トラップ(3)
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アナトリア地域内における共和国植民地軍の駐屯地。
そこにデミレル族の捕虜たちが収容されていた。
「どうするんだ? このままここにいいたら殺されるぞ」
「分かってる! だが、どうすればいいんだ?」
デミレル族の捕虜たちは震えあがっている。
今日の拷問で見せしめに仲間を殺され、次にも見せしめに誰かを殺すと言われた。そうでなくともこれまでの拷問を見れば、見せしめにされなくとも拷問で死ぬのは時間の問題だと言えた。
「逃げるしかないだろう。ここから逃げるんだ」
「どこから? どうやって?」
捕虜たちが閉じ込められているのは野外に設置された檻だ。檻と言っても頑丈な鉄格子で囲まれているわけではなく、飼育小屋のように金属のフェンスで四方を囲まれているだけのものだった。
「穴を掘るのはどうだ? この柵はそこまで地面には深く刺さっていないはずだ。ある程度穴を掘れば、そこから抜けられるかもしれない」
「手で掘るのか。それじゃ共和国の見張りが気づくかもしれないが……」
デミレル族の捕虜たちは周囲を見渡す。
いつもは2、3名の共和国植民地軍の兵士たちの監視が付いているはずのこの檻も、何故だか今日はまるで見張りがいなかった。
「今日は見張りがいないな。どうしたんだ?」
「恐らく俺たちが大人しくしていたからだろう。共和国の連中も安全だと思っているんだろう。やるなら今しかない。脱走するなら今日だ。明日になればまた誰か殺される」
デミレル族の捕虜たちはそう告げ、穴を掘れそうな場所を探し始めた。
「おい。見ろ。ここのフェンスは壊れているぞ。破れそうだ」
と、デミレル族の捕虜のひとりがフェンスの一角を指差した。
フェンスの一角が、金属の網が解け、脆くなっているのが分かった。強く押せば破れそうなほどに。ここならば外に脱出可能だ。
「よし。ここから抜けよう。ここから脱出して……」
「駐屯地の外に、山に向かって一心不乱に向かって走る。共和国の連中が銃撃してくるだろうが、振り切るしかない。この駐屯地から脱出できさえすれば、望みはある。族長たちは俺たちを見捨ててはいないはずだ」
デミレル族の捕虜のひとりが周囲を見渡して告げるのに、別の捕虜が言葉を続けた。
「なら、やるぞ。思いっきりフェンスを押せ。ただし音は立てるなよ」
デミレル族の捕虜たちは解けたフェンスの前に集まると、思いっきりフェンスを押して、その解けた金属の網を押し開き、人ひとりが十二分に通過できるだけの穴を開いた。
「共和国の連中は気づいたか?」
「気づいていない。急げ、急げ」
檻を脱出したデミレル族の捕虜たちは慌ただしく駐屯地の壁に向かう。
壁と言っても仮設の駐屯地にある壁は土嚢を幾分か積み上げただけの低い壁で、容易に飛び越えることが可能だった。
「捕虜が逃げたぞ! 捕虜が逃げた!」
と、不意にデミレル族の捕虜たちの背後が騒がしくなり、共和国植民地軍の兵士たちの怒号が響き始めた。ジープのエンジン音が鳴り響き、警報の笛の音が鳴り響き、兵士たちが地面を蹴る軍靴の音が鳴り響く。
「走れ! 走れ! 気づかれたぞ!」
「畜生!」
共和国植民地軍は逃げようとする捕虜たちに向けて機関銃と小銃で掃射を始めた。地面を駆ける捕虜の背後を機関銃の銃弾がけたたましい音を立てて地面に突き刺さり、捕虜たちの頬を銃弾が掠める。
「ジープが来る! 急げ! 追いつかれるぞ!」
「森だ! 森に飛び込め!」
ジープのエンジン音が着実に迫るのに、デミレル族の捕虜たちが森に駆け込んだ。
駐屯地付近の森は深く、ジープが押し入るのは不可能だ。
