アルハンゲリスキー条約(2)
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ルーシニア帝国。帝都アルハンゲリスキー。
ルーシニア帝国は地球上で言うところのロシア帝国であり、国土の全土が寒々しい場所だ。それは帝都アルハンゲリスキーとて例外ではなく、南半球が熱い夏の中、この帝都は凍てつくような寒さに覆われている。
「緩衝地帯の設置について、王国側は共和国側の主張を一部認める」
この中立国である帝国の帝都アルハンゲリスキーで、共和国と王国の緩衝地帯を設定する会議は行われていた。ヴェアヴォルフ戦闘団が大運河を強襲し、アナトリア地域南部からは共和国植民地軍が押し寄せている間にも、この会議は継続していたのだから、暢気というべきか、植民地戦争はあくまで植民地戦争だというべきか。
「ならば、共和国側は緩衝地帯の設置要求を撤回します」
「何?」
と、王国の全権大使が譲歩の言葉を告げたと同時に、ヴィクトール・フォン・レットウ=フォルベック南方植民地総督が自分たちが主張し、その主張から戦争まで引き起こした緩衝地帯の設置を撤回した。
「我々は新たにクシュの権利を主張させていただきます」
そう告げて、ヴィクトールは小さく笑った。
「クシュの権利だと。そちらの主張はアナトリア南部における緩衝地帯の設置だったはずだ。何故、それがクシュの権利へと変わる」
王国の全権大使はヴィクトールを睨むようにして、そう告げる。
「アナトリア南部の安全は既に確保されたものと我々は考えている。王国植民地軍には我々を脅かすほどの力はないと。よって、我々は現在ミスライムで行われている戦闘を停止する見返りに、クシュの権利を要求する」
そして、王国の全権大使の言葉に、共和国の全権大使が返した。
「どうかしている。貴国には盗人根性が染みついているのか」
「これは植民地戦争だ。あなた方も我々の立場ならば同じことを要求しただろう」
王国の全権大使が吐き捨てるようにそう告げるのに、共和国の全権大使が畳み込むようにそう告げた。
その言葉に王国の全権大使は沈黙している。
そう、立場が逆ならば、王国は恥も外聞もなく、共和国と同じようにミスライムでの停戦と引き換えに、共和国の植民地を要求しただろうから。王国とてこれまでの植民地戦争を天使のように戦ってきたわけではない。
「本国と相談させていただく。回答はそれからだ」
最終的に王国の全権大使はそう告げて、一旦会議室から退席した。
王国がクシュの権利を共和国に譲ることを決定したのは、それから4時間後のことだった。
王国にとっては苦渋の決断だ。クシュのエーテリウムは大事であるが、大運河は更に重要なのだ。大運河がいつまでも塞がれ、機能不全に陥っていては、王国経済がガタガタになり、エーテリウムどころの話ではなくなる。
よって、王国はかつての戦争で獲得したクシュを、共和国に譲渡した。これでミスライムにおける戦争が終わってくれることを祈って。
「では、条約へのサインを」
「その前に条文にひとつ書き加えていただきたい」
共和国の全権大使とヴィクトールが喜びに浸る中で、王国の全権大使が彼らを押さえて、言葉を告げる。
「今後、ミスライムにヴェアヴォルフ戦闘団が入ることを禁止する条文を追加していただきたい。本国からはこの条文が追加されなければ、条約にはサインしないという指示が出ている」
異例のことだ。
国家が結ぶ条約で、ただの1個大隊を中核とする部隊の侵入を禁止する条文を追加するなどこれまで例がない。これまではそんなことをする必要もなかったし、するものもいなかった。
だが、王国はもはやヴェアヴォルフ戦闘団を完全に危険視している。彼らがただ一撃の攻撃で大運河を機能不全に陥らせ、この屈辱的な条約へのサインを強制したのだということを理解している。
