第34話 近づく足音
「小森さん、もうちょっと馬手下げて」
「……っ」
巻き藁に向かって弓を引いていた時、急に神矢先輩に背後で囁かれて、右肘に触れた大きな手の感触に、びくっと体が跳ねてしまう。
心臓はどくどくと早鐘を打ち出して口から飛び出しちゃいそうだし、背後に立つ神矢先輩に全神経が持っていかれそうになったけど。
なんとか意識を弓に引き戻して、巻き藁矢を放つ。
ドスっとという鈍い音がして、私は大きな脱力のため息とともに弓倒しして、がばっと振り返った。
なにか一言文句を言ってやろうと思ったんだけど。
「ごめん、驚かせちゃって……」
しょぼんっと眉尻を下げて、本当に申し訳なさそうに謝る神矢先輩に、私はなにも言い返せなくて、口を鯉のようにぱくぱくと動かして、俯く。
「本当にびっくりしたんですから、急に後ろから声かけないでくださいよっ……」
ため息交じりに愚痴る。
ってか耳元で喋んないでください!
自分の声がどんなに艶があっていい声してるか、分かってないんだからっ!
ドキドキと煩い心臓を手で押さえながら、恨めしげに神矢先輩を睨みあげる。
「本当にごめん」
くすっと笑って、神矢先輩はぽんぽんって私の頭を撫でて、外で練習している他の一年生の輪の中に混ざっていった。
その後姿をやっぱり恨めしげに見つめ、俯いてくしゃっと前髪に触れる。
この想いは誰にも気づかれちゃいけない――……
私、ちゃんと、後輩らしく対応できたかな……
自分の気持ちに気づいてからも神矢先輩とは相変わらず、先輩後輩としての関係が続いていて、部活に来れば神矢先輩に練習を見てもらう日々。
私の気持ちは、ちゃんと胸の奥底に何重にもロックをかけてしまいこんで、神矢先輩や他の人にも気づかれていないと思う。
だけど時々、こんな何気ないスキンシップにドキドキさせられて困る。
顔が真っ赤になっていないかとか、ちゃんと後輩らしくできているかいまいち自信がなくて、不安になる。
前からよく、神矢先輩は私の頭を子ども扱いして撫でるけど、自分の気持ちを自覚してからは、意識しすぎてしまって、自分の態度がおかしくないか気になってしまう。
はぁ~っとため息をつく。
そろそろ矢取りをするために道場に戻ろうかと顔を上げた時、道場から顔を出した成瀬君と視線があった。
視線と視線がぶつかり、なんとなくへらっと笑ってみたら、成瀬君は眉間に皺を刻んでふいっと視線をそらした。それから顔を上げて。
「小森、矢取り」
「あっ、うん、いま行くっ」
私は慌てて道場に戻り、弓と矢を片付けてカケを外して、矢取りに向かう成瀬君を追いかけた。
「成瀬君、なにかあった……?」
矢取りを終え、看的所で矢尻についた砂をタオルで拭きながら、私は遠慮がちに成瀬君に尋ねた。
いつもはなんだかんだと喋りながら矢を拭くことが多いのに、今日の成瀬君は看的所に来てからずっと無口で、成瀬君の機嫌が悪いように感じて尋ねたのだけど。
顔を上げてちらっと私を見た成瀬君はすぐに視線をそらしてしまう。
「別に……」
ぶっきらぼうに呟いて、さっさとタオルを片付けて拭き終わった矢を持って看的所を出ていってしまった。
一人、取り残された私は呆然としまった扉を眺め、矢吹きを終わらせてから道場に戻った。
最近の成瀬君は、機嫌が悪い。
その理由に、なんとなく心当たりはあるけれど、あえて自分から突きたくないというか……
逃げている自分がいる。だけど、そうするしかないんだよ。
聞かれたってなにも答えられないし、変に勘ぐられても困るし……
はぁーっとため息をついて私はなるべく神矢先輩から離れた立ち位置で射込みをした。
なんだか今日は調子が上がらなくて、部活後の自主練は手持ちの十二本を打ち終えて終わりにすることにした。
矢取りに行き、道具を片し始めていたら、不意に声をかけられる。
「あれ、小森さん、もう帰っちゃうの?」
「はい……、今日はもうやめておきます」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
そう言って神矢先輩は手に持っていた弓を置き、用具室に入っていった。
そんな時間も経たずに用具室から出てきた神矢先輩は、道場の隅の方にいる私のところまできて、内緒話のように声を潜めて言った。
「あげる」
「えっ?」
首を傾げ、手渡された小さな紙袋の中を覗くと、そこには昔流行った猫のキーホルダーが入っていた。
「あっ、これ……」
「同じのが家にあったから小森さんにあげる」
それは神矢先輩が鶴巻につけていたキーホルダーだった。以前、そのキーホルダーを見て私が「いいなぁ~」と言ったのを覚えててくれたんだ……
可愛いからいいなって思ったのは本当だけど、神矢先輩とお揃いになるんだ。
そう思うと甘い気持ちが胸に広がってふわふわする。
「他の部員には内緒な」
「はいっ、ありがとうございますっ」
両手で大事ににぎりしめ、頭をぺこっと下げてお礼を言う。
そのまま挨拶をして、道場を出る。
嬉しい!
こんなささいな事でも幸せすぎて、どうにかなってしまいそう。
スキップでもしてしまいそうな勢いで部室までの道を歩いていたら、ザッザッと背後からやや乱暴な足音が聞こえてきて誰かに追いつかれた。
見上げると、そこにいたのは不機嫌な表情の成瀬君だった。




