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imitation*kiss  作者: 滝沢美月
第1章 触れた指先
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第7話  雨が虹にかわるなら



「的を見ながら左足、右足の順に足を開く“足踏み”。足踏みを基礎に体の重心を腰中央に置いて、心気を丹田におさめる“胴造り”。右手を弦にかけ、左手で弓を握る手の内を作り、矢と弦が十字で交わっているのを確認して的を見る“弓構え”。左右の両拳を上にあげる“打ち起こし”、左手で弓を押し開く大三、そのまま“引き分け”」


 その声に合わせて、打ち起こした弓を左右に引き分けていく。両拳の水平を保ち、どちらかの拳が高くなったり低くなったりすることがないように平行に引き分けていく。

 五月中旬、連休明けにカケと矢と道着を購入した一年生は、さっそく練習でもカケをつけて素引きしたり、巻き藁の練習ができるようになった。

 そんなわけで今、私は巻き藁の前で弓には巻き藁矢をつがえて、射法八節の流れを説明する神矢先輩の掛け声に従って弓を引いている。

 今日はあいにくの雨のため、いつも弓道場の裏庭で練習している一年も道場の中にいる。部活中は外に出している巻き藁も今日は外に出せず道場の中でやっている。


「つがえている矢が口割れになるまで引き分け“会”。そこから“離れ”」


 神矢先輩はつがえている矢が唇の高さまできたのを見てそう言うものの……

 私は“会”の姿勢のまま、動けずに、五秒、十秒……

 “会”の状態は静止しているように見えても、実際は“引き分け”の延長線上でそれまでと同じ力で弓を引いてて、二の腕がぷるぷると震えてくる。

 これ以上は力が持たなくて、でも離すことも出来なくて。

 矢と弦から右手を離さないまま元の形に戻してしまう。


「はぁ~~……」


 神矢先輩に呆れたため息をつかれて、情けなくなる。穴があったらすぐに埋まってしまいたい。

 中学の時いじめにあって、“離れ”が出来なくなってしまった私は、もう二度と弓道はしないって決意していたのに。

 部内恋愛禁止という変な部則のために部員数が少なくなんとか新入部員を獲得しようとした神矢先輩に生徒手帳という人質をとられて脅されてしぶしぶ弓道部に入部することになって。

 弓道に真剣に取り組む神矢先輩の姿を見て、もう一度弓道に向き合ってみようと思えた。

 だから私は、唯一私が経験者だと知る神矢先輩にお願いしてこうして練習を見てもらっているのだけど。

 入部当初は、唯一の経験者、おまけに唯一の女子新入部員ということで、即戦力にしようと目論んでいる神矢先輩に何度か巻き藁をやらないかと勧められた時は断固拒否してゴム弓ばかり引いていて、もちろんゴム弓でも“離れ”ができなかった私の様子に、神矢先輩は気づいていたらしく、“離れ”が出来ない状態の私にも根気よく練習に付き合ってくれているのだけど。

 練習見てくださいとお願いしておきながら、二回連続で“離れ”出来ずに戻してしまって、呆れたため息をつかれてしまったのは仕方がないと思う。しかもこれが初めてではない。もうずっとこんな調子。

 だけど、離そうと思っても、どうやって離したらいいのか分からないのだから仕方ないのだ。

 本当は“引き分け”から、“会”、“離れ”、“残心”までは一連の流れで、“離れ”は離そうと思って離すものじゃないんだけど、いじめのトラウマで“離れ”が出来なくなってしまった私は、いままでどうやって“離れ”をしていたのかも思い出せなくて、迷宮にさまよいこんでしまった状態だ。