デミレル族の捕虜たちは走り、必死に走り、どこまでも走った。手足の爪が剥がされているものも、骨を折られているものも、苦痛に耐えて走った。背後から迫りくる共和国植民地軍の部隊から、ただひたすらに逃げた。
「……まだ追いかけてくるか?」
そして、数時間が過ぎただろう。デミレル族の捕虜たちが背後を見るのに、もうジープのエンジン音も機関銃のけたたましい発砲音も聞こえなくなった。
「助かったのか?」
「ああ。共和国の連中め。ざまあみろ!」
背後を確認したデミレル族の捕虜たちは安堵の息を吐き、歓声を上げる。
「これからどうする?」
「族長たちと合流するんだ。共和国の連中には喋らなかったが、非常時の合流地点があるだろう。そこにいけば、連絡係が俺たちを見つけて、族長のところまで案内してくれるはずだ。そこに向かおう」
デミレル族の捕虜たちはひとまずは共和国植民地軍の手から逃れたが、このまま森の中を彷徨っていては、また捕まりかねない。それを防ぐためにも、彼らは未だに有力な戦力を残しているデミレル族の族長ダーマードの部隊と合流しなければならなかった。
「さあ、行こう。ここまでくれば勝ったも同然だ。族長の下で治療を受け、武器を貰い、共和国の連中にやり返してやろう」
デミレル族の捕虜たちははそうして、森の中を進み、部族の者だけが知っている秘密の合流地点を目指した。
彼らが無事にダーマードたち部族の本隊と合流できたのは、襲撃から5日、脱走から1日のことであった。
そして、ダーマードと合流した彼らは喋った。自分たちの身に何が起きたのかを。共和国植民地軍が自分たちに何をしたのかを。
その報告を受けてダーマードが動いたのは1日も経たなかった。
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アナトリア地域には広範囲に豹人種が暮らしている。
彼らは部族単位で地域社会を構成し、あるものは部族連合を国家と名乗っていた。承認する列強は1ヵ国として存在しなかったが。
「バヌー! こっちだ! こっち! 海峡の向こうの連中が置いていったものがある! 面白いものがいっぱいだ!」
「待ってよ、エクレム。今は危ないから遠くには遊びに行っちゃいけないって言われているし、まだ洗濯も終わってないんだから」
この共和国植民地軍が前進した地方都市ドリュラエウムから数十キロ離れた地点にも、豹人種の集落があった。共和国の植民地支配の下でも生き残り、奴隷とされなかった幸運な豹人種たちがのどかに暮らしている。
「危ないことなんて何もないって。別に海峡の向こうの連中がいるわけじゃない。荷物を置き忘れて言っているだけなんだ。美味い食い物とか、玩具とかあるかもしれないし、漁りにいこうぜ」
「罠かもしれないじゃない。海峡の向こうの連中は私たちを捕まえたら奴隷にするって族長も言っていたでしょう。私は危ないと思うな」
会話しているのはふたりの非常に若い豹人種の少年と少女で、彼らは海峡の向こうの人間──共和国植民地軍が、撤退する際に放棄した荷物を探りに行くかどうかで、揉めているようだった。
「あっ! 誰か来た!」
「まさか海峡の向こう側の……」
と、不意に少女が声を上げ、少年がビクリと震えて人影の方向を向く。
彼らは共和国植民地軍が姿を見せたのかと考えた。彼らが共和国植民地軍の荷物を奪うことを察知したのかとして。
だが、違った。現れたのは豹人種の一団だった。同胞だ。
ただし、武装している。
「おい。エルケン族のものだな。族長たちはどこにいる?」
その武装した豹人種の男たちの一際大きな男が、少年と少女に尋ねた。
「し、知らないよ」
「あなたたちはデミレル族の?」
