大空を羽ばたく
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──大空を羽ばたく
「試験機201号。秘封機関始動」
エステライヒ共和国北部。
そこにとある大学とととある民間企業が共用している施設があった。
“ローレンツ航空技術研究所。”
それがこの施設の名前だ。その名の通りにこの施設では航空機の開発が行われていた。長い滑走路が備え付けられ、様々なコンセプトの航空機がハンガーに納められ、今も大空への挑戦が行われている最中だ。
「試験機201号。滑走開始」
「よしよし。いいぞ。ここまでは悪くない」
滑走路を走っているのは4枚の羽根からなる複葉機だ。4枚の翼を大きく広げた複葉機は、秘封機関を動力とするプロペラを回し、それによって滑走路をそれなりの速度で走りながら、空を目がけて──。
「試験機201号、離陸せず! 離陸せず! 滑走路から飛び出します!」
「緊急停止、緊急停止! 試験中止だ!」
複葉機の様子を見守っていた研究者のひとりが悲鳴のように叫び、大柄で丸々したこの試験を主導したらしい男が試験の中止を宣言した。
その間にも試験機である複葉機は滑走路をオーバーランし、そのまま滑走路から飛び出し、滑走路の外にある草原の中でようやく停止した。
「畜生。計算は合っていたはずだぞ。ギリギリだが、今回は空を飛べたはずだ」
「けど、本当にギリギリでしたからね。これじゃ人間がひとり乗るだけで重量オーバーですよ」
試験の中止を告げた大柄な男がぼやくのに、研究者のひとりがそう告げる。
この大型な男はルーカス・ローレンツ。このローレンツ航空技術研究所を設立した人物であり、アスカニア工科大学の教授を務める人物だ。
「人間はまだ空を飛べず、か」
ルーカスはフウと大きく息を吐く。
この世界ではまだ航空機が空を飛んでいない。飛行船や熱気球の類ならばあるのだが、それよりも高速で汎用的な飛行機が空を飛ぶことはまだなされていない。
今はまだ20世紀前夜ということもあるが、それよりも人を空に送り込むことを困難にしているのは、この世界があまりにもエーテリウムを燃料とした秘封機関という単一の動力に頼り過ぎているということにもあるだろう。
この世界には蒸気機関は存在しない。内燃機関はひとつとして存在しない。人々は以前はエーテリウムを触媒とする魔術に、現在はエーテリウムを燃料とする秘封機関に頼って、それによって文明を築いてきた。内燃機関が口を挟む余地は欠片もなかった。
そうであるが故のネックもあった。
それは秘封機関は早期に軍事機密に指定され、民間で使えるのは機密指定を解除されたものだけだということだ。
かつて、ライト兄弟は12馬力のエンジンで空を飛んだ。だが、この世界ではそれだけの出力を備え、かつ航空機に搭載できるほどに小型の秘封機関は軍が機密扱いしていたし、何より需要がないのでメーカーが製造しなかった。
自分で秘封機関を作ろうにも、素人が作った秘封機関はお化けのように大きくなってしまう。小型化の技術と高度に精製されたエーテリウムを燃料とする技術の両方は、やはり機密扱いであり、アマチュアは飛行機に必要な動力を得られなかった。
これが内燃機関のある世界だったならば、もっと融通が利き、人々はもっと早期に空を目指せただろうが、魔術と言う便利な技術が逆に人々を地上に留めていた。
「もう一度、軍に要請してみてはどうですか? 高出力の秘封機関を譲ってくれと」
「もう軍隊には飽き飽きだ! あれは機密、これは機密と科学者の公開されるべき発明をかつての魔術カルトのように隠匿しおってからに! それに連中の誇る魔装騎士用の秘封機関では、それこそ巨大過ぎて機体が潰れる!」
研究者のひとりがそう告げるのに、ルーカスが怒り狂った。
もう彼はこれまで何度も軍用の秘封機関を使わせてくれ、と頼み込んでいた。
だが、返ってくるのは拒絶の言葉。