よって王国本国はヴェアヴォルフ戦闘団の動きを制する条文が追加されなければ、またミスライム危機は起きると考え、ヴェアヴォルフ戦闘団のミスライムへの立ち入りを禁止することを求めた。
「たかが一部隊について条約に記すのは異常ではありませんか?」
「何を抜け抜けと。そちらが植民地軍内に精鋭部隊を組織したのは、もう分かっている。本国軍から将兵を派遣して、増強したのだろう。この条文が追加されなければ、王国は条約にサインしない。サインしても、アナトリアのときのように、この部隊が全てを無意味なものとするのだからな」
ヴィクトールがそう告げるのに、王国の全権大使は苛立ちながらそう返した。
ヴェアヴォルフ戦闘団のこれまでの戦歴は王国秘密情報部が調べ終えている。
ヌチュワニン鉱山にて王国植民地軍の魔装騎士部隊を撃破。サウードにおいて反乱部族を数日で鎮圧。アナトリアにおいてベヤズ霊山を強奪し、奪還に向かったウィルマ・ウェーベルの指揮する部隊を撃破。そして、ミスライムにおいて大運河を強襲。
これまでの共和国植民地軍ではありえない戦績だ。いや、王国植民地軍でも、帝国植民地軍でも、これだけの戦績を上げるのは不可能であろう。
よって、王国は共和国が植民地軍に本国軍から抜擢したエリートを入れ、それによって植民地軍内部に精鋭部隊を組織したのだろうと考えた。そう考えるより他ないのだ。
まさか、本当に植民地軍だけの部隊だとは王国は考えられなかった。
「どうするかね、レットウ=フォルベック南方植民地総督?」
「彼らもこれからの戦争で大運河を利用することがあるかと思いますので、王国植民地軍の立ち合いの下ならば、大運河を利用できるようにしていただければそれでよろしいかと思います」
共和国の全権大使が尋ねるのに、ヴィクトールがそう返す。
「そういうことだ。王国植民地軍の立ち合いがあるならば、大運河を利用できるようにしてもらいたい。こちらとしては再び大運河及びミスライムを攻撃する意図はないものと保証する」
「その言葉をどこまで信じたものか」
共和国の全権大使と王国の全権大使はそう言葉を交わしたのち、新たにヴェアヴォルフ戦闘団についての条文が追加された条約に調印した。
アルハンゲリスキー条約。
共和国植民地軍は直ちに戦闘を停止し、アナトリア地域南部はミスライムとの国境線から30キロメートル後方まで撤退し、非武装地帯の設置に協力すること。その代りに王国は共和国にクシュの権利を譲渡する。
事実上の共和国の勝利だ。共和国はミスライムを攻撃し、クシュを手にした。
各メディアはこの条約締結のニュースを一面で報じ、王国臣民は自分たちの敗北に涙し、共和国市民はアナトリア地域に続く勝利にお祭り騒ぎとなった。
「よくやってくれた、キンスキー少佐! 胸がすくような気持ちだ!」
条約の調印式典が開かれているアルハンゲリスキーの迎賓館でそうクラウスに声をかけるのは、フランク・フォン・ファルケンハイン元帥だ。彼は満面の笑みを浮かべて、クラウスの肩を叩いていた。
「あれだけの小部隊で、師団、いや軍団規模の軍隊に勝るとも劣らぬ戦果を挙げた貴官に敬意を示すぞ。本当によくやってくれた。これで我々はあの屈辱的なクシュでの敗北の仇討ちを成すことができた」
「閣下にお喜びいただき光栄です」
クラウスは何を大げさなと思いながらも、ファルケンハイン元帥の言葉に頷いて見せた。
「クシュでの敗北は共和国植民地軍にとって本当に屈辱であった。それが覆されたことは素晴らしい。共和国はこれからも貴官の共和国への貢献に大いに期待する。エステライヒ共和国万歳! 我らが共和国と全ての人民に栄光あれ!」
ファルケンハイン元帥は哄笑し、シャンパンのグラスでクラウスと乾杯すると、他の列席者たちへの挨拶に向かった。
