錯綜する情報
……………………
──錯綜する情報
大運河の港町であるキャナル・タウンには、大運河の歴史を記した博物館がある。
その大運河博物館は、キャナル・タウンの北部は臨海地区に位置し、博物館からは運河の北側の出口に広がる地中海を見渡すことができる。
「うへえ。博物館って面白くないんッスよね……」
ヘルマはメアリー朝風建築の博物館を見上げて、そう愚痴る。
「文句を言うと追い出すと言っただろう。それにここに来た目的は、ノーマンと接触するためだ。博物館の展示物を楽しみに来たわけじゃない」
クラウスはそう告げて、入場料を支払い、博物館の門を潜った。
大運河博物館の正面ホールには、工事に使用された最初期の人工筋肉を利用した重機が展示されており、その奥には大運河の模型が置かれていた。どの展示物もそれなりに観光客が張り付いて見ている。
「模型、見ておく?」
「いや。地図と同じだ。恐らくは軍事機密に関する部分は省いてある。実際に自分の目で作戦地区になるエリアを見たからそれで十分だ」
ローゼが模型を指差して告げるのに、クラウスが首を横に振った。
「あっ! ローゼ姉! そのブレスレット、どうしたんッスか?」
と、ここでヘルマがローゼが見慣れぬブレスレットを嵌めていることに気がついた。
「クラウスに買ってもらったの。彼とお揃いの奴をね」
「ええっ! そんなの聞いてないッスよ、兄貴!」
ローゼは少し自慢げに簡素な銀のブレスレットをヘルマに見せ、ヘルマはクラウスの下まで走っていくとウーウーと文句を言う。
「お前には焼き菓子を奢ってやっただろう。それで満足しておけ。どうせ、植民地人たちが売っているような安物だぞ」
クラウスはヘルマを相手にせず、注意深く観光客たちに視線を走らせながら、ノーマンとの会合予定地点に向かう。ここに王国の治安当局の職員が混じっており、ノーマンやクラウスたちをマークしているという可能性はあるのだ。
「ローゼ殿はクラウスとは親しいのか?」
そんなクラウスの背後ではナディヤがローゼにそう問いかけていた。
「それなりには。彼とは付き合いが長いから。15歳で植民地軍に入隊して、それからずっと一緒に過ごしているわけだし」
そう告げるローゼの表情には余裕の色が見えた。
「そうか……。私はまだクラウスとサウードで会って、そう長くはないからな。その分、重厚な関係を築いているとは思うが。ローゼ殿に比べるとまだまだなのだろうな」
そんなローゼにナディヤが僅かに俯いてそう告げる。
「まあ、あの人はいろいろと無頓着だから、周りは困りものね」
ナディヤの言う重厚な関係というのが、彼女がクラウスに純潔を捧げたということを理解しているローゼはクラウスとお揃いのブレスレットを指でなぞりながら、クラウスに胡乱な視線を向ける。
「兄貴はあたしを情婦にしてくれるッスよ。絶対に振り向かせてみせるッス!」
そして、妹に近い立場で後れを取っているヘルマは、自分を鼓舞し、他者に自分の存在を見せ付けるために静かな博物館でそう堂々と宣言する。
「ヘルマ。静かにしろ。目立ちすぎだ。今からでも追い返すぞ」
「す、すいませんッス、兄貴」
そんなヘルマをクラウスが一喝し、クラウスはノーマンとの会合予定地点である海が見えるバルコニーまで進んだ。
「いないな」
だが、そこにノーマンはいなかった。
クラウスは念のために周囲の展示物を眺める振りをして、時間を潰したが、それでもノーマンは姿を現すことはなかった。
「トラブルだな。ノーマンがしくじったか」
時間には正確なノーマンが会合予定地点に姿を見せない。それは厄介なトラブルが迫っていることを察知させた。
「キンスキーさんですか」
と、クラウスが展示物である運河を建造する際に使用された数々の工具を眺めていたとき、見知らぬ男がクラウスに話しかけてきた。
「さあ。俺はヤン・イェンゼンだ。人違いじゃないのか?」
クラウスは偽造パスポートに記されている偽名を述べる。
「理解しています。ノーマンは問題が生じました。ここには来れません。代わりにキャナル・タウン南部地区の貸し倉庫で待っています。ノーマンにはあなたの力が必要です。どうか頼みます」
男はそう告げると、クラウスに紙片を手渡し、去っていった。
「問題か。面倒なことになったな」
クラウスは紙片に記された住所を読みながらそう呟く。