こんなよく分からない機械のために軍は予算を割けない。軍の予算はギリギリであり、秘封機関を遊ばせておくわけにはいかないのだ。故に、残念だがあなたのプロジェクトのために秘封機関を提供することはできません、ルーカス・ローレンツ教授。
「思い出しただけでむしゃくしゃしてくる。あれは軍人などではない。官僚だ。無能な役人のお手本だ。私の研究の意味を理解できないなど、脳みそに蛆でも湧いているのではないかっ!」
ルーカスの研究が上手く行かない原因は秘封機関を独占する軍が、ルーカスの研究に全く興味を示していないということだ。
軍は依然として航空戦力が存在する意味を理解できていなかった。彼らは偵察や弾着観測は観測気球で行えるから必要ないと告げ、魔装騎士、砲兵、歩兵で取り合いになっている予算を食い散らかす恐れがあるルーカスの研究を外に締め出した。
締め出されたるルーカスは軍を恨み、今は仕方なく自動車に搭載されている秘封機関でなんとか空を飛ぼうとしていた。
「教授。お客様です」
「今日は忙しい。後にしてくれ」
そして、そんなルーカスに転機が訪れる日がやって来た。
「いいんですか? 何でも共和国陸軍参謀本部の人だそうですよ?」
「共和国陸軍! あの忌々しい豚の臓物が!」
繋ぎ姿の技術者のひとりが告げるのに、ルーカスがガンとハンガーの扉を叩く。
「待たせるだけ、待たせておけ。そして、追い返せ。連中は私の言うことに耳を貸さなかった。今度はこちらが向こう側を無視してやる番だ」
「随分と子供ッぽい争いですね……」
ルーカスがそう告げるのに、技術者が呆れ果てた表情を浮かべる。
「なるほど。まだ複葉機の時代か」
と、ルーカスがそんなことを話している間に、男の声がハンガーの奥から響いてきた。
「この世界では飛行機がまだ開発されていないと聞いたから、どんなトンでもない形のものが出迎えてくれるかと思ったが、基礎的なことはちゃんとできてきるじゃないか。何が問題なんだろうな?」
男の声はこの研究所の職員のものでも、同居している大学の研究者のものでもない。
「誰だ?」
ルーカスは声のする方にカツカツと歩み寄っていく。
「これはちょっと大きすぎるな。もう少し小型である方が望ましい」
「おい、そこのお前! ここで何をしている!」
共和国陸軍の紺色の軍服を纏った将校がハンガーに並べられたこれまでの試験機を見上げているのに、ルーカスがその肩を掴んだ。
「ああ。失礼。退屈だったので勝手に入ってしまいました。お見せしたくないものがあったならば、申し訳ない」
「ん、お前、どこかで顔を……」
将校は若い男だった。大佐の階級章を付けているにしてはあまりにも若すぎるように感じられる。そして、ルーカスにはこの男の顔をどこかで見たような記憶があった。
「クラウス・キンスキー大佐!」
と、ここで喜びの声を上げたのはルーカスの実験に付き合っていた研究者だ。
「お目にかかれて光栄です、大佐。妻と子供も大佐のファンなんですよ」
「それは、それは。自分も共和国の未来を担う航空技術研究者の方に名前を知っていただけているだなんて光栄な限りです」
興奮した様子で握手を求める研究者にクラウスがいつもの模範的な士官づらをして、握手に応じた。
「キンスキー。クラウス・キンスキー。確か植民地軍の英雄か? アナトリアで戦った?」
「英雄かどうかは分かりかねますが、アナトリアでは戦いましたよ」
ルーカスもようやく思い出したというように告げ、クラウスは小さく微笑む。
「植民地軍の人間じゃなかったのか? 参謀本部の人間が別にいるのか?」
「異動になりまして、今は参謀本部に勤務しております」
混乱するルーカスに、クラウスがそう告げる。
「ならば、何の用でここに来た? 俺の研究が上手くいていないのを笑いに来たか?」
「ちょっ、ローレンツさん! 相手は英雄ですよ!」
そして再び攻撃的な姿勢になるルーカスを研究者が宥めようとする。
「笑われるべきはあなたの研究を支援しなかった軍の人間だ。あなたの研究は笑われるものではない。あなたの研究は共和国に栄光の時代をもたらす」