少年と少女はそう告げ、自分たちに質問してきた男──ダーマードを見る。
「嘘を吐け! 知っているだろう! 教えろ! さもなければ──」
ダーマードは銃口を少女の頭に向け、そのまま引き金を引いた。
乾いた銃声が響き、少女の頭にライフル弾がめり込む。少女の小さな頭蓋骨が割れ、脳漿が射出孔から撒き散らされ、少女は悲鳴を上げる間もなく、その場にガクリと膝を突いて崩れ落ちた。
「あ、ああ! バヌー! バヌー! そんな!」
「死にたくなかったらさっさと族長の居場所を吐け! どこにいる! 共和国に寝返った裏切りものはどこにいる!」
少年は悲鳴を上げ、ダーマードは少年を銃床で殴り倒した。
「いるっ! 集落にいるよ! 殺さないで!」
「黙れ、裏切りものの仲間め。ここで死ね」
少年は苦痛に叫び、ダーマードは少年の胸に銃口を向けてそのまま発砲した。
「ゲッ……」
少年は口から気泡の混じった血を吐き、バタバタともがくと、そのまま動かなくなった。
「集落に乗り込むぞ! 裏切りものたちを殺せ! 皆殺しにしろ!」
「おおっ!」
ダーマードは怒鳴り声を上げ、デミレル族の男たちが雄たけびを上げる。
ダーマードたちは少年と少女の死体を踏みにじり、一気に少年と少女が暮らしていた集落へと向かう。デミレル族の男たちは全員がサウスゲート式小銃で武装し、機関銃までも装備している。
「な、何だ……?」
デミレル族の男たちが向かった集落では、この戦時下にあるアナトリア地域でも自分たちの生活を維持している豹人種の姿が見える。彼らは銃火器で武装したデミレル族が向かってくるのに、何が起きたのか分からず、目を丸くした。
「撃ち殺せ! 全員だ! 皆殺しにしろ!」
そんな彼らにダーマードたちは牙を剥いた。
サウスゲート式小銃を構えるデミレル族の男たちが表に出ている豹人種たちを射殺していき、機関銃が簡素な木造の建物を掃射する。
銃声。銃声。銃声。悲鳴。悲鳴。悲鳴。
死体が周囲に散らばり、死にぞこなっているものたちが呻き声を上げる。
「ああっ! 誰か、誰か!」
「何故だ! 何故、同胞たちが俺たちを襲うんだ!?」
周囲は数秒で血の海となった。そして、その血の海の中では、犠牲者たちが喘ぐ。
「聞け、裏切り者ども! 裏切りの代償は支払って貰うぞ!」
ダーマードはそう叫び、建物の扉を蹴り開ける。
「ひっ!」
建物の中には、外の銃声に怯えて中に逃げ込んだ豹人種たちがいた。女もいれば、子供もいる。彼らはただただ怯えきり、何が起きているのかを理解する余地もなかった。
「裏切り者どもを殺せ! 皆殺しにしろ!」
ダーマードが叫び、建物の中に銃剣を装着した小銃を手にしたデミレル族の男たちがなだれ込み、銃剣で建物の中にいた豹人種を滅多刺しにした。
「アガッ……」
肺や気道を銃剣で貫かれた豹人種が気泡の混じった血を吐き出し、体中を銃剣で貫かれた豹人種が出血多量で緩やかに死亡する。
「ダーマード族長! エルケン族の族長を見つけました! この集落の中央の建物にいます! 既に確保しました!」
「よくやった。すぐに向かう。そのまま殺さずにしておけ」
デミレル族の男が建物に駆け込んできて告げるのに、ダーマードが残忍に笑い、虐殺が行われた建物の外に出た。
建物の外は血と硝煙の匂いで満ちている。そして、死体にも。
ダーマードはそのまま死体に溢れた、集落を通過する。
「き、貴様! 何をするのだ!」
集落中央の建物ではこの集落の長であるエルケン族の族長が捕らえられていた。
「裏切り者を罰しているだけだ」
そんなエルケン族の族長にダーマードがそう告げる。
「裏切った!? 何の話だ!」
「分かっているのだぞ。貴様らが共和国に寝返ったということはな!」
