第30話 後輩としてなら
震える私の唇から出たのは、自分でもビックリするような言葉だった。
保健室の中央の白い大きなテーブルに片腕を乗せ頬をつけた格好のまま私を見上げる神矢先輩の瞳には、驚きの色が揺れていた。
捕まれた腕からじんじんと痺れが広がっていく。
長い沈黙が耐えられなくてそれを破ったのは私。
「……っ、忘れてくださいっ」
あんなこと言わなきゃよかったってすぐに後悔が押し寄せて、咄嗟にそう言っていたのだけど。
私の腕を掴んでいる神矢先輩の右手に、一瞬、力を込もって、テーブルの上から身を起こしてこっちを見上げた。
「小森さん……?」
困ったようななんともいえない表情で歯切れ悪く聞き返されて、胸が震える。
そんなふうに動揺されたら、玉城先輩と付き合ってるのが本当だって言われているようで、切なかった。
泣きそうになるのを必死にこらえて、きゅっと強く唇をかみしめる。
それから顔を上げて、まっすぐに神矢先輩を見た。
もう誤魔化せない気持ちに、迷いながらもはっきりとした声音で言う。
「見たんです、神矢先輩と玉城先輩が保健室で一緒にいるところ。みんなには内緒って言っているのを聞いたんです……」
「あー……、あれかぁ……」
盛大なため息をついた神矢先輩は、テーブルに乗せていた左手で前髪をぐしゃぐしゃってかきむしってテーブルに突っ伏した。
それから、首をくるっと動かして、テーブルに顔を乗せたまま私を仰ぎ見るようにした神矢先輩の頬は心なしか赤くて、照れたような顔に目を瞬く。
「安心してくださいっ、絶対誰にも言わないので……」
慌てて言った私の言葉を遮るように、神矢先輩が言う。
「待って、小森さん、誤解だよ。玉城はただの友人。あー、まさか、あれを聞かれていたとはなぁ……」
後半はひとり言のようにつぶやいて、ほんのちょっと赤く染まった頬のまま、視線を落とした。
そのふてくされたようなその顔が愛おしくて。
テーブルに左腕と頭を乗せたまま、視線だけで私を仰ぎ見る神矢先輩の瞳はうっとりするほど甘やかで、どきっとする。
私の腕を掴んでいた神矢先輩の右手が滑り降り、手のひらに触れて。
指先に指先を絡めて。
人差し指と中指を、硝子に触れるみたいにそっと握った。
神矢先輩は上目使いに私を見上げたまま、喋りはじめる。
「玉城はただ俺が保健室行くのに付き添ってくれた、というか、無理やり俺を保健室に連れてきたというか、内緒って話してたのは……」
そこで言葉を切った神矢先輩ははぁーっと細く長いため息をついて、上半身をおこして、まっすぐにこっちを見た。
「本当はこんなこと、かっこ悪くて小森さんには知られたくなかったけど……」
緊張感に満ちた雰囲気に、こくんと息を飲む。
「俺、あまり眠れないんだ……、不眠症ってやつ?」
「不眠症……」
なんだか実感の湧かない言葉をぽつりとつぶやく。
だって、不眠症ってことは夜眠れないってことで。でも部活中の神矢先輩は、眠そうな雰囲気とか全然させてないし。
そう考えて、さっき、二年四組の教室に行ったときに神矢先輩が椅子に片膝を立てて寝ていたこと、今も私が着替える間に寝ていたことを思い出して、はっとする。
不安げに神矢先輩を見つめると、神矢先輩は安心させるようにやわらかく微笑えんだ。
「もともとあんまり睡眠とらなくても平気な体質みたいで、普段は夜眠れなくても平気なんだけど、たまに、電池切れになる時があって。
一年の夏合宿の時に倒れて、たまたま玉城が側にいて、玉城だけは俺が不眠症だって知ってるんだ。それで時々、玉城は俺を強制的に保健室に押し込めるんだよ。保健室に来たって、眠れるわけじゃないのにね」
そう言って苦笑した神矢先輩の表情はあまりに切なくて。
どうしようもないんだって諦めたような顔に、胸が締めつけられる。
