箱を開けて見るまで、殺すか殺さないかは分からない
◇◇◇◇◇
シュレディンガーの猫を知っているだろうか。僕は知らない。
さて、明後日が念願の土曜なのだから、今日も一日頑張ろうと朝の5時、最寄駅に向かいながら気怠げにカフェインを摂取していると、前の方から可憐な少女が見えてきた。
まぎれもない、最近注目の殺戮少女だった。
期せずして出会ってしまったわけだが、どうやら彼女は散歩中らしい。リードの先には、可愛らしい毛並みの猫が……
猫、だと。
逆に考えてみると、ふつうに犬の散歩をする少女なんて、それはもっとおかしな事なのかな。
「猫にリードをつけるなんて……いや、犬にリードをつけて、猫にダメな理由はないか。それとも、どっちもダメなのか」
「そうそう私もそれが言いたかった」
「かわいい猫だね。名前は?」
「まだない」
「ない?」
「この子は昨日、拾いました」
「随分懐いているようだけど」
「そうですか?」
口では興味なさそうに、少女はしゃがみ込んで名無しの猫を撫でる。撫でながら、微かに微笑む。その差は初対面では分からない小さな変化だ。
ずっと無表情な子だと思っていたけれど、それは勘違いで、案外この子は感情豊かなのかもしれない。例えば僅かに目を細める……それは大抵、『殺し』の話。
今みたいに。
「この猫をどう殺すのか、今もアイデアがつきません」
「だから怖いって」
「……でも私はきっと、この子を殺せなくなるのでしょうね」
猫を撫でながら。力強く、撫でながら。
それが嫌だったのか、一鳴きして離れる猫を見つめながら。
「情が湧いて、殺せなくなるのでしょうね。今も感じます。殺意と一緒に、愛情がどんどんどんどん膨れている」
「万々歳だよ。めでたいねそれ」
「責任を持って自分で殺そうとしたのに」
「そこは頑張って生かそうよっ……」
「一人ぼっちで死んでいくよりマシかと思いまして」
「僕には難し過ぎるなぁ」
「あ、ごめんなさい。今度はもっと教育番組を意識してお兄さんと話してあげますね」
はるか年下に気を使われてしまった。
にゃぁ、と鳴かれた。猫にも、気を使われたのか……可愛い奴め。撫でてやる。誉め殺しならぬ、撫で殺し。リードにつながれたまま猫はお腹を見せてくる。可愛い奴め。
すると、少女が取り上げるように猫を抱きしめた。嫉妬か? 可愛い奴め。
「何か言いたげなご様子で」
「ん、もうすっかりその猫が気に入ってるみたいだね」
「……否定はしません。ひと時でもこの猫を飼ってしまった時点で、私の負けだったのです。かったのに負けとはこれいかに。殺そうとは思えなくなってきました。こうして、全部の生き物を飼ってしまえば、もう何も殺す必要はなくなるんでしょうか?」
「さあ。家畜なんてものがある時点で、難しいね」
「でもアリの巣観察キットなんてあるんですよ? 本で見ましたが、中々興味深いものでした。全部とは言いませんが、こうして飼う事によって、情が生まれるのなら……バッタもカマキリもアリも、人間でさえも死なずに済むのなら、それはどんなにいいでしょうか」
理想論どころか、フワフワとしていてわたあめのように甘い。僕はわたあめが大好きだ。
「もしもの時、お兄さんは私を飼ってくれますか?」
その日はとてもお腹が空いていた。
真夜中、帰りの遅い弟を待っていた。父も遅いが、それはいつもの事だ。
「今日は遅かったね。部活、にしても遅過ぎる」
「す、すまなかった兄さん。急に我が部の皆で飲みに行くことになって、連絡するのを躊躇ってしまった。その、夜ご飯はきちんと食べるから、許してくれ」
「許すも何も僕は最初から怒ってなんかいないよ。ただ連絡は欲しかったね。お前の兄は知っての通り心配性なんだから。それに、お前の妹だってさっきまで心配して起きていた。明日一言声をかけてやるくらいしてくれよ」
「恩にきる!」
本当に怒ってなんかいない。だって今……9時だし。規則正しい生活リズムの弟だからこそ心配していたわけで、むしろお友達と一緒にご飯に行ったわりにはお早い帰宅。やっぱり弟にもはやく携帯をもたせてやりたいなぁと思った。難しい話だ。
「あ、それは明日の朝ごはんにでも食べなよ。無理して今日食べることはないよ」
「っ……助かるっ」
覚悟を決めた顔をして今日の我が家のご飯に立ち向かおうとしていた男。今は救われたように笑顔だった。お腹、いっぱいなんだね。
「それで、何を食べたの?」
「む、聞いてくれるか兄さん。実はな、学校の近くの有名な焼肉店でな、これがまた非常に美味だった。やはり一番に食べるのはタンだと決まっているのに、ノリのいい仲間がデザートを頼むものだから──」
タン……舌……グロい。
「あれは牛の何の部位なのだろうな。柔らかくて、ああ、口にした瞬間肉の甘みとか、そういうのが広がって、タレもまたお店直伝なのか濃ゆ過ぎずコクのある──」
何の部位だろうと、見方を少し変えれば、やはりどうしたってグロテスク話にしかならなかった。少女風に言うならば、死んだ牛肉の死肉の話。
「デザートもつい五杯は口にしてしまい──」
「ねえ、実はちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「む、何でもござれ。今の俺は全てに答えるぞ」
「例えば、友人から……『私を飼ってください』っていわれるのって、どんな状況だと思う?」
「えっちーと思う」
即答だった。
「もっとこう、ないかな」
「うーむ、さすがに今までそんな状況はなかったからなにも……こういう事は聞きたくないのだが、そいつは重度のマゾとやらではないか」
「どちらかというとSかな」
「しかしセリフからすると、本性はマゾされたいと思っているのやもしれん」
マゾされたいって何だよ。こいつもしかして酔っぱらってるんじゃないのか。
「ともなく兄さん、そんな危ない奴とは、いっそ縁を切った方がいいのかもしれないぞ」
ズバリ言ってくれる奴だった。
しかし弟の忠告は虚しく。僕はこの次の日に殺戮少女とまたしても出会う事になる。それも、こちらから出向くわけでもなく、偶然でもなく、初めて向こうから会いに来るという形で。
そう、向こうから会いに来てくれたのだ。
いつもは無表情で、虫も殺さないような顔をしながら、実は表情豊かで、平気でアリとか殺せるような少女が……
号泣しながら、僕を呼んでいた。小雨が降る中傘もささずに、空っぽのリードが虚しく、少女の手に掴まれていた。