「大げさな親父だな」
「彼、クシュでの戦争に従軍してたのよ。で、クシュでは共和国は負けた。大げさにもなるものよ」
去っていくファルケンハイン元帥を見て肩を竦めるクラウスに、彼のパートナーとして調印式典に参加していたローゼが告げる。
クラウスとローゼはフランクの招きで、この調印式典に参加していた。もうミスライムでヴェアヴォルフ戦闘団が戦う必要もないし、後のことは他の隊員に任せて、クラウスたちは調印式典に出席するために、遥々この帝都アルハンゲリスキーを訪れていた。
「クシュに従軍した連中は多いな。アリアネといい、ファルケンハインの親父といい。共和国植民地軍はクシュの敗北をずっと引き摺ってたのか?」
「そうじゃないの? 人間は一度大きな失敗をすると、そのことに執着するもの。クシュは共和国にとってのトラウマだったのよ」
アリアネ、ファルケンハイン、そしてここで触れられていないがフーゴもクシュでの植民地戦争に従軍している。
彼らは植民地軍としてはよく戦った。だが、同じ植民地軍同士では王国の方に利があった。王国植民地軍からは本国からの全面的なバックアップを受けて戦い、練度も高い兵士を送り込んでいた。
対する共和国はトランスファール共和国で編成しただけの寄せ集め部隊を投入し、本国はクシュの戦争は植民地政府に任せていても勝てると判断したことで碌な支援はなかった。
その結果の敗北。
ファルケンハイン元帥は明らかにクシュでの敗北に不満を抱いているようであったし、アリアネも言葉にしないが、クシュのことは気にしているようだった。フーゴも今回の大運河を攻撃して、クシュを奪うという作戦には熱心だった。
「なら、もはやそのトラウマは存在しないな。共和国はクシュを手に入れた」
「そうね。逆に王国にとっては大運河と私たちの存在がトラウマになったみたいだけど」
クラウスはシャンパンに僅かに口を付けてそう告げ、ローゼは頷いた。
「ああ。連中は俺たちがまた大運河を攻撃すると思っているようだった。こっちはあんなギャンブルはもう二度と御免だってのにな」
ローゼの言葉にクラウスは肩を竦める。
大運河強襲はクラウスにしてはギャンブル的な要素が強い作戦だった。
何せ、大運河に突っ込む前に哨戒に当たっていた駆逐艦に臨検を受ければ、作戦は失敗だったし、駆逐艦が巡洋艦であったりすれば作戦成功は困難になる。そして、王国海軍が大運河を堰き止めることを恐れずに、ローゼたちの乗っていたエーテリウム輸送船に魚雷を放っていれば、ローゼたちは大損害を受け、クラウスは重要な装甲猟兵中隊を丸々失うことになっただろう。
そして、大運河強襲後の行動も、もし兵站基地に蓄積されているエーテリウムがスレイプニル型魔装騎士を動かすのに不十分なものであったならば、クラウスたちはキャナル・タウンでストップする羽目に陥ている。
「あなたは運がいいから大丈夫じゃない? あなたは求めるものは獲得し続け、望むものは全て叶えてきた。とっても幸運な人」
「馬鹿言うな。俺だって思い通りにならなかったことはある。随分と昔の話ではあるがな……」
ローゼが悪戯気に笑って告げるのに、クラウスはそう返す。彼の脳裏には玄界宗一として生きていたときに、麻薬カルテルの放った暗殺者に殺されたことが思い出されている。
「その話、ちょっと気になる。あなたが失敗した話聞かせてくれない?」
「嫌だ。どうせ話しても信じやしないだろうからな。頭の病院案件か、レナーテ案件な話だ」
自分には前世があり、異なる世界に転生したのだ、などと話しても信じる人間の方が稀だし、信じる人間には問題がある。どの人物も、そんなことは信じはしないだろう。信じるのはオカルトかぶれのレナーテぐらいだ。
