好きな人は、今、世界に狙われています
「いらっしゃいませ! ようこそ、来々軒へ!」
あたしはラーメン屋でバイトしている。
園木柚奈、18歳、東京の調理師学校で勉強中!
そして好きな人が出来ました。
彼の名前は森崎佑樹さん。結構長い間同じバイトしているのに、年齢は分からない、経歴は分からない。謎の多い人物だった。ただひとつ、言えること、それは彼の作るラーメンがすっごく美味しい、ということ。
今だ接客しかさせて貰えないあたしに比べて、彼はもう調理の手伝いをさせてもらっている。
バイト始めた時期、あたしと本当にほぼ同時くらいだったのに。
羨ましいなあ。
でも、彼のラーメンは本当に美味しくてあたしも大好きだし、何より彼のラーメンを作るときの、生き生きとした表情を見ているうちに、あたしは次第に彼に惹かれ、好きになっていったのだ。
「森崎さん! しょうゆとんこつラーメンひとつです!」
「あいよ! 直ぐ作るから、ゆーちゃん!」
「はい!」
森崎さんはあたしのことをゆーちゃんと呼ぶ、森崎さんにそう呼ばれると、何だかくすぐったい気がする。でも、それが親しさの証拠みたいで、少し嬉しい。
その日のアルバイトも忙しかった。でも、一生懸命働いているうちに、あっという間に時間は過ぎ去った。
あたしがスタッフルームに戻ると、森崎さんは既に着替えて、帰るところだった。
「森崎さん……」
「あ、ゆーちゃんも、今、帰るとこ?」
「はい! 森崎さんもですよね!」
あたしは慌てて更衣室に入って、制服を着替える、今なら少しでも森崎さんとお話できるかもしれないからだ。上手く行けば送って貰える。あたし、森崎さんと帰れたら凄く嬉しい! 思わずフラダンスを踊ってしまうほど舞い上がってしまうだろう。そうなったら困るけど、一緒に帰りたいのは本心だったから、あたし、頑張る!
更衣室を慌てて出ると、森崎さんは帰らないでまだ残っててくれた。
あたしが着替え終わるの、待っててくれたのかな? まさかね……。でも、嬉しいな、これで偶然とは言え、一緒に帰る可能性も増えたことだし。
「も、も、森崎さん!!」
思わず声を掛けてから、一緒に帰りましょうとは照れて言えなくて、どもってしまう。
だって、幾らあたしにとって森崎さんが大事な人でも、森崎さんにとってはあたしはただの同僚、それだけだもんね。
呼びかけてから黙ってしまったあたしを、森崎さんは何だか不思議そうな顔で見てくる。いけない、いけない、早く何か、何でもいいから言わないと。
「どーしたの、ゆーちゃん?」
「えっと、その……あたし、頑張ってるのに、なかなか森崎さんみたいに上手く出来なくて、ちょっと悔しいです……」
いけない! なんでもいいと思ってたら、思わずつい愚痴めいたこと、言ってしまった。こんなの、いつも元気で明るくポジティブな考えの、あたしらしくない! どうしよう……。
どうフォローするか、あたしはオロオロしてしまう。でも、森崎さんは優しかった。
「ゆーちゃんって、何でラーメン屋でバイトしてるの? 女の子でラーメン屋って、珍しいよね?」
「実家が中華料理店経営してて、あたし、その後を継ぎたいんです!」
「親孝行で偉いね」
森崎さんはあたしの頭を撫で撫でしてくれる。
もー、子供扱いして! 森崎さんだって、外見からして、あたしと同い年くらいじゃない!
あたしはでも、森崎さんの手を払わなかった。好きな人に触られてるのは、嫌なことじゃないしね。何とも思ってない人に触られたりしたら、嫌だから直ぐ逃げるけどね、好きな人なら、例えそれが子ども扱いであっても、触られてて嫌じゃない。
「でも、バイト希望した中華料理屋さんで調理スタッフ募集してるところなくて。ここのラーメン屋さんだけだったんです、女の子でもいい、と言ってくれたのは」
「あー、調理場はラーメン屋に限らず、基本女の子に優しく作られてないからなあ……」
そうなのだ! 調理器具を取るにしても、男の子の身長に作られてるので、あたしの背じゃ高いところに手が届かない。
割と調理に関しては、一部の例外を除き、男尊女卑とまではいかないまでも、女の子の調理師さんは敬遠されがちなのだ。
「それで嬉しくて、ここのラーメン屋さんで働くことにしたのですけど、なかなか調理任されなくて、あたしの仕事まだ接客くらいですし……。森崎さんはもう、その手でラーメンとか作ってて、お客さんに大評判ですのに……」
「俺のラーメンは熱い魂だからな」
森崎さんは嬉しそうに鼻を掻く。森崎さんはちょっと……ううん、かなりラーメンに対して変な哲学を持っている。
それが無ければもっと好きになるのになあ。あ、でも、変な哲学ある森崎さんも嫌いじゃない。
あ、でも、わざわざ自分のラーメンに熱い魂が入ってることを強調するのは、それって、もしかして……?
