5 すれ違いと感情
「あれ……耀覇さん?」
にやにやしながら歩いていたら、食堂のほうから盆を持った女官兼王宮付き神官の颯花が歩いてくるところだった。颯花はこちらを見ながら、何やら驚いた表情をしている。その視線が自分の頭部へ向いていると分かると、耀覇ははあ、と思って口を開いた。
「あ、これな。じいちゃんに切られたんだ。まあ理由はいろいろとあるんだけど……」
颯花はそうなんですか、と表情を明るくして答えた。どうやら理解してくれたようだ。
「似合ってますよ」
随分唐突な褒め言葉だった。皇女よりかは幾分優しく笑って褒めてくれた。
こういうところが、皇女との明らかな違いである。
「あ、ありがとう」
急に恥ずかしくなって頭部を掻く。颯花って、結構天然なところあるよな、と思った。
「あ、それと、はいこれ。ご飯、まだ食べてないでしょう?」
にっこり笑って、煮物と白米、そして汁物の載った盆を差し出す。それを快く受け取ると、一緒に食堂へと向かった。もう昼時なためか、席はほとんど埋まっている。二人は入って左側の席に座ると、黙々と食べ始めた。
「耀覇さん。港町には戻られたんですか?」
少々の沈黙を破り、颯花が訊く。耀覇は汁物を飲んでから答えた。
「ああ、今朝戻った。みんな元気だったよ」
「そうですか、よかったですね」
瞬間。
あ、そうだ……。
港町で、思い出した。
婚約の結納品……。
煮物を箸で掴んだまま固まる耀覇の肩を、颯花が指で突く。どうしたんですかと言われてハッとした。どうせなら、今、颯花に訊いてはどうだろうか。彼女なら何か知っているかもしれない。
「なあ颯花」
意外と低い声が出た。颯花がビクッと肩をふるわせる。
「あの、……紫苑様って、こ、……婚約、すんの、かなぁ?」
勇気を振り絞っていったら、声がかすれた。相手は颯花なのに、自分で言ったくせに、なぜだか胸がドキドキする。
しかしさすがに颯花も案の定、どうでしょうという顔をする。やはり、彼女も詳しくは知らないのか。
「確かかどうかは知りませんけれど、昔、紫苑様に婚約者がいたというのは、聞いたことがあります」
「あ、いたのね……」
がっかりした。
「でも、紫苑様も、もしご結婚なさるならば、きっと、耀覇さんがいいと言いますよ」
「え、なんで?」
「どこの誰かも分からない人と婚約するより、幼馴染みで信頼できる耀覇さんと一緒になるほうが、紫苑様も安心なさると思いますから」
彼女は、数時間前にあったばかりのムンドと、同じことを言った。
そして、もしかしたらとも思った。
皇女がもし、俺と一緒になりたいって言ってくれたら――。
「ほんっとに耀覇さんは、紫苑様が好きですよねぇ」
ゴンッと、頭に重みがかかった。痛えといって顔を向けると、訓練仲間のスヨンがいた。どうやら手に持っている盆で頭を叩かれたらしい。
短い黒髪に大きな黒い目をしたスヨンは、顔だけ見れば中性的な感じだけれども、中身は立派な男である。女官たちからは「もったいない」と陰で囁かれているのを、彼は知らない。
「うるせえな。お前も同じ気持ちのくせに」
同じ気持ち、と言われて、スヨンは表情を硬くした。どうやら図星だったようだ。
「いいじゃないっすか、オレが誰を好きだろうが」
顔が真っ赤だったことに少しムッとしたものの、そんな気持ちはすぐに消えてなくなった。気づけば、朱い牡丹の服と、薔薇をあしらった髪飾りを身につけた皇女が、こちらに向かって歩いてくるところだった。周りには数人の女官や官吏を連れ、神々しい雰囲気を漂わせている。
さすが、煌華国の皇女殿下という感じだ。
「綺麗ですね、紫苑様」
颯花が、果たして耀覇に向かっていったのか、スヨンに向けていったのかは分からなかったが、確かにそうだと思った。いや、素直に綺麗だと思う。
「どうして紫苑様って、何を着ても似合うのでしょうね。お綺麗だからでしょうか」
「……いや、見た目は綺麗でも心が汚れてたら、劣るってもんだよ。あいつには可愛げがねえ」