「私は信じるわよ。あなたの話なら。あなたの話を最初に聞いた時には夢物語のように思えたけれど、あなたはそれを現実に変えていったから」
ローゼはそう告げて、ほんの少しクラウスにもたらせる。
「あなたがまだ士官にもならないうちから、植民地で列強を破って、自分のための植民地帝国を作るって話を聞いたときには冗談かと思った。けど、あなたの計画は驚くほどに精密だったし、あなたの技量は口だけじゃなかった」
クラウスはローゼを植民地軍の食堂で彼の計画に勧誘した。
植民地軍内部で独立した戦闘部隊を組織し、その部隊によって列強を打ち負かし、ロートシルト財閥などと癒着し、自分たちのための植民地帝国を作るのだと、クラウスはローゼに語った、その時はクラウスもローゼもまだ15歳で、士官候補生に過ぎなかったというのに。
しかし、あれから4年と僅かで、クラウスは自分の立てた計画を着々と成功させていった。クラウスは王国を相次いで破り、ロートシルト財閥の信用を獲得し、多大な金を手に入れていた。
「だから、あなたのいうことならどんな突拍子のないことでも信じる。あなたは私の願いも叶えようとしてくれているから」
そう告げて、ローゼはいつもの生気の薄い瞳でクラウスを見上げる。
「……そのうち話してやる。そのうち、な」
クラウスはシャンパンを呷るとそうとだけ返した。
「さて、いつまでも俺たちだけでお喋りしてるわけにはいかんぞ。植民地軍のお歴々が集まってるから挨拶しておかないといかん。連中の機嫌を取って、俺たちが本当に自由に活動できるようにな」
「はあ。私はそういうの苦手」
クラウスは次のシャンパンのグラスをウェイターから受け取り、うんざりとした表情のローゼを連れて迎賓館の大広間を歩き始めた。
「のう。お前たちがヴェアヴォルフ戦闘団とかいう部隊の指揮官と副指揮官かの?」
と、植民地軍の将官たちへの挨拶に向かおうとしたクラウスたちを呼び止める声が背後から響いた。まだ幼い少女の声だ。
クラウスが怪訝に思って振り返ると、そこにはやはりひとりの幼い少女がいた。アッシュブロンドの髪を子供っぽいツインテールにして纏めた小柄な少女だ。年齢はヘルマと同じくらいかそれ以下に思える。
「そうですが、何か?」
ただの子供がこの条約の調印式典の場にいるはずがない。この少女も、全権大使や招待者の娘か何かだろうと思って、クラウスは用心深く返事を返した。
「おおっ! 噂通り若いのう。共和国は帝国とは違って若手の人材の育成が進んでいるようで羨ましい限りじゃ」
その少女はパンと手を叩くと、マジマジとローゼとクラウスを観察する。
「失礼ですが、帝国の関係者の方で?」
「まあ、そのようなものじゃ。珍しいイベントがあるようじゃから、無理を言って割り込ませてもらった。王国が帝都においてエステライヒ──共和国に屈するなど数十年振りのことじゃかならな」
クラウスが尋ねるのに、少女はカラカラと笑ってそう告げる。
そりゃそんだけ限定したイベントが起きるのは数十年振りだろうさ、とクラウスは内心で思いながらも笑顔を維持した。
この調印式には王国と共和国の関係者の他に、この条約締結を仲介する帝国の外交官たちがいる。帝国の外交官というのは基本貴族しかなれないので、この少女も帝国の関係者なら、栄えある帝国貴族令嬢というわけだ。
故にクラウスは用心して接しておいた。ローゼはそうでもないが、貴族令嬢というのはプライドだけは一人前に高く、ちょっとしたことで機嫌を損ねるのだから。そのことはパトリシアで散々経験している。
「それもただの一部隊に王国植民地軍がけちょんけちょんにやられたそうではないか。それがお前たちの部隊なのじゃろう?」
「どうでしょうか。今回、勝利を得たのは共和国植民地軍全軍が一体となって戦ったからだと思いますので」