「それはあたしのラーメンには魂がこもってない、と?」
「ゆーちゃん、前に賄いでラーメン作ってくれたけど、あれは美味しかった……」
「それはお世辞でも嬉しいですけど……」
「お世辞じゃないさ。ゆーちゃんのラーメンは美味しい。自信持っていいぜ! ただ、俺があまりに天才的過ぎるだけで」
「それ、慰めてないですよー!」
「慰めてないからな。でも、ゆーちゃんはゆーちゃんらしいラーメンを作ればいいと思うぜ。そうすれば無理しなくても自然にいつか、夢が叶うさ」
森崎さんはにっこり、と笑った。
も、もう! 森崎さんは別に特別いい話なんてしてないのに、むしろ自慢話織り交ぜてるくらいなのに、好きな相手に言われると何かそれだけで説得力を感じてしまう。
「ずるいです、森崎さんは!」
「ずるくないよ、才能だろ?」
「そうじゃなくて……もう!」
あたしは頬を膨らませて横を向いた。森崎さんはあたしの頬を喜んで突いてくる。森崎さん曰く、あたしの頬はぷにぷにしてて、突いて気持ちいいのだそうだ。その態度にますますあたしは頬を膨らませてしまう。その行動が森崎さんをますます喜ばせる、と分かってるのにね。でも、自分の感情は偶に自分では制御できなくなるのだ。こうやって拗ねたりしてみせるから、森崎さんにまだまだ子供扱いされるんだろうけどね。
やがて飽きたのか、森崎さんはあたしから離れた。森崎さんは踵を返すとスタッフルームの出口に向かって歩き出す。扉の前に来たところで、立ち止まって、首だけ動かして、振り返ってあたしの方を促すように見た。
「さあ、帰ろうぜ、ゆーちゃん?」
「あ、はい!」
「途中まで送っていくぜ、もう帰りも遅いし」
えっ!? わーい、やった! 今日はこれで一緒に帰れる。何か思惑と全然違っちゃったけど、これって結果オーライだよね。現金なことに、あたしの機嫌はすっかり直ってしまった。そしてあたしは慌てて、森崎さんの隣に並んで立って、森崎さんを見上げた。
そのとき、あたしはふと思いついたことがあって、森崎さんに尋ねてみた。思いついたと言っても、前々から疑問だったことだけどね。
「森崎さん? 森崎さんの夢って、何ですか?」
「俺の夢か……? 俺の夢はそうだなあ……」
「はい?」
「な・い・しょ」
森崎さんはパチンと茶目っ気たっぷりにウィンクする。一瞬その仕草に見とれてから、あたしは我に返った。
な、内緒って、ずるーい! あたしは話したのに!
必死にあたしが追求するのを森崎さんははぐらかしながら、あたし達は二人で家へと帰っていった。
その時のあたしは知らなかった。二人で一緒に夜道を帰るところをある人物に見られたことが、あの騒動の発端であったことを。
「あなたが、森崎佑樹に近づいてる女?」
突然、その女の子はやってきた。今日は森崎さんはお店休む日だし、今の時間は特にお客さまもいなかった。奥にラーメンの仕込をしている店長がいるくらいで、つまり店内はあたしとその女の子との二人であった。
「あの、あなたは、一体?」
お客さま、じゃないよね? いきなり森崎さんについて聞いてきたくらいだし。
何者なんだろう?
