20歳(二人の秘密5)
「いただき…ます…!」「…ごちそう…さま!」
このところ、みどりさんは1口食べるごとに、蚊の鳴くような声で「いただきます」と「ごちそうさま」を繰り返している。なんでも、条件反射というやつで「ごちそうさま」と言うと胃の筋肉がほんの少し締まり、「いただきます」と言うと胃の筋肉が少し緩むのだそうだ。
緩むと言っても、限界まで引き延ばされたパッツパツの胃袋である。緩んだところで、できるスペースなど、たかが知れている。膨大な食べ物がみっちりと詰まったその胴体の中で、皮膚と胃袋が必死に捻出したごくわすかな隙間――そのごく僅かな隙間に、みどりさんは頬を赤らめ、必死にハンバーガーひとくちずつを押し込んでいるのである。
人体の限界に挑戦しようとしているのか、その姿はアスリートを通り越して、修行僧の境地であるようにも思われる。修行僧がガリガリになるまで身を削って断食をする代わりに、みどりさんはガッチガチになるまで胃を膨らませているというわけだ。
「あ、あのさ……ちょっと、俺の方からお願いなんだけど…その…俺もなんか、もうこんな時間だし…みどりさんの食べっぷり見てたらちょっとお腹空いちゃって…いくつかハンバーガー分けてもらってもいい?」
みどりさんの修行の合間を見計らって、俺は頭の中で考えた言葉をかけてみた。残るハンバーガーは5つだが、どんどんペースは落ちてきている。直近の2つにいたっては、前歯の先で少し掻き取る程度ずつしか飲み込めないため、1つ完食するのに30分以上の時間がかかってしまったほどだ。少し前から、全身に吹き出してきた汗の量も気がかりだ。明らかにみどりさんの身体は、食物の拷問に全身で悲鳴をあげているのである。
そんなみどりさんに、どうしたら食事を中止してもらえるのか? みどりさんの性格からして、食べ物があるうちは詰め込みをやめようとはしてくれないだろう。でも、俺が「お腹空いた」と言えば――ひょっとしたら、残りを譲ってくれるかもしれない――そんな作戦の上に発言した台詞であった。
「え!? …大丈夫だよ…私、まだ…まだ…食べられるもん! 心配…しないで…」
「いやいや、心配じゃなくて…みどりさんがすごく美味しそうに食べるの見てたら、俺もお腹空いちゃったんだ」
「えー…この…タイミングで? …うーん…」
言葉とは裏腹に、一瞬ほっとしたような表情が浮かんだのを見逃す俺ではない。
「お願い! 俺にもハンバーガー譲ってくれない?」
両手を合わせて、拝むような仕草をする。ピッチピチに張り詰めたお腹の皮膚をさらしてソファーに寝転んでいるみどりさまを拝むような格好になる。
「しょうが…ないなぁ…。じゃあ…そんなに…言うなら…分けても…いいよ。でも…私が限界に…なったわけじゃ…ないんだから…ね…はんぶんこ…しようか…」
浅い息をしながら、みどりさんが言う。『限界じゃないなんて、よく言うよ…そんなになるまで食べたことがあったかい?』という言葉は、喉のところまで出かかったけど、それを言うとみどりさんがまたむきになってしまいそうだったから自重した。みどりさんの安全が第一である。
「そしたら、俺は3つもらうね!」
単純なハンバーガーを残し、質量のありそうなものから3つを取り出す。みどりさんは俺の気遣いを知ってか知らずか、それ以上分配についてはとやかく言わなかった。袋を開けると、白身魚のフライだろうか、魚介類のにおいがほんのりと香ってきた。
「いただきまーす」「いただき…ます…」
みどりさんと俺の声がシンクロし、二人で思わず顔を見合わせる。みどりさんが、苦しそうに赤らめた頬をさらに染めて、優しそうに微笑む。
「なんか…一緒に食べるのも…いいね…」
「ああ、そうだな」
突然向けられた表情がすごく可愛くて、俺は思わずぶっきらぼうな返答になる。こんな苦しいときにも、こんな表情のできるみどりさんは偉大だと思う。三つ子の臨月でもこんなお腹にはならないだろうから、みどりさんはきっと――もし将来出産することがあるのなら――そのときもこんな微笑を浮かべる余裕があるに違いない。
「…大樹も…一緒に…自由研究…してみる?」
「やめとく。ぜったいお腹痛いし」
「…ちょっと…痛いけど…もっと…気持ち…いいんだよ…おなか…いっぱいに…なるのって…」
息を整え、大きく巨大に飛び出した自分のお腹をさすりながら、みどりさんが呟く。
「そんなもんかね?」
俺は思わず目を逸らして…目のやり場に困り、自分のバーガーを見つめた。