少女の目が僅かに光るのに、クラウスは模範的な士官づらをしてそう返す。
「謙遜するでない。帝国陸軍の将官から聞いたが、とんでもない離れ業をやってのけたのは、お前たちの部隊じゃろうが。民間船に偽装して大運河を強襲し、そのまま大運河を堰き止める。それも友軍の支援は一切なく」
少女はどこから手に入れたのか、ヴェアヴォルフ戦闘団が行った具体的な作戦について語った。
この時点でクラウスはこの少女がただの貴族令嬢ではないと判断した。普通の軍事組織であれば、貴族令嬢だからと言って軍の情報を漏らしたりはしない。つまりは、この少女は軍から情報を得られる立場にあるということだ。
「さて、どうでしょうか。それは軍機に属しますので自分からは何とも」
「食えぬ男じゃのう。まあ、それぐらいでなければ、たったの1個大隊で王国を屈服させることなどできぬじゃろうが」
クラウスは警戒態勢を引き上げて話をはぐらかすことにし、少女は楽しそうにクスクスと笑う。
「そして、狸でなければあのロートシルトと繋がることもできぬじゃろう?」
少女の口からロートシルトという単語が出るのに、クラウスが儀礼的に浮かべていた笑みが僅かに強張る。
「ロートシルト財閥と組んで儲けるのが、そっちの計画じゃろう。ロートシルトは今回の戦争が勃発する直前になってクシュの開発権を買っている。ゴミ屑同然の代物を捨て値で、更には優先開発権まで付けてもらって購入し、今回の戦争でそれを金塊に変えた。お前たちの取り分はどれほどじゃ?」
少女はシャンパンのグラスをクルクルと回しながら、クラウスにそう尋ねる。
「さあ、自分には何のことか分りかねますな。自分は一介の植民地軍少佐に過ぎませんので。そのようなお話がなさりたければ、南方植民地総督閣下となさってください」
クラウスはそう言ってにこやかに笑う。
「本当に食えぬ男じゃのう。これからが楽しみじゃ。またアナトリアや大運河のような大事をやらかすのじゃろう。共和国は人材が豊富で羨ましいことじゃのう。帝国も見習わせたいところじゃ」
クラウスの返事に少女はカラカラと笑う。
「失礼します」
と、クラウスと少女が会話をしていたときに、不意に横から声がかけられた。
パトリシアだ。ヴィクトールの娘として条約の調印式典に参加していた彼女が、どこか焦った様子でクラウスと少女の横から割り入った。
「この士官が何か無礼を働きましたでしょうか? 何分、植民地軍は規律という面では問題がありまして。殿下に不快な思いをさせてしまいましたら、私が謝罪いたします」
パトリシアはクラウスも見ずに、少女に向けていきなり謝罪の言葉を告げる。
「いやいや。楽しませてもらっただけじゃ、パトリシア嬢。これからも帝国と共和国が共に繁栄することを祈っておるよ。ではな、キンスキー少佐」
少女はパトリシアの謝罪の言葉に首を横に振ると、シャンパンのグラスを手に調印式の式典会場を歩いていった。そして、その少女に列席者の誰もが、敬意を示しているのが窺えた。
「パトリシア。あれはどこの貴族の令嬢だ? あの様子から見て、そうとう名のある貴族の娘に思えるが」
「あなたって人はあの方が誰かも分らずに話してたの!?」
クラウスが怪訝そうな表情を浮かべて尋ねるのに、パトリシアが完全に呆れ果てた表情を浮かべる。
「彼女はエカチェリーナ・ロマノフ殿下。現ルーシニア帝国皇帝アレクサンドル4世の娘にして、第3皇女よ。貴族令嬢なんてものじゃないわ。本物の皇族よ」
「皇女殿下、か」
パトリシアが焦るのも当然の話だった。
相手は帝国の政治中枢にもっとも近い皇女だった。それを植民地軍という野蛮極まりない連中に任せて非礼を働けば、共和国と帝国の関係が大いに拗れてしまう。
「あなた、彼女を不愉快にさせるようなことは言ってなかったわよね?」
