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13/23

20歳(浴室)

はっと目が覚めて、防水スマホの時計を見る。時刻は朝の6時15分。湯船に浸かったまま、30分ほどが経過したようだ。半分眠り、半分気を失っていたような状態--視界の下半分には、気を失う元凶となった自分のお腹が鎮座している。


浅野みどり、20歳。現在のウエストは優に1mを超える。それだけ聞くと、ただのデブだが、少し見ればそうではないことなど一目瞭然だ。年齢よりはやや幼く見えるかもしれないが、シュッとした顔立ちには贅肉の「ぜ」の字もない。手足もスラッと伸びやかで、セルライトなどとは無縁である。それに脂肪なら、もう少し湯船の中で浮いてきそうなものだが、彼女の腹部は緊満した状態で浴槽内に沈んでいる。


それでは、妊婦なのか、というと、そういうわけでもなさそうだ。第一に大きさが妊婦と違う。5つ子くらいを妊娠すれば、臨月にはこの大きさになるのかもしれないが、普通の妊娠でこんなにお腹が大きく張り詰めるわけがない。また、お腹の膨らみ方も、どちらかというと上腹部の方が大きいように感じられる。肋骨の直下から飛び出した膨らみが脚の付け根までみっちりと飛び出し、それで飽き足りずに外側方まで圧迫していた。彼女は脚を開き気味にして浴槽に浸かり、浅い息をしながら、そっと自らのお腹を愛おしむようになでる。


「うー、おいしかったなー。おなかいっぱいって、幸せ!」


そっと彼女がつぶやく声が聞こえる。なんと、彼女のきめの細かい肌が胴体の部分だけピチピチに引き延ばされているのは、内部に食べ物を限界まで詰め込んだ後だったからなのだった。昨日の夜から、大盛りピカタ定食と特盛りスタミナ丼、二郎系の大ラーメンを平らげた彼女は、帰宅後も白米数升と大鍋二杯のハヤシライスを平らげ、ようやく満腹になって湯船に浸かったらしい。


「あれ? でも、こうして湯船に入ると、もうちょっと入る気がするなぁ・・・」


どうやら彼女は、満腹の定義が一般人とは異なるようだ。一般に満腹とは、血糖値が上がって食事に満足した状態を指すはずであるが、彼女の満腹は胴体の物理的な限界を指す。超人サイズの胃袋がパンパンにはりつめて外へ飛び出し、腹部の皮膚が限界を迎えて内圧が高まった結果、脚の付け根や内臓の圧迫で生物学的な危険を感じるのが彼女の満腹である。


両手でゆっくりとお腹をかかえたまま、彼女は湯船から立ち上がった。片手を離してシャワーを手にしたところで、彼女の顔に「うっ」と苦しそうな表情が浮かぶ。


「あ、やっぱりもう入らない・・・だめだ・・・もう少し浸かってよ・・・」


再び彼女は湯船に戻る。指先の皮膚はふやけてふにゃふにゃだが、背に腹は代えられない。もとい、指先の皮膚は腹の皮膚に代えられない。


「うーん、やっぱり、湯船に浸かると、楽なんだけどなあ・・・」


そう言いながら、彼女はお腹をさすりつつ。湯船から立ち上がったり、湯船に戻ったりを繰り返した。そのたびに風呂の水面は大きく上下する。腹部に圧倒的な質量があるため、普段より水面の上下動は激しい。


「せっかく炊いたのに、勿体ないし・・・あとちょっと入らないかなあ・・・なんでだろ?」


ちなみに「あとちょっと」というのは先ほど炊飯器の中に残っていた3合ほどのごはんを指すらしい。彼女は感覚が麻痺しているかもしれないが、3合というのは一般的に、それだけで数人分の白米である。その何十倍もの量を受け入れた胃袋からすれば微々たるものかもしれないが、はた目にはパンパンの腹部は明らかに限界に見える。


「あ、そうか! 胃袋が球に近づくと楽なんだ! ・・・私って天才!」


ゆっくり背中を反らせ、お腹の膨らみを両手で抱えたり、手を離したりしながら、風呂場の鏡を繰り返し確認していた彼女が、突然何か発見したように笑顔を見せた。大きな目と整った顔立ちに、満面の笑みが追加されて、この表情だけで世の男たち何人が落ちてしまうだろう? 彼女の発見は、どうやら胃袋の形状によるものらしい。


胃袋が球体に近づくとは、どういうことだろう。一般的な人類が一般的な人生を送る限り、そのような発想をする必要はないだろう。一般に胃袋は、腹部の上方に位置し、空腹時も満腹時もその近辺で膨らむだけだ。しかしみどりは、小3の夏休み、自由研究と称して牛乳をたくさん飲む練習を繰り返した結果、胃袋が胴体の下の方まで降りてくるようになり、腹部全体に多くの食物を納められるようになっていた。俗に言う「胃下垂」の状態である。