あたしが質問の返事を待って女の子をじーっと見てると、女の子は優雅に髪を書き上げて自己紹介した。
「あたしは大悪魔サタン」
ま、大悪魔が苗字で、サタンが名前……? 変わった名前だ。
その女の子は身に付けていたマントをはらりと翻す。マントの下には中学か高校の制服を着ていた。多分、余程の童顔でない限り、この子は中学生くらいだろう。とりあえずその奇天烈な服装はスルーしておこう。演劇部員か何かなのかもしれないし、今大事なのは、そこじゃないよね?
一応、お客さまの可能性もあるので、あたしは念のため尋ねておく。あくまで、念のため。
「それで大悪魔さん、ご注文は何にします?」
「さまを付けて呼びなさい。さまを付けて」
「大悪魔さま、ご注文は何にします?」
言い直したあたしの顔に、その子は顔を近づけて、あたしの顎に指を掛けると、あたしの顔を下から覗き込んだ。
下から覗き込むなら、あたしの顎に指当てなくてもいいじゃない、という突っ込みは、とりあえずしないでおく。
一々何と言うか、芝居かかった仕草をする、変わった女の子だなあ。
「ふうん、容姿は平凡ね」
「は、はい、良く言われてます……」
「女、森崎佑樹から、手を引きなさい」
「は、は、はい?」
この子、森崎さんの何なんだろう? 彼女? それとも妹オチ?
「あなたは一体誰ですか?」
「だから、大悪魔サタンよ」
「そうじゃなくて、森崎さんとどういう関係ですか?」
「彼はあたしの獲物。彼をどうにかしない限り、この世界を手に入れることは、あたしには出来ないわ」
女の子はカウンターにお尻をどんと乗せて座る。腕を組み、足を組む。もう少し年齢が高い女の子なら、色っぽい仕草に見えるかもしれない。でも、この子がやると、何か背伸びしている子供みたいで可愛らしい。
注意しようかなあ、と言う想いが頭に過ぎったものの、直ぐに女の子の言った言葉の内容に気を取られて、注意するタイミング逃してしまった。
世界? 何の話だろう?
正直、女の子の話は、平凡な専門学生のあたしにとって、ちんぷんかんぷんであった。
飲み込みの悪いあたしの態度にイラついたように、女の子は眉を潜めて、あたしをきつい目で睨む。
「だから、女、あなたが邪魔なのよ」
「手に入れるって、その……森崎さんがあなたも好きなんですか!?」
「ど、ど、ど、どうしてそうなるのよ!! あいつはあたしの邪魔者、ただそれだけよ!」
女の子はかなり動揺したように赤くなって、顔の前で両手をぶんぶん振る。
こ、これは、この女の子も森崎さんのこと、好きなんだと直感した。
この子、あたしのライバルだ。
ライバルなら、負けられない。あたしだって、森崎さんのこと、凄く好きなんだもん!
あたしは負けじと女の子を睨み返した。
「何であなたにそんなこと言われなくちゃいけないんです! あたしは森崎さんが好きです! ですから、あなたも森崎さんが好きなら、正々堂々と戦ってください!」
「好きじゃないと言ってるでしょ!! でも、戦う? いいわよ、望むところよ」
女の子は舌を出して、ペロリと自分の唇を舐めた。とんとカウンターから降りて、店の床に立つ。
「戦いの決着は後日付けましょう。必ずあなたを葬ってみせるわ」
「あたし、葬られたりしません!」
あたしたちはしばらく、睨み合いを続ける。
あたしは女の子を睨みながら、嫌味を込めて、女の子に言った。
「それでご注文は何になさいますか?」
「いらないわ。ラーメンなんて忌々しいもの、食べたくないわ、汚らわしい」
女の子は少し目線を逸らす。何だか怯んだみたいに、数歩、後ろに後ずさる。
この反応は予想外だった。この子、ラーメン、嫌いなのかなあ? あたしは眼光を和らげて、まじまじと女の子を見つめた。
女の子はその視線に居心地が悪くなったのか、それとも動揺してるのを悟らせまいとしてたのか、マントを翻しあたしに背中を見せると、そのままお店から出ていってしまった。
あたしはしばらく、呆然と女の子のいなくなったお店の出口の扉を見つめていた。
本当に、何だったんだろう、あの子……? でも……ぜーったい、絶対、森崎さんは、渡さないもーん!