「何なんですか耀覇さん。それって皇女殿下のこと好きって言ってるのか、嫌いって言ってるのか、全然分かんないんですけど」
「理解しなくていいです」
突き出されたスヨンの顔を片手で押し戻してから、汁物を口に運ぶ。
と、その時。
「あっ耀覇~!」
「ブフォッ!」
「おいちょっと耀覇さん!?」
いきなり笑顔で手を振りながら名を呼ばれ、耀覇は呑み込もうとしていた汁物を吹き出してしまった。颯花に手拭いを手渡され、ありがとうと言って口元を拭く。
「あ、ごめーん、噴いた?」
軽い口調でそう謝ってくる皇女をねめつけながら、食堂を出て行く。皇女のもとへと歩いて行くと、頭上でひゅーひゅーというスヨンの冷やかしが聞こえた。そういう自分はどうなんだ。
「何ですか。今飯食ってたんですけど」
「悪かったなあ。ほらこれ」
白い掌で差し出されたそれは、先ほど髪を切ってくれたはずのはさみだった。だが、これを渡されていったいどうしろというのか。
「それでそこ切って。なんか、そこだけ残ってるとすっきりしないの」
あからさまに焦れったそうな表情を浮かべる皇女の顔を見ながら、耀覇はうーん、と悩むような声を上げる。
「別に俺、このままでもいいんだけどなあ。紫苑様も忙しいでしょ?」
「ううん、わたしは暇だよいいつも!」
その自信満々な態度からして、自分の髪を切る気も満々なようだ。
――が、しかし。
「いいよ、やっぱこのままで。それに俺――おまえが切ってくれたこの髪が好きなの」
笑顔でそう答えたら、皇女がはさみを手に固まっていた。何か変なことでも言ったかな、と思うと、皇女は乾いた笑いを溢す。
「えっと、何? どうしたの」
「いや、別に……珍しく素直なのね。普段は全然かわいくないのに」
「なっ……!」
――普段は全然かわいくない?
ってことは、この皇女……俺のことをずっと、〝かわいい〟対象だと思ってたって、そういうこと?
男としてじゃなく?
何だろう、この気持ちは。今日一番、胸に突き刺さる言葉だった。
日々男らしさを極め、いつか俺のことを見てくれるように、と願いながら苦労してきたのに、その結果が……まさかのこれ?
「耀覇? 大丈――」
「……もういいです。髪は今度切ります」
はさみを皇女から受け取り、足早に去って行こうとする耀覇の腕を、彼女は強引に掴んだ。しかし、耀覇はその手をも振り払い、その場から立ち去ろうとする。
――ああやって俺を振り回して、何が楽しいんだよ……!
長年続けてきた片思いが故に、自分が男と思われていないことを知って落胆した。そして、自分はどうしてこうも情けないのだろうと思う。もうちょっと大人になれば、皇女も自分に振り向いてくれるのだろうか。
髪を切っただけじゃ効果ない、のか。
ムンドの言うとおり、やはり自分から積極的にいかないと、皇女は振り向いてくれそうにない。
「……うぜえ」
たった二歳の差では、自分は頼れる存在ではないらしい。いや、もしくはそれ以下か。友人として、仲良くしてくれているだけなのかも。
「まだ無理なら、ちょっとずつ努力していけばいいんじゃね」
スヨンだった。ハッカ飴を口でカラカラ言わせながら、こちらに向かって歩いてくる。
「何だよ偉そうに。そういう自分は?」
「俺は対象としても見られてないからいーの。所詮あんたには敵わねぇよ」
少し悔しそうに、でも自分を慰めようとしてくれている感じがする。
スヨンはこう見えて、ちゃんと優しい。
「今すぐ俺を好きになってーって言ってるのとおんなじだよ。無理無理、そんな慌てちゃ。ゆっくり、かつ慎重にいかなきゃ」
まったく説得力はないのに、その言葉に、妙に頷いてしまった。
なるほど。要はタイミングが大事なのか。
「つっても、耀覇さんはそのタイミングすらもうまくつかめてないみたいだけどー」
「いいんだよそれはこれからで!」
その時、ちょうどスヨンの後ろから、パタパタという靴の音がした。
「耀覇!」
見れば、先ほどバイバイと別れを告げたはずの皇女が走ってきていた。