同じ蝶の話
◇◇◇◇◇
少女号泣。
電車から降りて、改札口を出て、20分程度はかかる自宅にまで帰ろうと油断をしていたその時。
誰かが泣いていた。ああ、子供がこけたのかな、親と言い合いになってしまったのかな。そこのデパートでお菓子を買ってもらえなかったのかな。
なんて他人事だったが、泣き声と一緒にかろうじて聞き取れた「お兄さん」(ぉにいざぁん)という言葉に耳を疑う。まさか、そんなはずは。
しかし改めて泣き声のする方を見れば、そこにいたのは紛れもなく殺戮少女。一斉に電車から降りた学生やら社会人やらが心配そうに見つめるなか、殺戮少女はゆっくりとこちらに近づき、周りの心配そうな目が一気に怪訝な視線へと変わった。
「いや、その……」
僕も混乱していた。
微笑くらいするだろう。ジト目くらいするだろう。粒の大きさ程度に苦い顔や、ほんのちょびっと悔しんだりするだろう。
だけど泣くとは思っていなかった。しかも、その上の大号泣。外は今小雨なのに、雨と涙の違いがはっきりわかるくらい少女は泣いていた。
駅員さんも来るか来ないかで迷っている。僕はようやく我を取り戻し、少女と視線を合わせながら喋りかける。その時に気付いたのだが、昨日猫につけていたリードを片手に持っている。ただし、猫はどこにもいなかった……
「お、落ち着いて。大丈夫だから、泣き止んで」
切実に。
おいこら写真撮るなおっさん。
「ひっぐっっ……お、おっ……おにぃ」
「うん。うん。そうだね。僕はここにいるよ。だからとりあえず落ち着いて、いつものように冷静になって」
「──ぅあぁああ」
「ストップ! ま、待って!」
妹もこんなに泣いた事はなかった。これは困った。幾らどんな言葉を使ったところで、少女が聞こうとしていない今、何の意味もない。
嗚咽でいつ吐いてもおかしくない少女。こんな所で恥もかかせたくないし、何かインパクトのある情報を提供するしかない。なんて言ってみよう。
──おや、猫がいないようだけど?
これは一番言っちゃいけない気がする!
──お菓子をあげよう。お兄さんについてきて
事案発生。
「そうだ、お寿司屋さんに行こう! ね、寿司を食べに行くぞー!」
「いぐっ」
「よしっ」
どちらにせよ周りからの不躾な視線は消えなかった。まあ、ひとまずこれで少女は落ち着いた。近くの回るお寿司屋さんに連れてきた僕は、とりあえず家に連絡をする。昨日弟にあんなこと言って、自分が出来てなければ示しがつかないからね。
少女の目元はすっかり腫れていた。ただしもう、泣いていない。最後までリードを握りしめて、とりあえずは一件落着のようだ。
本題は今からだが。
「あー……お寿司とか、好きなんだ?」
「大好きなのです。特にナマモノというあたりが私てき好評価です。生き物を直に殺しているという感覚をよく味わえます」
「結局そういうのかーい」
やめてくれ。ウニとか食えなくなる。回転寿司くらい純粋に楽しみたい。
「……先ほどは取り乱してしまい、すみませんでした」
「ん、だいじょーぶだよ。気にしないで」
「ですが今頃お兄さんは、少女泣かせの達人としてネットに呟かれてます」
「それはかなり痛いけど、ほら、本当にいいから今はお寿司を食べようよ。えーっと、ラーメンなんてあるらしいね。他にはうな重にカレーライスに茶碗蒸し……来る店間違えたかな」
「今時そんなものなのです。海の流れは断ち切れても、時代の流れには逆らえないのです。私は魚介醤油ラーメンを所望します。これはとても美味なるものです」
「じゃあ僕はえんがわで」
パネルをタッチすれば、お寿司が届く。今じゃ世の中どんどん電子化が進んでらっしゃるご様子。近所の駄菓子屋潰れちゃったのかな。僕もすっかりおじさんた。
「どうして私が泣いていたのか、理由とか聞かないのですか」
「話したくなったらでいいよ」
たまごの次に、マグロが流れている。最近そんなに食べなくなっていたので、一つ取った。
すると少女が身を乗り出し、マグロ一貫を奪って力強く噛み締めて、荒々しく飲み込みながら言った。
「猫が……殺されたのですっ!!」
最後だけ力強い口調だったので、周りの客が何事かと一人の少女に注目しだした。とっさに愛想笑いで乗り越える。さっき学んだ処世術。