ようやく我に返り、あたしは店長にもお客さまにも見られないように、女の子の消えた出口の扉にあっかんべーをした。
バイトからの帰り道、夜道を歩いていると、あたしの直ぐ横の車道に、一台の車が止まった。
凄い高級そうな車だった。
車の扉が開いて、サングラスに黒服の男の人達が出てきて、あたしを取り囲む。
「園木柚奈さまですね?」
ずらりと並んだ男の人たちに、あたしは怯みながらも尋ね返す。
「そうですけど、あなた方は……?」
「主人が車の中でお待ちです、一緒に来て、いただけないでしょうか?」
「は、はぁ……」
何だろう、この人達、昼間の大悪魔さんの知り合いの人たちかな?
何だか口調に有無を言わせない感じがする。とりあえず逆らうと怖そうなので、あたしは内心びくびくしながら、車に乗り込んでみた。
中にいたのは、ドレスを着た美女だった。年はあたしと同い年くらいに見える。でも、平凡な庶民のあたしと違って、いかにもお嬢さまという感じの子だ。その子は車の中で、何故か優雅に紅茶を飲んでいた。
大悪魔さんではない。完全に初対面の女の子だった。
「あなたは……?」
「あたしは大天使ガブリエルよ」
大天使が苗字で、ガブリエルが名前だろうか?
変わった名前だなあ……。
何だか、大悪魔さんと言い、変な名前の女の子と出会う確立、最近高すぎる。最近と言っても、今日一日で二人だから、最近と言っていいのかはちょっと微妙だけどね。
でも、このパターンはこの子も森崎さんから手を引けと言い出すのかな?
「園木柚奈さん、それともわたくしもゆーちゃん、と呼ぶべきでしょうか?」
「いえ、園木さんで十分ですよ」
何で親しくない子に、愛称で呼ばれなければならないのだろうか?
ちょっとあたしはツンケンしてしまう。でも、そんなあたしの態度を気にした様子もなく、大天使さんはずばりと言ってきた。
「では、園木さん……大人しく森崎佑樹さんの前から、姿を消していただけませんか?」
ほぼ予想通りの言葉だった。やっぱり森崎さん絡みなんだ。森崎さん、一体、どれだけ変なタイプの女の子にモテれば済むのよ。
あたしは大天使さんの問いにあえて答えず、聞き返す。
「あなたは森崎さんとどういう関係なんですか?」
「彼はあたしにとって邪魔者です。と同時に、対悪魔戦闘用の大事な切り札です。彼について研究していくことは、この世界を救済に導くために、大切なことなんです」
はあ? 対悪魔戦闘? 世界を救済? 何だか話がちんぷんかんぷんだよー……。何、この人、宗教でも、やってるの?
ちょっと怖いな……。
怯んだあたしに畳み掛けるように大天使さんは言ってくる。
「彼の前からいなくなってくれるのでしたら、お金なら、幾らでも差し上げますわ。とりあえず1億くらいでどうですか?」
1億なんて、そんな大金、本当に払えるのだろうか? 本当に胡散臭いよぅ……。宗教かと思ったら詐欺師?
でも、ここで怯えてるだけじゃ駄目だよね。あたしは逆転の体制を整える。例え、1億円が本当に貰えるのだとしても……答えなんて決まってる!
「嫌です!」
あたしはきっぱり言い返した。
「あたしは森崎さんのことが大好きなんです! お金で大好きな人の前から消えたりしません!」
1億だろうが、1兆だろうが、あたしはお金より、愛を取る。
あたしだってこの恋に命を賭ける覚悟だって、とうのとっくにしているのだ。
車が止まる。あれ? ここ、あたしの家の前だ……。
何であたしの家の住所、知ってるのだろう、この人? わざわざ調べさせたのだろうか?
やっぱり大天使さん、かなり怖い。
「……一晩、考える時間、差し上げましょう」
大天使さんは飲み終えた紅茶のカップをソーサーに置いてあたしのことを澄んだ眼差しでみる。
見れば見るほど、この人も美人。
でも、容姿は例え平凡でも、愛する気持ちでは負けないわ! 恋する女の子を舐めないで! あたしはこんな脅しに屈したりしないんだから!