「別に。どちらかと言えば、向こうがこちらを不愉快にさせてくれたな」
パトリシアがジト目で確認するのに、クラウスはシャンパンのグラスを傾けながらそう告げる。
エカチェリーナがクラウスとの会話で告げたのはヴェアヴォルフ戦闘団が如何に優れた部隊かであり、彼らがロートシルト財閥と繋がっていると──どこからか手に入れた情報を告げただけだ。
「なら、いいけど。ここで共和国と帝国の外交関係が崩れるのは誰も望んでいないんだから。私は純粋に外交関係が気になっているだけで、あなたが非礼を働いたことで処罰されることは気にしてないからね!」
「ああ。分かってる。自分のケツは自分で拭ける」
パトリシアが顔を赤くしてそう告げるのに、クラウスは平然と返した。
「で、条約の調印は無事に終了か?」
「そうね。両国の全権大使が調印して、条約は発効されたわ。またあなたたちが停戦破りをして、ことを掻き乱さない限りはだけど。本当に勘弁してよね。あなたに野望があるのは分かるけど、共和国は綱渡り状態なんだから」
クラウスが問うのに、パトリシアは溜息混じりにそう返す。
「まあ、この先の計画はまだ策定中だ。少なくともまたミスライムで事を起こす事は考えていない。だが、俺は俺の野望のために動くぞ。他の誰が何と言おうとも、俺は俺のための植民地帝国を築く」
クラウスはそう告げてクスリと小さく笑うとシャンパンのグラスを傾けた。
「気をつけてよね、クラウス。もう王国はあなたの部隊を危険視していることは、あの条文から見ても明白よ。いくらあなたでも、王国植民地軍が全軍でかかってきたら勝てないでしょう?」
パトリシアは本当にクラウスを心配している口調でそう告げる。
「その点は問題ない。俺たちは正面からは戦わない。常に奇襲を心がけ、相手の部隊が纏まって抵抗してくることを避けている。俺たちに敗北はない。そうだろう、ローゼ?」
「ええ。“クラウスと私なら”これからも野望を続けられる」
クラウスはそう言い、ローゼは余裕のある表情でパトリシアを見た。
「クッ……。兎に角、用心してよね。あなたの部隊は良くも悪くも有名になった。それは敵が増えるということを意味するのだから」
ローゼが不敵な笑みでクラウスに寄り添うのに、パトリシアは吐き捨てるようにそう告げて、彼女の調印式典の会場に消えていった。
「俺たちの部隊も有名になったか。王国が警戒するのは分かるが、帝国の皇女殿下まで自分たちに関心を持つのは意外なことだな」
王国はヴェアヴォルフ戦闘団のミスライムの入国に制限をかけ、帝国では第3皇女という立場にある人物が、クラウスの部隊に関心を示している。
「いいじゃない。あなたは金と同じように権力も求めているんでしょう。有名になった分は、権力が得られるんじゃない?」
「そう簡単にことが進めばいいがな」
ローゼがシャンパンに口をつけて告げるのに、クラウスは肩を竦めた。
条約は無事調印され、共和国植民地軍と王国植民地軍は非武装地帯の設置を始めた。キャナル・タウンで起きていたサウス・エルフの反王国運動は、帰還した王国植民地軍に徹底的に叩き潰され、キャナル・タウンは猫人種とサウス・エルフの間に深い溝を刻みながらも平穏が戻ってきた。
それと同時にロートシルト財閥の企業であるSRAGがクシュの開発を始めた。彼らはクシュにおける最優先の開発権を手にしており、王国が採掘していたエーテリウム鉱山をそっくり自分たちのものとした。
ミスライムを巡る戦争は終わった。だが、そうして訪れた平和は、次の戦争の準備期間に過ぎない。
共和国も王国もそのことを理解しており、クラウスのヴェアヴォルフ戦闘団は次の陰謀のための準備を開始したのであった。
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