第29話 繋がれた手
神矢先輩に腕を引かれたまま二年四組の教室を出て、咄嗟に振り向くと、教室から顔を出した紗和が手を振ってすぐに教室に戻ってしまった。
前に視線を戻すと、神矢先輩は私の腕を掴んだまま黙々と廊下を歩いてて。
捕まれた場所が熱をもって、じんっと痺れる。
きゅっと眉根を寄せて、なんでこんな状況になっているのか頭の中で整理する。
えっと……、先輩のクラスに行ったら「ずっとその格好でいたのか?」って聞かれて、「帰る前には着替えるつもりです」って答えたら、「小森を部室まで連れていって」って、山崎先輩が隣で椅子に片足を乗せてそこに顔を伏せて寝ていた神矢先輩を揺り起こして――
寝てて全然会話に参加していなかったはずの神矢先輩が私の腕を掴んで歩いてて、いまにいたる、と。
「あのっ……」
なんとか状況把握が出来て、私は慌てて神矢先輩に声をかける。
だけど。
振り返った神矢先輩は、ちらっと私を見てすぐに前を見てしまった。
「なに……?」
前を向いたまま尋ねられて、ふわふわとしててところどころ跳ねている神矢先輩の後頭部を見上げて言った。
「部室に向かってるんですよね?」
「そう」
「あの、部室まで戻るのは遠いですよ? 先輩、クラス当番の最中だし……」
「クラスの方は別に俺がいなくても山崎が居れば大丈夫だろ」
「でも、着替え、鞄にあるので、トイレでささっと着替えますよっ?」
神矢先輩はクラス当番の最中に抜け出してきているわけだし、教室棟から部室棟まではちょっと遠い。部活に行く時ならそんなに苦はないけど、着替えのためだけに行って帰ってくるにはちょっと距離がありすぎる。
なんとか引きとめようと、抵抗の意味で掴まれていた腕を引きよせて真剣に説得しようとしてたら、ずっと前を向いたままだった神矢先輩が振り返って立ち止まった。
直後、ふっと噴き出した。
「ははっ、小森さん、いま袴姿だって忘れてる? さすがにトイレじゃ袴は着替えられないだろ?」
「あっ……」
言われるまで気づかなくて、口元に手を当てる。
袴を着替える時は、床に裾がついてしまう。トイレで着替えるとなると、床に裾がつかないようにしなければならなくて……それはかなりの至難の技だろう。というか、無理だ。
考えなしの自分の発言に落ち込んでいたら、その様子を見て神矢先輩はさも可笑しいというようにくすくす笑っている。
自分のことを笑われているのはちょっとしゃくだったけど、目を細めて破顔している神矢先輩の表情に思わず、きゅっと胸が締め付けられた。
こんな顔で笑われたら、心臓に悪いよ……
心の中で一人愚痴って、話を仕切りなおすように、ちょっと拗ねて言う。
「でも、部室までは遠いです」
「まあ、そうだけど」
そう言った神矢先輩は私の姿を見下ろして、すっと瞳を細めて、私の後ろの方を見つめた。その瞳はどこか鋭利な光を宿していて、どきっとする。
こっちを見下ろした時には、いつもの柔和な笑みになってて、いまのは見間違えかなって首を傾げる。
襟足を触りながらなにか考えるようにしていた神矢先輩は。
「あ~、じゃあ、保健室で着替えれば?」
「保健室ですか……?」
思いもよらない提案に首を傾げながら問い返した私の腕を引いて、神矢先輩はさっさと歩きだしてしまう。
「カーテンで仕切れるから、着替えるにはちょうどいいでしょ」
「でも、着替えのためだけに保健室利用して大丈夫ですか?」
「失礼しまーす」
慣れた手つきで保健室のドアを開けて中に入る神矢先輩に続いて保健室に入った私は、尋ねながら神矢先輩を見上げる。
「大丈夫、保健医のみち先生ってほとんど保健室にいないから」
保健医が保健室にほとんどいないって、それってどうなんだろう……
苦笑して言った神矢先輩の言葉に、心の中で突っ込んでしまう。
「大丈夫なんですか……?」
半信半疑で尋ねると、神矢先輩は「ほらね」って肩をすくめてみせる。
「やっぱ、みち先生いないよ。休んでいる人もいないみたいだし、そこのベッドのとこで着替えちゃいな」
「はい」
保健室の中央に置かれた白い大きなテーブルの前に置かれていた丸椅子に腰かけながら、受付表を見て言う神矢先輩に頷き返し、近くのベッドに行って仕切りのカーテンを引っ張る。
白い清潔なシーツの敷かれた簡易ベッドと、白いカーテンに囲まれたほんのちょっと空間の中で、私はぽつんとつぶやいた。
神矢先輩は、よく保健室に来るんですか……?
それは、玉城先輩と人目を忍んで会うためですか……?
風にふかれて消えてしまいそうな小さな声で言って、ぎゅっと胸が痛んだ。
とても声に出しては言えない疑問。だけど、気になってしかたないもやもやが胸に渦巻いて、それを振り切るように、ひゅっと背中にある帯の結び目を引きほどいた。
着替えのためだけに保健室を移用するのはちょっと罪悪感があったけど、袴を畳むのにベッドの上を借りてしまった。
先輩を待たせているということで、最速じゃないかってくらい手早く着替えて、畳んだ袴を風呂敷に包んで鞄の中に突っ込んで、カーテンを開けると、待っている間に寝てしまったのか、中央のテーブルに乗せた片腕の上に突っ伏すような恰好で、神矢先輩が静かな寝息を立てて寝ていた。
私は先輩を起こさないように、足音を立てずにそっと神矢先輩に近づいた。
こっちを向いている神矢先輩の寝顔はなんだかあどけなくて、でも、とても整っていて、睫毛長いなぁーとかまじまじと見てしまった。それから。額にかかった毛先があっちこっちにはねてて、ふわふわしていそうなその感触を確かめてみたくて。触ってみたくて。
恐る恐る、神矢先輩の額にかかった髪に手を伸ばして、ぴょんっと跳ねた毛先を梳くように触れた瞬間。
それまで閉じられていた瞳がぱちっと開いて、息も触れそうな至近距離で視線がぶつかって。
「っ!!」
咄嗟に引っ込めようとした手はテーブルに乗せられていない右手で掴まれて、その場に縫い止められたように動けない。
「……っ」
「…………」
静寂の中、熱を帯びたような甘やかな瞳で見つめられて、恥ずかしくって、頬に熱が集まってくるのが自分でも分かった。
それを誤魔化すように、私は口を開く。
「あの、神矢先輩って――」
よく保健室に来るんですか――?
そう尋ねようと思ったのに。
「玉城先輩と付き合ってるんですか……?」
震える唇から出ていたのはぜんぜん違う言葉だった。