「家まで送ってくださって、有難うございます! でも、それでも、あたし、森崎さんのこと、ぜーったい諦めたりしませんから!」
言うだけきっぱり言って、あたしは車から出た。
女の子はあたしの強がりなど、かるーく聞き流している。
その態度がむかつく。あたしは荒々しい脚でおうちの前まで歩くと、そのまま扉を開けて中に入った。
翌日、あたしはいつも通り、バイトのため、お店に出勤する。偶々控え室に森崎さんがいたのをいいことに、昨日の出来事を勢い良く夢中で語ってしまった。
話し終えると、何だか森崎さんは顔を青くした。
あたしはずいっと森崎さんに迫って言う。結構あたしはムカムカしてたから、今日は森崎さんの顔を間近で見ても、顔を赤くしなかった。強い口調で森崎さんを問い詰める。
「何なんでしょうね、あの人たち!?」
「いやー、ほら、あれだよ……中二病ってやつ、じゃないかな?」
「中二病って……何ですか?」
それ、あたしの知らない言葉だ。
あたしは森崎さんから中二病という言葉について説明して貰った。
へえー、そんな言葉あったんだ、知らなかった! 森崎さんって、物知りでもあったんだ!
「凄いですね、森崎さん! あたし、その単語、初めて聞きました!」
なるほど、あれは中二病と言うものだったのか。そう言われれば納得がいく。大悪魔さんは実際、中学生くらいだったし。大天使さんは……きっと心は中学生のままなのだろう。
そう納得しているあたしを、いつのまにか森崎さんは真剣な顔して見ていた。
あたしはそれに気づいて、森崎さんに尋ねる。
「どうかしましたか、森崎さん?」
「ゆーちゃん。キミは自分の人生が、貴いと思う? 家族や友達を、大切にしてる?」
「はい、勿論、してますけど……」
何だろう、質問の意図が掴めない。
森崎さんはさらに聞いてくる。
「本当に?」
「ええ、本当です」
「そう。もしそれが本当なら、この件に関わろうとは絶対しないことだな、ゆーちゃん」
それってどういう意味だろう。
何かこんな表情の森崎さん、初めてみたかも。
さらにあたしは詳しく森崎さんにあの子との関係を聞こうとした。でも、休憩時間も終わってしまい、そのまま森崎さんはあたしからの質問から逃げるように仕事に行ってしまった。
あたしも着替えて、森崎さんの後を追って、お店で仕事を開始する。
仕事が終わったときはもうくたくただった。今日もお客さんが沢山来て、ほんと、疲れたー。
あたしの仕事が終わる頃には、森崎さんは帰ってしまったようだ。
あたし避けられてる?
しつこく聞いたのが悪かったのかなあ。あたしはちょっと落ち込みながらも、とぼとぼと一人で帰宅することにする。
その途中の夜道に、彼女はあたしのゆく手を阻むように立っていた。
そう、大悪魔サタンと名乗った女の子だ。
「さてと……約束通り、葬ってあげるわ、あなたを」
あたしはカーッと頭に血が上った。森崎さんに避けられたことがショックで、八つ当たりのはけ口を見つけたことで、怒りをついに爆発させたのだ。
「もう! いい加減にしてください! 付きまとわれて、迷惑です! 警察呼びますよ!」
「警察? はン! あなた、まだ自分の状況分かってないようね」
周りを見回すと、周囲は黒い霧に覆われていた。尋常ではない霧の量。こんなのまるで東京ではないみたいだ。しかも夜空には星が輝いている。これも東京ではあり得ない、東京の空はこう……絵の具で塗りつぶしたかのように真っ黒なはずだ。
こんなの普通じゃない!
上っていた血が、周囲の状況に気づいたことで冷める。今度は冷めすぎて、何だか、震えを感じるほど、怖かった。
大悪魔さんの存在が凄く怖かった。
この人、本当に人間なの? もしかしたら、人間じゃないんじゃないの?
「あなた、一体、何……?」
「だから、言ったでしょ、大悪魔サタンだと?」
あたしのこと、小馬鹿にするように女の子は微笑むと、ゆっくりとあたしに近づいてきた。
こ、怖い、本当に怖い、どうしよう! でも、足が竦んで動けない、助けて誰か! 助けて森崎さん!
あたしは頭の中をぐるぐるさせながらも、必死でこの状況から誰かが救ってくれることを願う。
その時……。
ドンという鈍い音と共に、目の前が爆散した。
「ふふふ、やはり出てきましたわね、大悪魔サタン」
「あら、あなたも来たの? 大天使ガブリエル?」
「今日こそ、あなたを葬ってあげるわ! いきなさい、防衛隊のみなさん!」
軍服に銃を持った男の人たちが大悪魔さんを取り囲む。せ、戦車までいる……。
何、これ!?
