4 束の間の幸せ
「やべー……」
急いで皇宮に戻ったはいいものの、皇女にどんな顔で会えばいいのか分からず、耀覇は風璃殿の前に立ち尽くしていた。この髪を見せるか否か、会ってどうしようというのか悩み、ただひたすらぐるぐると考えを巡らせていたところで、背後から声がかかった。
「何してんの?」
「うわっ」
声には聞き覚えがあった。驚いて振り返ると、風璃殿の当主が真っ赤な林檎を囓っていた。
「し、紫苑様、ここで何を……」
驚きのあまり、声が裏返っていた。まだ心臓がドクドクいっている。皇女は特に変わったふうでもなく、ただ林檎をもらいに、と答える。
ああ、と胸元を押さえながら返すと、皇女の視線が耀覇の頭部に移った。少しびっくりしたような表情の後、ごくりとかけらを呑み込む音。
「髪の毛……切ったんだね」
「……はい」
あれだけ迷ったくせに、結局、はいと答えてしまった。
耀覇はただ、皇女の次の言葉を待つ。また心臓が、ドクドクと音を鳴らす。
瞬間、皇女の表情が変わった。
「――ま、いいんじゃない。短いのも」
「えっ」
思ってもみなかった返答に、耀覇は言葉を失った。瞬間、皇女はふいっとそっぽを向く。
「何でもない」
それから思考を巡らせて、やっと落ち着いたかと思うと、耀覇は嬉しさのあまりその場でガッツポーズを作った。パッと顔を明るくし、皇女の後を追いかける。
「ねえ、今俺のこと褒めたの? だよね?」
「うるさい。褒めてない」
「嘘つけ」
「長い方がマシだったよ」
「嘘つけぇ」
ツンツンと肩を突くと、皇女は髪の毛の房を手で弄り始めた。恥ずかしがってんのかな、と思うと、耀覇はまたも笑顔を浮かべる。
しかし、やがて皇女は気を悪くしたようで、風璃殿に入っていこうとする。そのまま変わった様子もなしに足を上げる耀覇に向かって、皇女は呆れたような顔をした。
「ねえ。ついてくるのは別に構わないけど、まさか部屋にまで入る気?」
ハッとした頃には、もう靴も脱いでいた。
「あ、いや! そんなわけないだろ、てゆーか入りたくもねえよ」
「あっそう。あと、わたしを誰か忘れた? 皇女殿下に向かってタメ口だなんて。ねえ、耀覇くん」
「……うぜえ」
苦虫を噛み潰したような顔をすると、皇女はいつものように愛くるしい笑みを浮かべる。
「あはは。面白いね、耀覇って」
「うるせえよ」
腹を立てて帰って行こうとすると、皇女が自分の腕を引く。
「来て」
「は?」
「髪の毛の長さ、バラバラで見た目が悪いから、切ってあげるよ」
何言ってるんだ、この人。ここは男子禁制なのに。
……さすがにそれは喉に引っかかって出てこなかったが、以前の自分の行動もあるし、まあいろんな意味でチャンスだと思った。
「ほら早く」
腕を引かれて中へと連れ込まれる。部屋の真ん中に座らされると、皇女は箱から糸を切るはさみを取り出す。まさかそれで切る気かと聞くと、うん、と軽く返される。しかし、いざ髪の毛に入れてみると、なかなかうまく切れない。
「切り方下手だな」
「黙ってなさい」
言われたとおり黙ったら、直後、皇女の手が自分の首筋に触れた。まるで雨粒に打たれたように、その場に硬直してしまう。
「ねえ」
二人だけの、この緊張した空気の中、皇女は至って平常だった。
「こういう話、別に今する必要ないんだけどさ」
「何だよ」
「あの……昔、城門前でちょっとした、ほらあれ、女の子が泣いてて騒ぎになったこと、あったじゃない?」
「は……?」
それって、カヤのことだろうか。カヤ、の話を、何故今する必要が?
「なんとなく、思い出しただけだよ。すごく可愛くて、わたしその子に一目惚れしたんだよねぇ」
「え、何それ、嫉妬?」
「は、どこがよ、違うから、誰がするか」
完全否定されたことに少し残念だったものの、何故カヤを思い出したのか。そればかりが気になった。
「会ったことあんの、カヤに」
「あぁ、あの子カヤっていうの? うわあ、名前まで可愛い。あ、カヤに直接はないけど、遠目ならね。どうしてカヤはあんなところで泣いてたの?」
うぐ、と耀覇は返答に困った。ここは素直に話すべきか、黙っているべきか……。どちらにしても、カヤとはただの知り合いなのに、何故か躊躇ってしまう自分が不思議だった。
「忘れなよ、カヤのこと」
躊躇った末の答えがこれだ。皇女は案の定、納得していないというふうに、顔をしかめる。
「なんでよ。わたしたち、いいお友達になれると思ったのに」
いいお友達、という言葉の意味を、多分彼女は分かっていない。
「いいお友達、ねえ」
皇女はそう思っても、対するカヤはどうだろうか。彼女は執着心も強いし、よく嫉妬するから、皇女に会えばすぐ髪の毛を掴みにかかるだろう。
それに……カヤは、ここを離れると言っていた。まだあの宿にいるのだろうが、やがてすぐに去って行くだろうし、いつ帰ってくるかも正確には分からない。そのうえ、皇女とカヤでは育った環境にも違いがある。だから、二人をうまく引き合わせるのは難しそうだ。
「無理だな。紫苑は馬鹿だもん、カヤとはうまくやれねえよ」
別に悪気があってそういったわけではないのに、皇女はグッと眉を吊り上げた。あ、怒った、とすぐに悟る。
「もういいよはい終わり! さっさと自分の部屋に戻る!」
そういって、はさみと髪の落ちた布をしまう。乱暴に詰め込む皇女の腕を、はしたねえなと言って掴んだが、すぐに振り払われる。
「せっかく髪の毛切りそろえてあげたのに、憎まれ口しか言えないなら、女官にやってもらいなさい」
「はあ? ちょっと待ってよまだここの髪――」
「そんなの下ろしとけばいいでしょ!? 失礼なやつめとっとと出てけ!」
ぐいぐいと背中を押され、風璃殿から追い出される。か弱そうに見えて、この皇女は結構力が強い。最後にべーっと舌を出して部屋に戻っていく皇女を見つめながら、そっと髪の毛に手をやった。耳の横の髪だけ、少し周りより長くなっている。ここはまだ切れていないようだ。
「うーん……でも、これはこれでいい感じだな」
どこがいい感じかと言われれば、女子みたいで、と答えるしかない髪型だけれど、しかし長髪で結っていた時よりも、割と男らしく見えた。
「おっし! そんじゃあ気持ち入れ替えて鍛錬でもするか!」
両手で拳をつくって握ると、ピンと胸を張って歩き出した。大人の階段を上った、といったら少し大げさだけれど、一歩、前進した気がする。
「この髪見たら、じいちゃん驚くだろうなぁ~」
切られる前の長髪姿は、正直ムンドはあまり好いていなかったように思う。昔から「若いんだから髪を切れ」と何度も繰り返していたので――年を取ると、短い髪は似合わなくなるらしい――こっちの方が耀覇に似合うと考えたのだろう。こうなってしまえば、逆に都合がよかった。
まあ、元はといえば、ムンドが自分の髪を無理矢理切ったわけなのだが。
「あれ……耀覇さん?」