「こんなかっこ悪いこと、小森さんには知られたくなかったけど――、変な誤解されてるよりはいいかな?」
ゆっくりと首を傾けながら言った神矢先輩の表情は、いつもの柔和な笑顔で。
どこか冗談めかした言い方に、これ以上はこの話をしたくないって線引きされたみたいに感じて、俯いたら。
「もしかして、この間、邪魔とかなんとか言ってたのは、俺と玉城が付き合ってると思ったから?」
呆れたように言われて、むっとして顔を上げる。
「だって、しょうがないじゃないですかっ、こんな人気のない保健室で二人きりで会ってて、『内緒』とか意味深な会話を聞いちゃったら、誰だって付き合ってるって思いますよっ」
「うちの部は、部内恋愛禁止って部則があるのに?」
「だからこそ余計に誤解したんですっ」
強い口調で言って、ふてくされてぷいっと横を向いたら。
私の指を掴んでいた神矢先輩の手に力が込められて、引き寄せるようにして大きな手で私の手を包んだ。
「だからあの時、怒ってたの?」
「っ」
「だから、泣いてたの?」
「……っ」
私をまっすぐ見つめる神矢先輩の瞳は、なにもかもを見透かしてしまいそうな鮮やかさに彩られてて、息を飲む。
まるで私の気持ちに気づいてしまったような口ぶりに、溢れ出してしまいそうな気持ちをぐっと押し込めて、私もまっすぐに神矢先輩の瞳を見つめ返す。
そっけない口調で答える。
「怒っても、泣いてもいないって言ったじゃないですか。そりゃあ、玉城先輩と付き合ってるのかもって思った時は驚きましたけど」
「ふーん……」
神矢先輩は張り付けていた笑顔をすっと消して、感情の読めない静かな声で言って首を傾げる。
「俺は、なんで小森さんが泣いたんだろうって一晩中考えてて眠れなかったのに、酷いなぁ。眠れなかったのは小森さんのせいなんだから、責任とってよ」
「……っ」
ふっと甘やかな笑みを目元に浮かべて言われて、息を飲む。
こっちを見つめる瞳には力があって、少し強引で、眩暈がするほど素敵だった。
かぁーっと顔が赤くなるのが自分でも分かって、慌てて神矢先輩から視線をそらして、ぶっきらぼうに呟く。
「責任ってっ、そんなの、知りませんよ……」
そう言いながら、ちらっと神矢先輩の方を見ると、ふわぁ~っと小さく欠伸をかみ殺して。
「ね?」
って首を傾げる。
勝手に私のせいにしないでくださいよ……
そう思うのに、その瞳に逆らえなくて。
「お願い、ちょっとだけ寝かせて。三十分経ったら起してくれればいいから」
欠伸をかみ殺しながら言った神矢先輩は、私の返事を待たずにテーブルに顔を伏せて寝る体制になってしまい、私は慌てる。
「先輩っ、せめて寝るならベッドでちゃんと横になって寝てくださいっ」
咄嗟に言った私を、ちらっと視線だけ動かして見上げた神矢先輩は、すこし考え込むように黙り、それから億劫そうに立ち上がって、空いているベッドに向かった。
ずっと手を繋がれたままの私は黙って先輩の後に続く。
神矢先輩はベッドに近づきながら器用にカーテンを閉め、足元の方のカーテンは少し開けたままにしてベッドの側で振り返り、ベッドの横に置かれた丸椅子を視線でさす。
「ここにいて」
えっと……
なんて答えたらいいのか逡巡しているうちに、神矢先輩はさっさと掛布をめくりベッドに潜り込んで瞳を閉じてしまった。
数秒もしないうちに静かな寝息が聞こえてきて、不眠症って言葉を疑いたくなったけど。
よく見ると、眠る神矢先輩の目元にはうっすらと隈が出来てて、すぐに寝てしまうほど寝不足なんだと思い知らされる。
私は立ったまま、未だに繋がれたままの手を見おろし。
観念したようにそっとため息をついて、丸椅子に腰を下ろした。
後輩としてなら、側にいてもいいですか――……
更新遅くなりすみません<m(__)m>
とりあえず、3章はこれで終わりです。