うろたえるエルケン族の族長にダーマードが怒りの滲む表情でそう告げて、思いっきりエルケン族の族長の腹部を蹴り上げた。
「きょ、共和国? いったい何の話を……」
「もういい! 殺せ!」
まだ事態が理解できないエルケン族の族長にダーマードが命じた。
「了解」
「や、やめろ! やめてくれ!」
デミレル族の男が命令に応じるのに、エルケン族の族長が叫ぶ。
その命乞いも虚しく、小銃の引き金は引かれ、放たれた銃弾がエルケン族の族長の頭を弾き飛ばした。
「フン。腐った共和国に味方する蛆どもめ」
死んだエルケン族の族長の死体を見下ろして、ダーマードが唾を吐く
「やったのか!?」
と、ここで不意に男の声が響き、建物の中にサウスゲート式小銃を握った人間の男が駆け込んできた。王国からデミレル族に軍事顧問として派遣されている王国秘密情報部の準軍事作戦要員だ。
「畜生。なんてことを。なんてことをしてくれた!」
王国秘密情報部の準軍事作戦要員はそう叫ぶ。
「なんてことを、だと? 裏切り者に報復するとは言ったはずだぞ。俺たちは裏切り者に報復しているだけだ。最初に裏切ったのは、こいつらだ。これはお前たち王国のためにもなる行為だぞ」
「王国のためだと?」
ダーマードが告げるのに、王国秘密情報部の準軍事作戦要員が険しい表情を浮かべる。
「これは何ひとつして王国のためにはなっていない! お前たちがやったのはただの虐殺だ! それも不利益な! これからもゲリラ戦を続けるには、他の部族の力が必要だということを理解していないのか!?」
「お前も言ったはずだぞ。共和国はこちらの動きを事前に察知しているように動いているのだと。ならば、裏切りを疑うのは当然ではないか!」
ダーマードたちはこの集落を襲撃した理由は部下が──共和国植民地軍の駐屯地から逃れてきた部下が、他の部族が共和国に寝返っていると告げたからだ。
それに先立った戦闘でダーマードたちは待ち伏せしたつもりが、待ち伏せされたような戦闘によって敗れ去り、その際に王国秘密情報部の準軍事作戦要員は相手はこちらの動きを察しているようだと告げていた。
部下の証言と王国秘密情報部の準軍事作戦要員の言葉から、ダーマードたちはアナトリア地域において裏切った部族がいると確信した。それ以外に自分たちが共和国に敗れた原因はないのだと。
「全く。なんてことだ。この襲撃を繰り返すつもりはないだろうな? そんなことをすれば敗北は確実だぞ」
「他の部族が恭順の意志を示せば、攻撃するつもりはない。連中が大人しく俺たちに従うという意志を示しさえすればな」
王国秘密情報部の準軍事作戦要員が吐き捨てるようにそう告げるのに、ダーマードが軽薄にそう告げて返す。
「好きにしろ。どうなっても知らんぞ。どうなってもな……」
そして、王国秘密情報部の準軍事作戦要員はそう告げると、ダーマードたちに背を向けて去っていった。
「族長。大丈夫なんですか?」
「王国は俺たちを支援しなければならない理由がある。だから、あの男も結局は俺たちを裏切れない。少なくとも信用はできる。裏切った他の部族の連中よりはなっ!」
デミレル族の男の言葉に、ダーマードはそう告げて死体になっているエルケン族の族長の死体を蹴った。
彼らがこの手の報復行為を続けたのは4日間であり、エルケン族と合わせて4つの部族が致命的な損害を負って、血の海の中に倒れた。
これまで豹人種の部族は共和国、王国、帝国の列強諸国の戦争に無関心であったが、これで強引に目を向けられることとなった。
この戦争では自分たちは既に無関係という立場は貫けないのだということを。
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