「小森、“会”長すぎだろ……、なに考えてたらそんなに“会”が長くなるんだ?」


 後ろで巻き藁の順番待ちをしていた成瀬君が、呆れたというよりもなぜだか感心したふうに言うから、なんとも微妙な気持ちだ。

 長くしているわけじゃなくて離せないだけだとは言いにくい……


「とりあえず、成瀬と交代して」

「待たせしちゃってごめんね、成瀬君」

「別に、見てるのも勉強になるからいいけど」


 待ちくたびれた様子も見せずにそう言ってくれるのが、せめてもの救いだ。

 成瀬君は他の二年生に見てもらいながら巻き藁をやり始め、私と神矢先輩は少し離れた場所に移動する。

 背が高い成瀬君は伸び弓を使うので、私が使っている弓は弓立てに戻し、代わりにゴム弓を受け取り、先輩たちの邪魔にならないように道場の隅の方へ移動する。


「別に離そうと思わなくていい。むしろ離そうと思うな。小森さんは“離れ”を意識しすぎて力が入りすぎているんだよ」


 まっすぐに視線を合わせて言う神矢先輩の言葉に、胸が震える。

 本当に、先輩の言うとおりだと思うから。


「ゴム弓持って」


 神矢先輩が回り込んで私の背後に立つ。

 ふぅーっと一つ深呼吸して、私は左手にゴム弓を握りしめた。


「“足踏み”、“胴造り”、“弓構え”」


 さっきは神矢先輩が言った射法八節の動作を、今度は自分で声に出しながらやる。


「“打ち起こし”、“引き分け”」


 ゴム弓を持った左右の拳を上にあげ、左手を押し開いて大三の形をとり、そこから左右均等にゴム弓を引き分けていく。

 その時、神矢先輩が私の右肘に手を当てるから、一瞬、びくっと体が震えて、意識が右肘に囚われる。


「気になるかもしれないけど、気にしないで。そのまま引いて」


 そりゃあ気になりますよって突っ込みたかったけど、“引き分け”の指導をする時に肘に触れるのはよくあるやり方で、もっていかれそうになる意識を取り戻して、“引き分け”に集中する。右肘にそっと当てる神矢先輩の手に誘導されて、ゴム弓を引ききる。


「“会”」


 ゴム弓のゴムが口割れの位置にきて喋れない私の代わりに、神矢先輩が言う。そして。


「小森さん、何も考えるな。ここで引き続けろ」


 とんとんって肘を叩く。


「あとは自然に離れる時を待てばいい」


 いつも“会”まで来るとごちゃごちゃ考えてしまう。だけど。

 神矢先輩の優しい声に導かれるように、もやもやする考えを思考から押し出す。

 もう色々考えるのはやめよう。ただ引きにだけ集中しよう――

 一瞬、いるはずもないやよちゃんのくすくす笑う声が聞こえて、喉の奥がひゅっと冷えて震える。

 だけど。

 右肘に触れる神矢先輩の手の感触に。

 そこから伝わる熱が、凍ったように動かなかった右腕に体温を取り戻させ、温かな熱が体中に広がっていく。


“大丈夫――”


 小さいけど、心強い囁きに導かれるように。

 気がついたら、パンってゴムの乾いた音が耳元でして、ゴム弓から右手が離れていた。

 いままで引っ張っていた勢いで、右手は真横に綺麗に伸びきる。


「……“離れ”、そして“残心”」


 後ろから安堵した神矢先輩の声が聞こえて。でも私は残心の格好のまま微動だにできない。

 あんなに何度も“離れ”しようと思った時はできなかったのに。中三の時も、高校で弓道部に入部してからも、一度も離れできなかったのに。

 神矢先輩の一言で、出来てしまった……

 ただ呆然と、右手を見やる。

 そっか、意識しすぎてたのか……

 ぽつりとつぶやいてみる。

 その時。


「おっ」


 嬉しそうな神矢先輩の声に顔を上げると、さっきまで振り続けていた雨がいつの間にか止んで、空には大きな虹がかかっていた。


「わぁ、すごい……」


 まるで手が届きそうな距離にあるように見える大きな虹に感動して自然と声が出てしまう。

 雨上がりの雫に反射して的場の屋根にかかる虹はあまりに綺麗で、胸がぎゅっと締めつけられた。

 唐突に神矢先輩が笑う。


「だから雨って好きなんだよなぁ~」

「えっ、そうなんですかっ!? 雨だと矢が濡れるし、一年は外練習できなくて困るんですけど」

「そう? 別に中でしてもいいじゃん。それにさ、雨が降ったから虹が見れるんだよ、雨が虹になるんだよ」


 あまりに子供みたいに無邪気な顔で笑って神矢先輩が言うから、ついつられて笑ってしまう。

 実際には雨が虹になるわけじゃないけど、きっとそういうことを言いたいんじゃないって分かるから。


「ふふっ、先輩って虹好きなんですね」

「そりゃあもう、神矢 虹乃助に改名してもいいくらい」

「そこは王道に虹男とかじゃないんですね」


 神矢先輩と一緒に軽口を叩いて、笑って。

 胸の中がくすぐったくて。

 たぶん、それは虹が綺麗だったから。 

 ずっと心にあったもやもやが、雨と一緒になくなって虹になったから。




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