第2話 優しく撫でるから
「部内恋愛禁止って本当なんですかっ!!??」
すごい勢いで玉城先輩に食いかかった紗和に苦笑してしまう。
神矢先輩の爆弾発言の後、道場内に移動して“立ち”を見て、部活終了後、見学の間に荷物を部室に置かせてもらっていた私達は、玉城先輩と一緒に女子部室に戻ってきていた。
部室に着くなり、開口一番に尋ねた紗和に玉城先輩も苦笑している。
袴の紐をほどきながら、なんとも言えない苦笑を浮かべる。
「本当よ。私も聞いた話だからどこまで真実かはわからないけど。数年前、部内恋愛禁止なんて部則がなかった頃、弓道部は男女比が同じくらいでね、バスケ部とかとは違って弓道部は男女一緒に練習するから男女仲がすごくよくて。でも、男子と女子が集まれば、やっぱり起こるのが恋愛ごとで。当時の主将と副主将が二人同時に女子主将を好きになっちゃって、女子主将を奪い合って揉めたとか勝負したとか、まあ、いろいろ。で、結局、三人ともやめちゃって、いっきにトップポストがあいちゃって部内は実力者と統率者を失ってまとまりがなくなるしその後の大会では負け続き。前年は男子は総体決勝まで行ったのに予選敗退――。その後、部内でまた揉め事が起こらないために“部内恋愛禁止”って部則ができたらしいの」
それだけで昼ドラでもとれそうなドロドロした内容に、玉城先輩は苦笑するしかないのだろう。
「でも、それは建前で、内緒で付き合ったりとか……」
玉城先輩の話を聞いても、僅かの希望を求めて言った女子の言葉に、玉城先輩は申し訳なさそうに首を横に振る。
「部内恋愛した場合はどちらかが責任を問って退部してもらうことになってるけど、内緒にしていた場合は二人ともやめなければならない決まりなのよ。だから、内緒っていうのも相当覚悟がいると思うの。今の部員は特に、経験者が多くて男子はわりと力があって総体決勝も夢じゃないから、みんな弓道馬鹿でね。恋愛しようとか思ってないと思う。山崎君も経験者だし、そうだと思うよ」
「そんなぁ……」
山崎先輩狙いの女子はあからさまに落胆して肩を落とし、さっさと部室に置いていた鞄を持って帰っていってしまった。
それを横目で見送り、私は玉城先輩に尋ねる。
「もしかして、そのせいで女子は人数が少ないんですか……?」
今日来ていた女子は、三年生が一人、二年生が一人だった。二年の女子はもう一人いるみたいだけど、それで全員なのかもう少しいるのか分からないけど、明らかに男子に対して人数が少ないように感じていた。
「実は、そうなのよ。三年も二年もいま二人ずつで、試合するのにギリギリの人数。もし一年生が誰も入らなくて三年生が引退しちゃったら試合には出られなくなっちゃうのよね……」
はぁーっと切実そうなため息をつく玉城先輩。
「でもまあ、そういう部則があることは事実で、それを伏せたまま入部させるわけにもいかないし、みんながはいってくれたら嬉しいけど……」
きっと、玉城先輩は葛藤しているのだろう。
そうだよね、試合に出られるか出られないかは大きい。
女子がこんなに集まったのに、爆弾発言をかました神矢先輩をちょっと憎たらしく思ってしまうのは仕方ないことで、でも神矢先輩の発言も仕方がないんだと納得しないといけないんだって自分に言い聞かせている玉城先輩が可哀そう。
でも……
私は力になってあげられないんだから仕方がない。
それに、神矢先輩だって言わなければならないことだったんだよ。
玉城先輩が袴から着替え終わる頃には、部室内には私と紗和と玉城先輩だけになってしまった。
すっかり話しこんでしまって、私達もそろそろ帰らなきゃと思って、あれ? っと首を傾げる。
そういえば、鞄は部室に置かせてもらったけど、ズボンのポケットの中に生徒手帳を入れっぱなしにしてて邪魔になるからって道場の隅に置かせてもらって、そのまま忘れてきてしまったことに気づく。
「あのっ、道場に忘れ物をしてしまったみたいで……」
「この時間なら、まだ男子が自主練しているから、道場はまだ空いていると思うけど。一緒に行こうか?」
「いえいえ、大丈夫です。一人で取ってきます」
「深凪、私も行こうか?」
「大丈夫~、自販機のとこで待ってて」
「了解~」
玉城先輩と紗和に手を振り、リュックを背負って私は弓道場に向かった。
※
弓道場に着くと、扉越しに、風を切る矢の音と的を射抜く音が聞こえてきた。
それだけで、体の中にぴんっと一筋の糸が通って、背筋が引き締まる気がする。
やっぱり、この空気、好きだな――
そんなことを思って、なぜだか泣きそうになって、私は手の甲で目元を押さえる。
矢の音がやんだのを確認して、扉を開けてそっと弓道場の中を覗く。
確か、扉の近くの方に置いていたはず。
さっさと忘れ物を取って帰ろうと思ったのだけど、生徒手帳を探して視線を向けた先にいたのは――
神矢先輩だった。