もちろん僕自身もその言葉には驚いた。百歩譲って殺したならまだ理解出来ない。うん、理解は出来ないが、殺されたっていうのはまた物騒な話だ。
「ちょっと気を許してリードを離してやった私が間抜けでしたっ……一人で散歩くらい出来るだろうと信じた私がどうしようもないお馬鹿でした。……朝、ベランダで……寝てるのかと思ったけど、違ったのです」
──殺されたのです。
彼女が普段平気でしているような事を、今はとても怒りをあらわにしながら言っている。
殺された……か。そこまで確信的に言えるということは、それなりの理由があったのだろう。もしくは殺しが日常的なこの少女にとって、感覚的に悟ったのかもしれない。
「お兄さんは……命が殺された場面を見た事がありますか?」
「それは、ないかな」
殺されたっていうか、死んでたというか。そう、それは確かに眠っているようだった。
おばあちゃんになっても健康のままでいると自信満々に宣言していた母は、あっけなく、交通事故で亡くなった。運転操作を見誤ったというのが警察の調べだった。まるで幽霊でもそこにいたかのように、母の車は大きく車線から外れて、電信柱と激突したらしい。事故現場は花束なんて無くても、色とりどりの綺麗な花が咲いていた美しい場所だった。
美しい、公園だった。
授業中呼び出されて、なんか言われた気がするけど実感がなくて、葬式とかもすんなり終わって、公園に行って、ふと近くに目をやると……
「モンシロチョウが、蜘蛛の巣に引っかかっていたんだ。あるとしたら、それかな」
「そうですか……私は……モンシロチョウが蜘蛛の巣に引っかかっていたのを助けたんです。助けたモンシロチョウの飛んでる姿が綺麗だったので、思わず見とれていたんです。追いかけていたんです。そしたら、地面には蟻がいて、私は蟻を踏みたくなくて……私は蟻を踏まずにすみました。私が見たのは…………その時です……ごめんなさい」
「そっか……ほら、きたよ。食べよう」
「はい。いただきます」
そして僕らは、今日も殺す。誰かが生きるには、誰かが死ななければならないから。
◇◇◇◇◇
圧殺。暗殺。殴殺。虐殺。惨殺。刺殺。銃殺。溺死。焼死。毒死。死に方殺され方いろいろあるけれど、大体は漢字二文字で表せる。
問題はその後だ。
僕は公園で少女を待っていた。やがて彼女は重たそうにバックを担いでやってきた。きっとあそこには、冷たくなった猫がいるのだろう。見なくたって分かる。それは死んでいるのだ。当たり前だ。
僕らは猫をくすのきの下に埋める事にした。
「向こうで蟻やバッタさん達と仲良くしてくれるといいです」
「むしろ蟻やバッタからは恨まれてるんじゃないのかな? 飼い主が飼い主だし」
「好都合です。猫の遊び相手になってもらえます」
「それはむごい」
死んでなお、虫に安楽はなかった。
「墓標は、どれにしましょう」
「……リードかな」
「分かりましたそれにします。あ、ちょっと待ってください。ペンはお持ちですか?」
「ペンならあるけど。これでいい?」
「ありがとうございます」
少女はにリードにペンを走らせる。空中で器用な事だ。よくよく見るとカタカナで何か書かれている。
木村ロマンティックアライブ。
「名前長っ」
「あの時、この猫は名無しだと言いましたね。あれは嘘です。本当は最初から名前は付けてありました。──安らかに眠れ、木村ロマンティックアライブ……ほら、お兄さんも手を合わせてください」
「あ、はい」
彼女はいつだって大真面目だった。
「ところでまだ、木村さんには私の名前を言ってませんでしたね。私の名前は中村 美幸です。仲間内からはミサチーと呼ばれています。皆殺しのミサチーです」
「面倒だからスルーして、僕もまだ名前を言ってなかったはずだから改めて自己紹介するね。僕の名前は木村 優助。すけさんって友達からは呼ばれてるかな 」
「あ、チョウが……」
僕の名前には無関心にもほどがあった。優先順位において蝶に負けた僕。
中村さんの視線の先には、モンシロチョウが蜘蛛の巣に捕らえられていた。中村さんは……黙って見届けた。モンシロチョウは真っ白な糸にぐるぐる巻きにされた。
「やっと……殺せました」
彼女が本当に殺せなかったのは蜘蛛ではなく、蟻やバッタでもなく、モンシロチョウだったのだと僕は気がついた。