「問題の解決に向かう?」
「あの男が言っていることが本当ならばな。あの男が王国秘密情報部の情報要員で俺たちを罠に嵌めるために、この手の策略を考えたということは十二分に考えられることだ」
ローゼが尋ねるのに、クラウスは展示物を見ながら唸った。
ノーマンは現状、行方不明。確かな情報は何ひとつとしてない。これが王国の仕掛けた罠である可能性は十二分にある。
「あたしたち、王国に勘付かれるようなことしたッスかね」
「王国秘密情報部は市民協力局並みの防諜体制を整えている。ミスライムに怪しげな人間が入り込んでくれば、察知するだけの能力はあるだろう」
クラウスたちは完全に民間人の旅行者として振舞っているが、王国がクラウスたちをあのヴェアヴォルフ戦闘団の指揮官だと気付く可能性はあった。ノーマンと接触しに現れた時点で、カバーは剥げかかっている。
「なら、どうする? 私とクラウスで会合地点に向かい、ヘルマさんとナディヤさんにはバックアップに回ってもらう?」
ローゼは頭を切り替えて、植民地軍の指揮官として行動を始めた。
ナディヤが現地で拳銃や手榴弾程度の武器は入手しているので、クラウスたちは丸腰ではない。会合地点が罠で、クラウスたちが捕えようとすれば、ヘルマとナディヤがその武器を使って、脱出を試みるだろう。
「それがいいだろうな。だが、会合地点に向かうのは俺ひとりだ。ローゼ、お前もバックアップに入れ。俺は敵の罠の中で、お前の面倒まで見る余裕はない。自分のことで精一杯だ」
「私も植民地軍の兵士なんだけどね」
クラウスがそう告げるのに、ローゼは不満そうながらも頷いて返した。
「さて、何が待ち構えているやら。平穏無事にノーマンと接触できればそれが一番なんだが、そうそう簡単にもいかないだろうな」
不確かな情報。消えたノーマン。不確定要素が多すぎて、クラウスにとってもこの接触はギャンブルのようになっていた。
そんな状況下でクラウスたちは怪しまれないように、大運河博物館の展示物を一通り観察し、それからノーマンがトラブルを避け潜伏しているという南部の貸し倉庫に向かったのだった。
……………………
……………………
ノーマンの潜伏しているというキャナル・タウンの南部は倉庫街だった。
大運河を通過する商船が一時的に荷物を降ろし、荷物を陸路で輸送し、大運河の出口で受け取るために、貸し倉庫がいくつも乱立していた。
「渡された紙片によるとこの貸し倉庫か」
そんな南部地区にクラウスがひとりで立っていた。
ローゼ、ヘルマ、ナディヤの3名はクラウスの援護に回ることになっており、クラウスから少し離れた地点で、クラウスの様子を観察している。クラウスが日本情報軍で教えられたように、他者の不信感を抱かない方法で。
「失礼する」
クラウスは貸し倉庫の扉をノックすると、貸し倉庫に足を踏み入れた。
「ようこそ、ミスライムへ、共和国の犬」
貸し倉庫で待ち構えていたのは、私服姿の男が6名。手には拳銃を握り、その銃口をクラウスに向けていた。
「ああ。王国秘密情報部、か?」
「我々の所属はどうでもいい。問題は貴殿がミスライムでスパイ活動を行っていた容疑があるということだ」
男たちの中でも指揮官らしい壮年の男がクラウスにそう告げる。
「スパイ行為? 証拠は?」
「こうしてスパイ容疑がかかっている男の隠れ家を訪れたことで十分だろう。貴殿にはいろいろと話を聞かせてもらう」
壮年の男はそう告げると、部下の2名とクラウスの方に向けた。
「とんだ人違いだ。俺はこの貸し倉庫を譲ってもらえないかと思って、話し合いに着ただけだ。スパイ行為なんてこれっぽちも働いていない。民間のビジネスマンだよ」
「それが本当かどうかは我々が判断する。なに、少々自白剤を使うだけだ。副作用はあるが、気にする事はない。我々の取調べを受けて、健康に帰られた人間はこれまでひとりもいないのだからな」
壮年の男がそう告げている間にも、拳銃を構えた男は歩み寄ってくる。
「全く。王国のやり方というのは強引だな」
クラウスがそう告げたと同時に彼は迫ってきた男の手に蹴りを叩き込んで拳銃を弾き飛ばし、もうひとりの男には腰から素早く抜いた拳銃の銃弾を浴びせかけた。
「チッ。生け捕りにしろ。この男が情報を握っている可能性がある!」
壮年の男はそう命じ、男たちは拳銃で狙いをつけながらもクラウスに突撃した。
