第45話 重なる鼓動
振り返ったそこには神矢先輩が立っていて、ぶつかった視線の先で、神矢先輩は不機嫌な眼差しで綾部先輩を睨んでいた。
「綾部、余計な事べらべらしゃべるなよ……」
普段は穏やかな神矢先輩の鋭い眼光に怯んだ様子もなく、綾部先輩はふわっと微笑む。
降参するみたいに両手を胸の横にあげて立ち上がると。
「はいはい、邪魔者は速やかに退散するから、…………」
すれ違いざま、綾部先輩は神矢先輩の肩に手を置き、耳元で何か言って去っていった。
私にはその声は聞こえなかったけど、神矢先輩の目元がかぁっと赤く染まって、立ち去っていく綾部先輩の後姿を睨んでいた。
私はなにがなんだか分からなくて。
おまけに突然の神矢先輩の登場にびくびくしてしまう。
ちらっと視線を落として私を見た神矢先輩の眼差しに、私はあからさまにびくっと体を揺らしてしまい、その様子を見て神矢先輩は切なげに眉尻を下げた。それから私に近づいてきて腕を取ると、ゆっくりと階段を登りはじめた。
「あの……」
なにも言わずに手を引いて歩き出した神矢先輩の行動に戸惑って声をかけるけど、神矢先輩はちらっと振り返っただけでなにも言わずに歩いていく。
その背中を眺めて、どこに行くのだろうと不安になる。
教室に戻ったはずの神矢先輩がなんで校庭に戻ってきたのかも疑問だった。
神矢先輩の背中からは有無を言わせぬ雰囲気が漂っていて、でも昨日までの冷たく突き放すようなものとは違って、私はつれられるままに歩いていった。
途中、何人かの生徒とすれ違って不思議そうな顔で見られたけど、神矢先輩は気にせずにどんどん進んで行く。
渡り廊下を横切ったところで、私は先輩が道場に向かっているんだと気づく。
でも神矢先輩は道場の中には入らず、壁沿いにぐるっとまわり、普段一年が練習している道場の裏へとやってきた。
「小森さん……」
立ち止まり振り返った神矢先輩は唇をへの字に曲げなんともいえない微妙な表情をしていた。
「綾部にどこまで聞いた――?」
探るようなまっすぐの視線に見つめられて、私はたじろぎながら答える。
「保健室に運んでくれたのが神矢先輩だって聞きましたけど……」
恐る恐る答えると、神矢先輩は不機嫌そうなむっとした表情で斜め横に視線を落として掠れた声で呟く。
「そのことじゃなくて……、俺の昔の話……」
「あっ、えっと、不眠症になった原因と、初恋の女の子がいるっていう話を……」
言いながら伺うように先輩を見たら、神矢先輩は苛立たしげにくしゃっと前髪を掻き交ぜて大きなため息をついてその場にしゃがみこんだ。
神矢先輩は「なんだよ」とか「綾部のやつ」とかぶつぶつ文句を言ってたけどその声は小さくて私にはよくは聞こえなかった。
聞いちゃいけなかった話なのかなと思って、そういえば、なんで綾部先輩は神矢先輩の“昔話”をしたのか疑問に思う。
神矢先輩の不眠症の原因を知ることは出来たけど、そもそも不眠症の事はごく限られた人しか知らないことで、私が知ってるって綾部先輩はどうして知ってたんだろう。
それとも知らずに言ったのかな……?