大天使さんがどうやら、この小さな軍隊のリーダーっぽかった。大天使さんが手を振り下ろすと、軍隊は一斉に銃撃を始めた。しかしそんな銃弾の飛び交う嵐の中、大悪魔さんは平然と立っていた。
「まだ分からないの? あたし達に、地上の兵器は無意味よ?」
「別に構いません。少しでもあなたを消耗させられるのでしたら。所詮彼らは使い捨ての駒!」
こ、これ映画とか何かだよね?
あたしはそのことにようやく気付いて、周囲を見回してカメラを探した。でも、カメラなんて、どこにもない……。
これって、現実!? 本当に何かあたしの目の前で、みんなで殺しあってるの!?
そんなの嫌だよ、死ぬなんて、他人でも怖いよ!
「やめてください! 何、戦ってるんですか! 何、喧嘩してるんですか! 仲良くしましょうよ!」
あたしは竦んだ足を動かせなかったので、必死の想いを乗せて、叫んだ。その声が届いたのか、大悪魔さんと大天使さんはあたしの方を見た。
でも、その目は、完全に今まであたしの存在忘れていて、ようやく思い出した、そんな感じの目だった。
これは藪を突いて蛇を出しちゃったのかなあ……。
大天使は冷酷な声で告げた。
「あなたの存在、忘れてました。防衛隊のみなさん、サタンと一緒に、彼女も始末しちゃってください」
大天使さんは周囲の軍隊に命じる。
うそっ、やめてよっ!? 銃で撃たれたら死んじゃう!? 他の人にも死んで欲しくないけど、あたし自身はもっと死にたくない! 死ぬのが凄くこわいよ!
助けて、森崎さん!
あたしは心の中で絶叫を上げた。
その心の声に応えるように、お店の配達のバイクに乗って、森崎さんがやってきた。その様子は、まさにあたしの目にはまるでヒーローが颯爽とヒロインを助けに来てくれたように見えた。
森崎さん! あたしはここよ!
しかし森崎さんはあたしの横を通り過ぎていった。
あ、あれ、ここ、ヒロインのあたしを勇者の森崎さんが心配して、駆け寄るシーンだよね? ち、違うの?
森崎さんはそのまま大天使と大悪魔の間にバイクを止めると、大きな声で叫んだ。
「戦争なんてくだらねぇぜ! 俺のラーメンを喰えー!」
森崎さんはバイクに取り付けられた箱から、どんぶりに入ったラーメンをひとつ取り出した。
周囲に美味しいラーメンの匂いが漂う。
って、な、何でこの状況でラーメン……? そんな場合じゃないでしょ、何やってるのよ、森崎さん! そんなことするくらいなら、早く一緒に逃げよ!
しかしそこであたしは気づいた。良く大悪魔さんの方を見ると、その顔が歪んでいた。そして次の瞬間、ぐー、と大悪魔サタンさんのお腹が盛大に鳴った。
大悪魔さんは顔を赤くしてお腹を抑えると、ラーメンから激しく顔を背けた。
「相変わらず、美味しそうなラーメンの香り……。もう絶えられない、駄目……。覚えてなさいよ、森崎佑樹!」
大悪魔サタンはそう言い残し、マントと制服のスカートを翻して、逃げ出していった。
周囲の霧が薄くなっていく。星の輝きもどんどん淡くなっていく。
「いけません。結界がとけますわ! わたくしたちも撤退ですの!」
大天使ガブリエルさんたちも、唖然としているあたしと、ラーメンを構えている森崎さんを残して、その場を去っていった。
何、これ……? あたしたち、助かったの?
あたしはその場に、へなへなぺたん、と座り込んでしまった。
あまりの驚愕の展開の連続に、腰が抜けてしまったのだ。
しばらくして、あたしは言った。
「何だったんですか、あれは……?」
周囲はすっかり、いつもの夜の東京の街に戻っている。
森崎さんはラーメンを差し出した。
「とりあえず、喰え」
「は、はい……」
あたしは何も考えられず、地面の上に座り込んだまま、無心でラーメンと箸を受け取った。もう、テーブルがなくて食べにくかったけど、とりあえずラーメンに口を付けて、一口食べてみた。
「あ……美味しい……」
そのラーメンの味に、あたしはようやく正気に戻った。って、あたし、何してるんだろ!? こんな状況でラーメン食べてるなんて!