ちょうど私の生徒手帳を拾った神矢先輩は、ぱらぱらと中をめくっていた。
「あっ……」
思わず声が出てしまい、神矢先輩が顔を上げて視線がぶつかった。
「小森 深凪……」
生徒手帳の表紙を見て、神矢先輩がぽつっともらす。
玉城先輩は男子が自主練しているって言ったけど、道場内にはもう神矢先輩しかいなくて。
私と神矢先輩の二人きりだということに、なんだか嫌な予感がしてくる。
「あの、それ、私の……」
生徒手帳ですから返してください。
そう言おうとして、生徒手帳に手を伸ばしたのだけど。
指が触れる直前に、すっと生徒手帳が遠ざかる。
神矢先輩が生徒手帳を私の手の届かない方へと移動させて、ひらひらとかざす。
「忘れ物?」
春のお日様みたいなふわふわの、だけどどこか意地悪な笑みを浮かべて神矢先輩が尋ねる。
「そう、です……、返してください……」
たったそれだけを言うのに、声が震えてしまって、緊張して心臓が飛び出しそうだった。
「どうしよっかなぁ~」
いたずらっ子のように微笑んで言う神矢先輩を私は思わず睨んでしまう。
「小森さんも――、山崎目当てで見学に来たの?」
も、という言葉に、今日見学に来ていた女子全員が含まれるのだろうけど、たぶん神矢先輩が言いたいのは紗和のことだろう。
「紗和は、姫井さんはそうですけど、私はただの彼女のつきそいです」
「ふ~ん、小森さんは姫井さんと同じクラスだったね」
神矢先輩は思い出したように言う。たぶん、見学者ノートに書いたクラスを覚えていたのだろう。
「で、姫井さんは入部するのかな?」
「それって、どういうつもりで聞いています?」
神矢先輩の真意がわからなくて、私は慎重に聞き返す。
一見、人を癒すような柔らかな笑みを浮かべているのに、その瞳は人を懐柔させるような強引さが光っている。
「女子は今年最低でも一人は入らないと、秋の試合には出られなくなるんだよねぇ~」
それはさっき玉城先輩から聞いて知っているけど、私はそれを表情に出さないようにじっと神矢先輩を見返して、だから? という視線を向ける。
「小森さん、入ってくれるよね?」
「なんで私がっ……」
こくんっと首を傾げて言う神矢先輩に反射的に反論してしまって、私は慌てて口を閉じる。
「だって、小森さん、経験者だから」
「えっ……」
「手に豆があった」
「豆って……」
「まあ、手のひらにある豆だけでは断定できないけど、小森さんの左手の親指の付け根、すごく固くなってたんだよね~。普通、ここが固くなるってあり得ないでしょ? 弓道でもやってなきゃ?」
言いながら、神矢先輩は左手の親指の腹側を右手でさする。
左手は弓手と言って弓を握る手で、弓を引く時に親指の腹がちょうど弓に当たってそこに豆が出来て潰れて、またそれを繰り返して、次第に皮が厚くなってくる。
弓道経験者なら大抵の人の手はそうなっている。
まあ、押し手がけをしている場合は豆はできないだろうけど。
でも、だからって認めるわけにはいかない。
私は神矢先輩の話をぶった切って、無表情で言う。
「弓道部には入りませんから。生徒手帳、返してください」
そんな私に、神矢先輩はおもちゃを見つけたみたいな意地悪な笑みを浮かべて言った。
「いいよ、入部届にサインしてくれたらね」
「なっ……」
脅すつもり……!?
うちの高校は制服もなく、生徒の自主性に任せた自由な校風がウリなんだけど、そのために生徒手帳はとても重要視されている。
制服がないからなにかあった時の身分証明には生徒手帳を使うし、試験の時は生徒手帳を机の上に掲示して行うらしい。
いますぐ必要なわけじゃないけれど、ないと困るわけで。
でもまさか、生徒手帳を人質ならぬ物質にとられて脅されるなんて思いもしないじゃない!?
私は唖然とした顔で神矢先輩を見上げる。
もう二度と弓道をやらないと決めているのに――
でも、生徒手帳は返してもらわないと困るし。
たぶん、私はもう弓を引けないと思う……
そう思って、ずんっと暗い気持ちが胸に広がって、視線を床に落とす。
いくら経験者だって弓が引けない私が入部したって、なんの役にも立たない。
正直にそのことを話せば、神矢先輩だって私のことを諦めてくれるだろう……
「あのっ……」
思い切って顔を上げて、弓道ができなくなったことを言おうとしたら。
ふいに、ぎゅっと握っていた左手を神矢先輩に取られて。
何度も豆が出来て潰れて、皮の厚くなった親指の腹にそっと触れた。
「きっと、すごい練習頑張ってたんだな。えらいな、小森さん」
そう言って、ぽんぽんって頭を優しく撫でるから。
ずっと苦しくて、胸に抱えていたものが溢れて、気がついたら、ぽろっと涙が溢れていた。
「っ……」
こんなとこで泣くなんて恥ずかしくて、でも言い訳もできなくて俯くしかなくて。
でも、神矢先輩はなんにも言わないでただ優しく頭を撫で続けてくれた。