なんだかよくわからないことだらけだった。
だけど。
私はちらっとしゃがみこんだ神矢先輩を見て、胸に安堵が広がっていく。
なんでここに連れてこられたのかは分からないけど、こうやって普通に話している状況にほっとしてしまう。
それに、私を保健室に運んだのは神矢先輩だって言ってた。
最近の突き放すような冷たい態度に嫌われてしまったのかとも思ったけど、嫌われていたら保健室に運んでくれたりしないだろうし、心配して保健室に様子を見にきたりもしないと思う。
嫌われていたわけじゃない――
もう一度、神矢先輩の方を伺うように見たら、今度は、こっちを見ていた神矢先輩の瞳とぶつかった。
その表情は不機嫌というかふてくされたように見えて、こんな状況なのにちょっと可愛いなとか思ってときめいてしまう。
ふわっと甘い気持ちが胸を占領して、なんだかいまなら自分の気持ちも素直に言えそうな気がした。
私は神矢先輩に近づいていき、しゃがみこんでいる神矢先輩のすぐ横に同じようにしゃがんで、まっすぐに神矢先輩の瞳を覗きこむ。
「私、先輩に嫌われてしまったのかと思ってました」
「そんなことは……」
神矢先輩は反射的に否定するような言葉を言って、気まずそうに私から視線をそらして口を閉じてしまった。
罪悪感に揺れる瞳に、私は苦笑する。
「だって最近の先輩、練習も見てくれないし、そっけない態度ですごく冷たかったです」
「それは……」
「でも、きっとなにか理由があったんですよね? 私にはそれがどんな理由かはわからないけど、冷たい態度とったって神矢先輩はやっぱり優しい神矢先輩のままなんです。倒れた後輩を放っては置けない優しい人です」
だから好きなんです――……
いつも自信満々で堂々としてて、どこかつかみどころがなく飄々とした笑みを浮かべてて、ちょっと垂れた目尻が艶っぽくて。自分の練習そっちのけでいつも後輩のことを優先して練習見てくれて、不真面目なのかと思えば誰よりも練習熱心で、思わず見惚れてしまうくらい無駄のない洗練された射で、的を見つめる眼差しは吸い込まれてしまいそうなくらい真剣で。
その真剣な眼差しでじっと見つめられて、息もできない。
ただ視線が交わっているだけなのに、どんどん気持ちが溢れてきて止まらなくて、でも、言葉にできない。
「――っ」
すっと伸びてきた神矢先輩の指先が目もとに触れて、びくっと肩を震わせる。
「なんで、泣いてるの……」
神矢先輩の方こそ泣きそうな困ったような声で尋ねられて、その時になって自分が泣いていることに気づく。
だけど溢れてくる涙は止められなくて、私は睫毛を震わせてぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「だって、神矢先輩が……」
その言葉の続きは嗚咽に混じって言葉にならなかった。
綾部先輩が話してくれた“昔話”、それが本当なら、悲しくって切なくって、気がついたら涙が溢れていた。
待っても待っても両親が帰ってこない、もう二度と会うことができないと知った時の幼い日の神矢先輩の悲しみはどれくらいのものだったのだろう……
私には想像もできないほどの悲しみがあって、暗闇が怖くて眠れなくなってしまうほど先輩の心には深い傷があるんだと知ったら、涙が溢れきた。
大切な人がいなくなってしまう辛さを知って、大切な人を作らないように、大切なものはなるべく遠ざけてきたなんて、切なすぎる。
そんなことないって、大切なモノが必ずなくなってしまうわけじゃないって証明したい。
私は絶対、神矢先輩の側から離れたりしないって、言いたい。
好きって言ってしまいたい衝動に突き動かされて、気がついたら想いを口にしていた。
「私は神矢先輩の事がす――」
溢れて言葉になる。だけど。
伸びてきた腕が私の手を引いて、すべてを言い切る前に、それを遮るように強い力で神矢先輩に抱きしめられていた。
「っ……」
しゃがんだ格好のままの神矢先輩の胸に顔をうずめる格好で抱きしめられて、背中に回された腕に優しく力がこめられて、息を飲む。
耳に顔を寄せるようにして、神矢先輩が囁いた。
「小森さん、言っちゃだめだ」
「……っ」
びくっと肩を震わせる。
神矢先輩の一言が、甘い痺れを解く魔法のことばのように全身に広がっていく。
いま、私、なんて言おうとした……!?
我に返ってさぁーっと血の気が引いていく。
たとえ私の片思いだろうと、想いを口にしてしまえば、私は退部しなければならない。
恐る恐る顔を上げると、息も触れそうな至近距離に神矢先輩の澄んだ眼差しがあって、私を見つめる艶やかな瞳を一瞬、うるませて言った。
「ねえ、聞こえる? 伝わってる?」
甘く囁いて、背中に回された腕に痛いほど強く抱きしめられて、私の顔は神矢先輩の胸に押しつけられていた。
抱きしめられて、私の心臓は胸を焦がすようにドキドキと高鳴る。
それと重なるような鼓動が耳に当たる神矢先輩の胸から響いてきて、喉の奥がきゅっと震えた。
言葉はなくても、神矢先輩の気持ちが伝わってきて、そっと、瞳を閉じた。




