないワンピースだが、手で押さえられると、はっきりその下の胴体から膨らんでいることが分かる。突然の展開に、なぜだか俺は少しドキリとする。
「す・・・すごいね・・・で、次は何を研究するの?」
「うーん、それはまだ決めてないんだよねー。」
「へ? 決まってないのに、続きをやってるの?」
「まあ、細かいことはいいじゃん? おなかいっぱいが気持ちいいって気づいちゃったんだ、わたし」
「ん!?」
「だってさ、給食の牛乳、どうせ余っちゃうでしょ? 捨てられるなら、私が飲んであげようかな、って。牛乳も飲んでもらえて幸せだし、私も幸せだし、一石二鳥じゃない?」
「そ、そう?」
なんだか、彼女の奇妙なテンポに、自分が巻き込まれている気がしてきた。
「んー、そうだ、そしたら、これでどう? 『お腹いっぱい食べたら、どこまで胃は大きくなるか』ほら、これで自由研究もできるし、一石三鳥だよね。完璧!」
彼女はそう言って無邪気に笑う。そうしてこの日から、僕と彼女の奇妙な自由研究が始まったのだ。