しばらくの間、二人の咀嚼音と嚥下音、みどりさんの荒い息づかいだけが、真夜中の部屋に聞こえる。
「これ、飲み物ないと、けっこうパサパサするなぁ」
俺は席を立って、台所でグラスに水をくんできた。みどりさんと再び目が合う。
「みどりさんも、いる?」
全身汗だくのみどりさんは、目にうっすら涙を浮かべながら、フルフルと横に首を振る。
「…いらない…。水で…場所を…とるなんて…もったいない…」
『場所を取る』という表現が妙に生々しくて、俺は再びドキリとした。胃袋の中や腸管内は、外界と連続した空間――ある意味では『身体の外』である。人体をめいっぱい鍛えて、確保した『場所』に、食べ物を配置していく――みどりさんにとっての大食いの感覚はそのあたりに近いのかもしれない。
俺が3つ目のバーガーを食べ終わったとき、みどりさんはまだ、バーガー1つ半を残していた。
「けふっ…意外と小さいバーガー3コでも、重いわ。みどりさんを見てて、俺もいける、と思った俺が甘かったかも…」
背筋を伸ばして、自分の胃袋の位置を手で確認する。みどりさんが持つ、深海魚の胃袋のような見た目での張り出しはないが、触ればどこにあるかくらいははっきり分かる。その何十倍という量を食べたみどりさんは、やはりとんでもないことを今、目の前でやってのけているのだ。自分で少し食べてみたことによって、大食いのすごさが実感として迫ってきた。
「…触ったら…分かるくらいの感じ?」
「ああ。触ってみるかい?」
冗談で言ったつもりだったけど、みどりさんが腕を伸ばしてきたから、俺はみどりさんの腕が届く範囲に近寄る。みどりさんの綺麗な指が、俺の腹部をシャツ越しに触る。
「…なんか…可愛いサイズだね…ちゃんと…まだ…へこむし…」
みどりさんがそう言って笑う。みどりさんに触られて、たぶん俺の頬は赤くなっていると思う。
「そりゃあ、みどりさんに比べたら、誰だってそうだと思うよ」
「そうかなぁ…」
褒められたと思っているのか、ニヤニヤと顔がほころぶみどりさんも可愛い。
どさくさに紛れて俺も腕を下ろし、みどりさんの胴体にある曲面へあてがってみると…
「固っ!」
ロードバイクのタイヤへ目一杯空気を入れたときのような、張り詰めた固さがそこにはあった。
「ね? カッチカチ…でしょ? ちゃんと…練習すれば…このくらい…固く…なるんだから…」
「それって、筋トレ好きみたいな台詞、パクってる?」
「あたりー」
再びみどりさんが笑う。
「…でも…胃袋だって…筋肉だからね…。ちゃんと…練習すれば…どんどん…大きくなって…くれるの…」
「練習の成果だね」
「…そう…」
そんな話をしながらも、みどりさんは少しずつハンバーガーを食べ進めていく。決して大きくはない一口を、限界の胴体に、それでも休まず、少しずつ、着実に詰め込んでいく。
こころなしか、さっきよりも呼吸が楽そうだ。話しかけて気を逸らしているのがよいのか、カチカチのお腹を俺がサワサワとさすっているのがよいのか――あるいはその両方か。何をしてほしいか問いかけるのも野暮ったくて、俺は質問を続けながら、お腹も撫でる。今なら、ずっと言いたかったことを、言えそうな気がする。
「小学生の頃以来だね」
「…そうだね…」
「あの頃もみどりさんは、たくさん食べる練習してたんだよね」
「…うん…そうだね…」
「思い牛乳を運ぶの、手伝ってくれたのが最初だったよね?」
「…そうだった…かな…?」
「あ、そっか…それは覚えてなかったんだった、ごめんごめん」
話を無理に合わせようとしないところも素敵だ。でもちょっと、計画が狂ってしまった。どう会話を繋げよう?
俺が少し考えあぐねていると、思いがけずみどりさんの方から上目遣いに声がした。
「あの…そのまま…おなか…さすっててくれない? さすって…もらってた方が…気持ちい…楽だから…」
「あ、ごめんごめん、手が止まってたね」
俺はそのまま、そっと手を置き、みどりさんのお腹をさする。綺麗な肌だ。白く張り詰めて、ごく僅かな脂肪の層の下に、はっきりと胃袋の形を触れる。まん丸ではなく、上腹部中心に、しっかりと胃袋の形に浮き上がっているお腹。みどりさんの呼吸に合わせて、左―真ん中―右―と、順番にまんべんなくさすっていく。
しばらくの間、部屋の中には、お腹をさする音と、みどりさんの「いただき…ます」「ごちそう…さま」だけが流れた。俺は緊満した皮膚に手を沿わせながら、会話を再開する機をうかがっていた。
小学生時代から、応援ありがとうございました。次回で最終回の予定です。