でも、森崎さんのラーメンは本当に美味しくて、いつまでも食べ続けたい気持ちにさせる。そして懐かしい味もして、日常と言うものをあたしに思い出させてくれる。
うん、ここが日常。ここがあたしの住んでる世界。
あたしはようやく現実に返ってきたのだ。
あたしはラーメンをさらに啜る。そんなあたしをニコニコしながら、森崎さんは見ている。
「だろだろ? 美味しいだろ? 美味しいよな?」
そんなに森崎さんに一生懸命、あたしが食べるところ見られてると、あたし、恥ずかしいよー。特にラーメンだし……。女の子らしく綺麗に食べるの難しい料理だし……。
でも、あたしは赤くなりながらも、コクリと素直に頷いた。
「はい、お世辞じゃなくて、本当に美味しいです」
「だよなあ……。なのに、サタンの奴、俺のラーメンを見ると、毎回逃げ出していくんだよな。毎回、俺のラーメン、食べてくれないんだよ」
あたしは思い出した。
大悪魔さんは森崎さんを邪魔者と言っていた。好意は持ってたみたいだけど。大天使さんは森崎さんを対悪魔戦闘の切り札だと言っていた。邪魔者だとも言っていたけど。
「つまり、森崎さんは、毎回、大悪魔さんと大天使さんが戦おうとすると、どこからともなく現れ、ラーメンを食べさせようとするのですか? そして毎回大悪魔さんが逃げて、戦闘が終わる、と」
「そうだ。俺はただ、ラーメンを色んな人に食べて欲しいだけなのに。サタンはラーメンを見ると逃げ出すし、ガブリエルはラーメンに興味なさそうだし、ひどいよな」
大悪魔さん、ラーメン、むしろ食べたそうだったけどな。きっと何らかの原因でラーメン食べること、抵抗あるに違いない。でも、森崎さんのラーメンがあまりに美味しそうなので、誘惑に負けそうになって、毎回逃げてるのだろう。大天使さんそれを見て、大悪魔を倒すために、森崎さんを利用してる、というところだろうか。どっちにしても、森崎さんが戦闘に乱入してるからこそ、毎回戦いはなし崩し的に終了しているのだろう。あんな人外の戦闘を止めてるなんて、何だか森崎さんって、本当に凄い人だったんだ。
と言うことは、もしかして……。
「あたしに関わるな、と言ったのも、戦闘に巻き込まれて怪我をしないためですか?」
「それもあるけど、こんな話、信じて貰えるとは思えなくてさ。実際目にしないと、とても信じられないだろ?」
「確かにそうかも」
「それにあんな世界にゆーちゃんは関わらない方がいいよ。人間、知らない方が幸せ、ってことだって、あるんだから」
それはそうだけど、あたし、森崎さんのことなら、何でも知りたい! 森崎さんに近づきたい!
今日だって、怖い想いしたけど、良く良く考えてみれば、幸せだった。森崎さんに助けて貰えたし、森崎さんのこと、今日は沢山知ることか出来たし。
でも、まだまだ知りたいことはある。
「でも、森崎さんは何であの人たちと関わることになったんですか?」
「昔から俺、この世に存在しないモノを見る才能あってさ。あの戦闘も偶々見かけたんだ。以来、結界の気配を察知したら、いつもラーメン持って駆けつけるようにしているんだ」
「なるほど……」
あたしはその話を聞いて、森崎さんらしいなあ、と思った。
ほんと、森崎さんって、ラーメン馬鹿。ラーメンのことしか考えてない。
森崎さんはさらに照れくさそうに、自分の鼻の頭を指で掻きながら言う。
「俺はたださ、ラーメンを食べて欲しいだけなんだ。前に夢について、ゆーちゃん、尋ねてきただろう?」
「はい?」
「俺の夢はラーメンで世界を平和にすることなんだ。って、何、笑ってるんだよ、いいじゃんか、夢はでかい方が。ちくしょー、だから、言いたくなかったんだ」
あたしは笑わずにはいられなかった。だって、森崎さんの夢、もう叶っているんだもん、本人が気づいていないだけで。
森崎さんが美味しいラーメン持って乱入してるから、毎回、戦闘が何もなく終わってるんだよ。やっぱり森崎さんって、凄い人だ。
そしてあたしは心から思った。
あたしの好きな人は本当にラーメン馬鹿だけど、とても素敵な人です!