小3から10年以上にわたり、「満腹」になるまで成長期の胃袋を訓練し続けた結果、みどりの胃袋は骨盤を超えて大きく前方に飛び出し、自重で膝の上近くまで垂れ下がってきていた。皮膚のすぐ下まで透けて見えそうなほどパンパンになった胃袋は、薄い皮下脂肪の下ではっきりとその存在を主張しており、満腹時のみどりに限っては、胃袋の形状を意識することはそれほど難しくない。


同じ表面積であれば、球に近い立体の方が体積は大きいのだ。内容物の重みで縦長に垂れ下がっている胃袋を、湯船に浸かったり両手で持ち上げたりして球形に近づければ、お腹の圧力が弱まり、もう少し納められる量が増えそうだというのが、みどりが本日発見した感覚であった。


「あー、このままご飯を取りに行くと、床が濡れちゃうなー。うっ・・・かがむと痛い・・・」


大きくなりすぎたお腹で床が見えないため、みどりは脱衣所の鏡を確認しながら、身体を拭いていく。拭く際にも、両手を同時に離すとお腹が支えられず痛いため、片手ずつの作業が不便そうだ。そのまま台所まで、ペンギンのごとくヨタヨタと歩いていき、片手だけでサランラップを広げ、どんぶりを上手に使いながら、残ったごはんを大きなおにぎりにしていく。


「あー、最初から、おにぎりにしとけばよかったなー」


片手の作業なので、作業は遅々として進まない。お腹の重さを片手で支え続けるのも辛いと見え、少し作業するたびにお腹を両手で支え直し、今度は反対の手に持ち替える。そんな風にして20分ほど四苦八苦したあげく、1つ1合相当の、大きく不格好なおにぎりが3個完成した。


「かーんせーい!」


そのまま大きなお腹の上におにぎりを乗せ、そろそろと湯船に戻る。


「うわー、つめたい・・・」


追いだきのできない風呂は、みどりが作業している間に水のようになってしまっていた。軽く身震いをしながら、みどりはその中に再び浸かる。大食いすると代謝がよくなるのか、季節に関わりなく汗が出てきて身体が熱くなる。大食いで限界に挑むようになってから、心地よい汗と冷や汗の区別くらいはつくようになったと思う。痛くて気持ち悪いときに出る汗が冷や汗だ。さっきもおにぎりを作りながら、ふとした拍子に少し腕の支えがゆるむと、痛みと冷や汗が襲ってきそうになっていた。


「それじゃ、気を取り直して、いただきまーす」


大きくなりすぎたお腹の上をテーブル代わりにして、おにぎりを乗せ、少しだけ水面の上に出しながら、みどりは大きなおにぎりを頬張り始めた。最初のような大口ではなく、少しずつ苦しそうに、胃袋をできるだけ胴体から離し、球形に近づけながら、孤独なみどりの挑戦は続く。


「今度は・・・最初からおにぎりにしとこう・・・てか、誰か、お腹を支えててくれる人がいればいいのにな・・・あきちゃんに頼もうかなー。でも、あきちゃんはびっくりしそうだしなー。噂が広まっても困るなー・・・」


あきちゃんは、みどりの中高時代の親友である。快活で顔が広く、おしゃべり好きなカワイイ系の女の子。今も連絡を取り合い、近くの大学に通っているが、自分の周囲のコミュニティーにこの趣味が知られるのも憚られた。


中学で上京してからというもの、みどりは大食いであることを周囲からは隠して生活してきた。誰かの前で大食いしたのは、中3のとき、年上の彼氏に振られてやけ食いしたのが最後である。無論、学校の友人でみどりの大食いを知る者はない・・・いや、そういえば一人いた。名前は・・・思い出せない。いつもおどおどしたような喋り方で、ぜんぜんパッとしない・・・同じ小学校、ということ以外の接点が、今後も全然想定されなそうな男子だった。


そういえば、なんで知り合ったんだろ? 向こうから寄ってきたんだっけ? あれ、でもいつの間にか、自由研究を手伝わせてた気がするな・・・。どうも小学校時代の記憶というのは、断片的で不自由なものだ・・・あ、そうだ。たしか、名字は佐藤だ。佐藤大樹と言っただろうか。今は何をしているだろう?


どこかでニートをしている姿が容易に想像できた。みどりを恐れていたせいかもしれないが、結局彼経由で噂は広がらなかった。パッとしないが、まじめで信頼はできるやつだったということなのだろう。彼に知られたところで、自分の周囲のコミュニティーに影響するとは思えない。暇なら、口止めして料理を手伝わせてもいいかもしれない。


おにぎり1つを食べ終わったタイミングで、みどりは防水スマホを片手にフェイスブックを検索する。おにぎりは2つ残っているけれど、みどりは少しのあいだ休憩をすることにした。

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