「……その紺色の軍服を着た人間の口からそんな言葉がでるとはな」
クラウスがいたって真剣にルーカスにそう告げるのに、ルーカスは鼻で笑った。
「航空機の出現は戦争を変える。空飛ぶ砲兵として、遠方の地上部隊に迅速な火力支援を行うような航空支援任務。無敵と思われた要塞の内側に飛び移り、内部から要塞を破壊していくことや、友軍の進撃路を確保するための空挺任務。敵の状態を上空から把握する航空偵察任務。そして敵がそれらの行動を行うことを阻止する制空任務。それらがこれまでの戦争の歯車に噛み合わされば、戦争は激変するでしょう」
クラウスがそう語るのを、ルーカスが沈黙した。
ルーカスが考えていたのはクラウスが語った中でも航空偵察と航空支援ぐらいだった。それも航空支援と言っても空飛ぶ砲兵と呼べるほどのものではなく、手榴弾や小型の爆弾の類を、操縦席から地上に向けて投げるようなものだ。
ルーカスは航空機で部隊を輸送して、要塞を制圧するなど思いつきもしなかったし、航空機同士が争うという制空戦については想像できなかった。
この将校は先を見ている。ルーカスはそう確信した。
「つまり、あなたは航空機には戦争において役立つものだと確信しているわけだ」
「その通り。戦争はやがて航空機なしでは成り立たなくなるでしょう。航空機の援護がなければ、航空機の主体的な行動がなければ、我々は戦争に敗れる」
ルーカスが経緯から呼び方を変えて問うのに、クラウスは頷いて返した。
「だが、軍はこれまで我々に支援を与えてはくれなかった。我々には小型で大出力──精製純度の高いエーテリウムを燃料とする秘封機関が必要なのに、軍は我々にそれを与えることを拒んできたではないか」
ルーカスは怒りではなく、一縷の望みを託してそう告げる。
「それは全面的に改められます。あなた方の必要とする秘封機関があなた方に速やかに提供されます。必要ならばレムリア重工が一からそれを作成して提供するでしょう」
「レ、レムリア重工が?」
クラウスは期待に応えた。ルーカスの思っていた以上に。
「自分はレムリア重工に伝手がありまして。軍の提供するもので不十分であるならば、レムリア重工が製造したものを提供することをお約束します」
クラウスはレムリア重工に大きなコネクションがある。そう、レムリア重工の母体であるロートシルト財閥の総帥であるレナーテは、クラウスのビジネスパートナーなのだから。
「……その見返りに何を要求されるのでしょうか?」
ルーカスはあまりに美味し過ぎる話に、逆に警戒感を覚えた。これはまるで悪魔と取り引きしているようなものだと。
「求めるものはひとつ。これより陸海軍省内に航空機委員会が設立されます。あなた方にはその航空機委員会が求める性能の航空機を最優先で開発していただきたい。求めることはそれだけのことです」
「最優先、ということは民間向けの航空機は後回しにしろと?」
クラウスがそう告げるのに、ルーカスが低く唸った。
ルーカスのこのローレンツ航空技術研究所は、万民が空を目指せる時代の到来を招くことを目的としている。だから、ルーカスの開発している航空機は武装も何もないものがほとんどだった。軍から秘封機関を貰うために軍用機の開発も行いはしたものの、そちらは完全に副業だ。
だが、クラウスの魅力的な申し出を受けるならば、軍用機ばかりを製造しなくてはならなくなる。
「戦争のための機械作りに専念されるならば、軍は全面的に支援します。どうされますか?」
クラウスはそう告げてルーカスを見つめ、研究者たちもルーカスを見ている。
「受けましょう。人が空を飛ぶのためなら悪魔とでも手を結ぶ」
ルーカスはそう告げてクラウスに手を差し出した。
「結構です。実に結構。詳細は追ってお知らせします。どちらも満足できる結果になるでしょう。来るべき世界大戦においては、あなたの力が必要になるのですから」
クラウスはそう告げて、差し出された手を握った。
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