3 長い髪はかっこいい
かすかに、海のものだろうか、潮の匂いがした。
港はもう近い。
耀覇は速度を速めた。軽快な足音が耳に響く。
こちらはもう、夕刻を迎えたようだ。まだ空は青いものの、日の光が差し込んでいる。
「おっ、耀覇じゃない! 久しぶり、帰ってきたの?」
街へと入っていくと、たくさんの人々が耀覇に声をかけてくれる。知り合いもいれば、学び舎時代の同級生の姿もあった。
ゆっくり挨拶もしたかったが、自分の今回の目的は――あくまで、皇女の容体を報告することだ。
「悪い、またあとでな!」
馬は速度を上げ港へと走る。するとここでは珍しい、茶色い家が見えた。そこに、耀覇の育ての親が住んでいる。
「じいちゃん!」
耀覇は馬を置いて、木の重い扉に手をかける。中へと勢いよく飛び込んでいくと、そこには黒い羽織を着た祖父――厳密に言えば、耀覇の育て親が、目をつむってその場に座っていた。
彼の名はムンドといい、捨てられていた耀覇を救った、命の恩人でもあった。
「耀覇か、何故戻った。姫さまの容体は」
「それが……!」
耀覇は皇女に現れたもう一つの人格のことを話すと、どうか助けてくれと懇願した。しかし、ムンドは眉根を寄せたまま、む、と黙り込んでいる。
「……それは男か」
「ああ。あと、そいつは俺に向かって『ソンファを返せ』と言っていた。本当に殺められるかと思ったぞ」
「その男の名は分かるか」
「さあ……でも、女がソンファという名なら、下町の人間だと思うけど……」
あくまで自分の推測なので、本当にそうかは分からない。しかしムンドは何度か頷き、くるりと耀覇の顔を見た。それから何か思いつめた表情をしたのち、ふうと息をつく。
「耀覇」
「え、何……」
「皇女殿下には気をつけろ」
「は?」
深刻な話でも始まるのかと思えば、皇女に注意しろ、とムンドは言った。一体彼女の何に気をつけろというのか、耀覇にはまるで分からない。
「知ってるか。皇女殿下が何故〝呪われた皇女〟と呼ばれているのか」
「……知らねぇ」
それは現に、自分も知りたい話だ。
「皇女殿下はな、昔――」
ムンドが話し始めようとした、その時である。
「ムンド様! 東の方から官軍が迫っています!」
扉をバンッと開けて、男が飛び込んできた。小窓を開けて外に身を乗り出すと、カッカッという軽快な鎧の音が響いていた。閑静な泉州の町にはそぐわない音である。
「じいちゃん……」
「取り敢えず用件を聞くか。よし、みんな外へ出ろ」
慌てて皆が外へ出ると、官軍はぴたりと足を止め、軍の長であろうひげを生やした男が前へ出た。町のものは皆その男の形相に恐れをなし、一歩後ろへ下がる。
「町長はどこか」
「儂だ」
名乗り出たのは他でもないムンドだった。彼は官軍に用件を聞くと、それが婚約のための、農作物の結納だと言った。
「泉州も、国を代表して結納の品を用意できるほど光栄なことはないが、しかし誰のものだ。誰が婚約すると?」
男の口から出た名前に、皆は息を呑んだ。
「……皇女殿下だ」
中でも耀覇は戸惑いを隠しきれず、グッと拳を握っている。ムンドはそんな耀覇を察し、皇女殿下と誰との、と問う。しかし男はそれには答えず、ただ詳細については宮廷へ参れとだけ言い残して、元来た道を戻っていった。
その姿が見えなくなると、耀覇はその場に足をつき、ギュッと唇を噛み締める。その肩にムンドが手を載せると、一旦家に戻ろうと促した。
家に戻って布団に座ると、耀覇はふっと力が抜けるのを感じ――知らないうちに、赤子のように泣きじゃくっていた。
「うわああああ! じいちゃんさっきの聞いたッ? 紫苑様にッ、婚約者がぁぁぁ」
「泣くな。男がみっともない」
「だって考えても見ろよっ。好きな人が自分以外と婚約とか、じいちゃんは耐えられるか!?」
「だからって泣くことはないだろう」
「だって……」
涙は相変わらずとどまることを知らなかったが、しかし耀覇が悲しむのも無理はない。皇女に片思いしてかれこれ8年目……8年も彼女を好きでいれば、自分から離れていくことに恐怖を感じてしまうのは、ある意味仕方のないことかもしれない。
「もう嫌だ。紫苑様が振り向いてくれないなら、俺は死ぬ……!」
「お前は馬鹿か。失恋したくらいで死ぬやつなどおらんぞ」
「でも俺は死ぬんだっ」
だんだんもどかしくて腹が立ってきたムンドは、引き出しの箱にしまってある小刀を取り出し、それを咄嗟に振り上げ――
耀覇の髪を切りつけた。
紐で結んであるところから、勢いよく刀を引き、結わいていた長髪がハラハラと弧を描いて落ちていく。
「なっ……じいちゃん何すんだよ!」
耀覇は切られた髪の毛を手に、瞳に余計涙をためる。それだけで泣いた唯一の理由は、長い髪結わくのかっこいいね、と皇女に褒められたからである。それに今朝も、髪の毛のことを綺麗だねと言われたばかりだったのに……。
髪を触り、その短さに泣いてはまた触り、それを繰り返して数回目、ムンドが真剣な眼差しで耀覇を見た。ムンドの手が自分の髪に触れ、耀覇はその手をすり抜けると「きめえ」と暴言を喰らわす。
瞬間、何故かふっと笑みを浮かべたムンドは、再度耀覇の両肩に手を載せた。
「おい耀覇、よく聞け。男なら、一度奪われた女は命がけで奪い返すまでだ。奪われて泣いて死ぬのか、それで終わりか、悔しくないのか」
耀覇は髪の毛を握ったまま、黙り込んでいた。ムンドの言葉に心を打たれたのは確かだが、それ以上に違う感情が込み上げてきた。この感情を何というのか、よく分からない。
「紫苑様に婚約者……」
「だから、皇女殿下をお前が奪え。彼女も会ったことのない男より、幼馴染みのお前と結ばれるほうが気が楽だろう」
「気が楽って……」
その言い方に少し不快な感じもしたが、耀覇はやがて決心を固めたように、うん、と声を漏らすと、ありがとじいちゃんとだけ残して、家を飛び出していった。
あとに残されたムンドは、杯を一杯飲み干すと、ふっと優しい笑みを浮かべた。