第46話 君のとなりで
教室に戻ると誰も生徒は残っていなくて、机の上には紗和から「先に帰る、後でちゃんと話聞かせてよね」というような内容のメモが残っていた。
どうやら、なかなか戻ってこない私に痺れを切らして校庭に様子を見に行こうとして、下駄箱のところでタイミングよく綾部先輩に会い、私が弓道部の用事でまだ戻れないと聞いたらしい。
しかも、神矢先輩と一緒だということもしっかりと伝わってしまったらしく、なにか勘違いしているようで困る。
きっと、週明けには紗和に根掘り葉掘り聞かれるのだろうけど、そんな話すほどのことはないんだけどなぁ……
にやにやした顔で問い詰めてくる紗和の姿が想像できて、苦笑をもらす。
更衣室で体操着から着替え、リュックに体操着袋を詰め込んで背負い、下駄箱へと早足で向かった。
遅くなってしまったから一緒に帰ろうと神矢先輩に言われて、なんだか少し照れくさく思いながらも、頷いた。
ついさっき、神矢先輩の逞しい胸に抱きしめられて事を思い出すと、かぁーっと自分でも分かるくらい顔が赤くなってしまう。
でも、あれは、私の告白を遮るために仕方なくそういう行動をとっただけで、意味はないのだろう。それなのに、神矢先輩の胸から聞こえてきた鼓動を思い出して、喉の奥から甘い痺れが広がる。
やっぱり、神矢先輩は私の気持ちに気づいていたのかな……?
だから、突き放すような冷たい態度をとって、私と神矢先輩の関係を怪しんでいる成瀬君になんでもないと見せつけた……?
綾部先輩が言った『いまの関係を壊したくないって言ってたけど、それは神矢も同じなんじゃないかな?』その言葉を思い出す。
私と一緒で、神矢先輩も今の先輩後輩という関係を壊したくなくて、成瀬君の目を誤魔化すため、私が告白しないようにするため、冷たい態度をとったのだと考えるとしっくりとくる。
神矢先輩が理由もなく、あんな態度をとるはずがないとは信じていたから、先輩らしい優しい理由にふわりと口元が緩む。
そっか、後輩として大切に思われているんだ――
さっき私が「先輩に嫌われてしまったのかと思ってました」と言った時、「そんなことは……」って反射的に否定するような言葉を言って、神矢先輩は気まずそうに私から視線をそらした。きっとあの言葉の続きは「ない」だと思う。
神矢先輩に嫌われていたんじゃないという仮定が、どんどん真実味を帯びてきて、嬉しさに頬がふやけそうになる。
すでに靴に履き替えて昇降口の柱に寄りかかるようにして立つ神矢先輩の姿を見つけて、私は駆け寄った。
自転車をひいて歩く神矢先輩のとなりを歩きながら、ふっと、疑問に思う。
「そういえば、綾部先輩はなんで私に神矢先輩の昔のことを話してくれたんですかね……?」
不思議そうに尋ねたら、神矢先輩はなんともいえない微妙な表情で眉尻を下げた。
「やっぱり覚えてないんだね……」
くしゃっと前髪を掻きわけて俯いてつぶやいた神矢先輩に、私はきょとんと首を傾げる。
「そうじゃないかと思ってたけど、実際覚えられていないって面と向かって言われると、けっこうくるな……」
斜めに見下ろす先輩の横顔はこの上なく優しくて、その眼差しはうっとりするほど甘やかで、めまいがするほど素敵だった。
「まあ、あの頃の情けない姿、覚えていなくていいんだけど、ね――、凪ちゃん」
優しい微笑を含んで言われた呼び名に、私は息を飲む。
あっ――……
「小森さんはよく、俺に救われたって言うけど、そんな比じゃないくらい君に救われていたのは俺なんだよ?」
そう言った神矢先輩は少し辛そうに眉根を寄せて、切なさげに微笑んだ。
どきっと心臓が大きく跳ねる。
凪ちゃん――
その呼び方をするのは一人しかいない。幼い頃、私は自分のことを“なぎ”と言ってて、そんな私を“凪ちゃん”と呼んだのは、おばあちゃんの家にいたお兄ちゃんだけだった。
おばあちゃんは昔教師をしていて、現場を退いた後は、何かしらの事情で一時的に保護が必要になった子供を預かっていた。
毎年、夏休みに訪れるおばあちゃんの家には誰かしら子供がいることが多くて、今年は誰がいるだろうというのもおばあちゃんの家にいく楽しみの一つだった。
たまに長い間おばあちゃんの家にいて翌年も顔を合わせる子もいるけど、大抵はその夏一度っきりしか会わず翌年にはもうおばあちゃんの家にいない子ばかりだった。
幼い頃の私には、その子達がなんでおばあちゃんの家にいるのかは理解してなくて、自分にとって年齢が近く遊び相手になってくれる子だという認識だった。
小三の夏、その年はいつもとちょっと違った。
去年も一昨年もその前の年の夏休みもおばあちゃんの家にいてすっかり顔なじみになったお兄ちゃんは、いなくなっていた。
そのお兄ちゃんは私のことをいつも“ちび”って呼ぶからそれが嫌だったけど、密かにお兄ちゃんに会えることを楽しみにしていた私は落胆して、とぼとぼと庭に面した廊下を歩いていた。
ふと、障子の開け放たれた部屋に視線を向けると、そこに天使のような綺麗な寝顔の子がいた。
最初は女の子だと思ったその子は男の子で、おばあちゃんの家に住んでいると知った私は遊び相手を見つけたと喜んで、新しいお兄ちゃんを連れまわして遊んだ。
翌年、その男の子はもういなくなってて、新しくおばあちゃんの家にやってきた子と遊んだっけな。
私にとって一度っきりの出会いは毎年の事だから、そのお兄ちゃんのことはすっかり忘れていたけれど、私のことを“凪ちゃん”と呼び、なおかつ弓道をやっているのはあの時のお兄ちゃんしかいない。
なんで気づかなかったんだろう……
「忘れたことなんて一度もなかった――」
愁いを帯びた眼差しで見つめられて、胸をつく。
「すぐに君だって気づいた。まあ、出会った時、俺は君の事、小一くらいに思ってたから、なんでここにいるの!? って半信半疑だったけど……、でもよく考えたら年齢はちゃんと聞いてたわけじゃないし、生徒手帳で名前を見て、凪ちゃんなんだって確信した。なによりも、弓道をやっていることが証拠だった。だから――」
昔、おばあちゃんの家で神矢先輩と会っていたということに驚き、途中から神矢先輩の声は頭の中に入ってこなかった。
あのお兄ちゃんの顔はおぼろげだけど、天使みたいに綺麗な顔をしていたのは覚えている。それが神矢先輩なんだと言われて、納得する。だけど。
懐かしむように瞳を細めてこっちを見る神矢先輩に、私はちょっとふてくされて頬を膨らませる。
「どうせ、昔っから背が低かったですよ……」
まさか小一だと思われていたとは心外だ。
「背が低いのは家系なんです……、お父さんだってお母さんだって、おばあちゃんだって低いもの……」
ぶつぶつと文句を言っていたら、なぜだかため息をつかれてしまった。