「多勢に無勢か。ローゼ、ヘルマ、ナディヤ! 出番だぞ!」
クラウスは拳銃を弾き飛ばされた男の腕を掴んで自分の傍に引き寄せ、そのまま肉の盾にすると、ローゼたちの名前を呼んだ。
「援護するわ」
「任せるッス!」
「敵は6名か」
クラウスの号令と同時に、貸し倉庫にローゼたちが押し入った。
「伏兵かっ! だが、相手は女子供! 叩き潰せ! 男が生きてさえいれば、それで十分だ!」
壮年の男は部下たちにそう命じる。
「ひとり目」
ローゼは拳銃の銃口をクラウスを狙う男たちに向けて引き金を引く。
装甲猟兵で鍛えていただけあってか、彼女の狙いは正確であり、男の額に銃弾が飛び込むと、脳味噌を攪拌して、後頭部に大きな射出孔を作って抜けていった。
「やってやるッスよ!」
ヘルマの方は狙いを碌に定めず、男たちに向けて拳銃を乱射する。男たちは腹部や、四肢に銃弾を受けて怯み、そこにクラウスがトドメの一撃を加えていく。
「この程度の戦闘ならば容易だな」
銃を扱った戦闘を得意とするナディヤの射撃は3人の中での一番優れている。確実に男たちにヘッドショットを加え、念入りに胸部にも銃弾を叩き込んでいく。狙いが正確すぎて魔弾のようである。
「さて、これで片付いたな」
貸し倉庫の中には血の生臭い臭いと硝煙の臭いが漂い、男たちの死体が床に倒れこんでいる。男たちも銃撃を加えてクラウスたちを倒そうとしたのだが、生け捕りにしろという命令が足を引っ張り、一方的に鏖殺される羽目になった。
「やはり共和国のスパイか」
この場でひとりだけ生き残った指揮官らしい壮年の男は、武器を捨てて睨むようにクラウスを見る。
「ノーマンはどこにいる?」
「知らん。我々は追跡しているのが、ノーマンと言う男だということすら知らなかったのだ。だから、諸君を罠に嵌めようとしたのだ」
クラウスの問いに、壮年の男は首を横に振る。
「フン。なら、俺たちを嵌めたのは俺たちが怪しいからではなく、ノーマンと接触としようしていたからか」
「そういうことだな。諸君は実に普通の民間人の旅行者に見えた」
クラウスが考え込むように顎を押さえるのに、壮年の男はそう返す。
「つまり、ここでお前に死んでもらえば、俺たちのカバーは剥げないわけだ。悪いが死んでもらうぞ。そっちもこっちを廃人にするつもりだったんだから、恨むなよ」
「好きにするといい」
クラウスは拳銃の銃口を壮年の男の額に向け、引き金を引いた。
パンッと乾いた発砲音が響き、銃弾は男の額を抉ると、脳漿を帯びた銃弾が後頭部から飛び出し、貸し倉庫の壁に減り込んだ。
「これからどうするの、クラウス?」
「まずはこの場から逃げる。あれだけドンパチしたんだ。いくらここが人気のない倉庫街だったとしても誰かが気付く。そうなる前に俺たちは退散する」
ローゼが油断なく拳銃を構えたまま告げるのに、クラウスは死亡した壮年の男の死体を探り、何か情報が手に入らないかとポケットや懐を漁った。だが、収穫らしい収穫はなかった。
「ノーマンの奴、一体どんなトラブルに巻き込まれやがった?」
情報はなく、クラウスが首を傾げていたときだ。
「動くなっ!」
不意にナディヤが声を上げて、拳銃を振り上げ、ヘルマがそれに驚いて反射的に銃口をナディヤの向けた方向に向ける。
「待て、待て。撃つな。俺だ、クラウス」
「ノーマン?」
野太い声と共に現れたのはノーマンだった。彼も拳銃を構え、この貸し倉庫の扉の前までやってきていた。
「おい、ノーマン。お前のせいで危うく王国秘密情報部に嵌められるところだったぞ。何のヘマをしでかした?」
「ヘマをしたのは俺じゃない。俺の部下だ。まあ、話すから付いてこいよ。安心しろ。今度は扉を開けたら秘密情報部の連中がお出迎えってことはない」
クラウスがノーマンを睨むのに、ノーマンは深く溜息を吐いてそう告げる。
「彼、信用できるの?」
「さあてな。奴には十二分に儲けさせてやってるから、俺たちを裏切るメリットなんぞないと思うが。まあ、万が一ということはある。決して油断はするなよ」
ローゼが小声で尋ねるのに、クラウスはそう返した。
「で、ノーマン。目的地はどこだ?」
「キャナル・タウンで一番安全な場所。売春街さ」
クラウスの問いに、ノーマンはそう告げて大きく笑ったのだった。
……………………




