#7
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アイク・サクストンが自宅に戻ったのは翌日の早朝だった。
ジェイミーの部屋を出た時よりこざっぱりして、立ち直っているように見える。普段のクールなアイクに。
軽快に外階段を駆け上がり玄関の鍵を開ける。
今日は買い物の包みを持っていないので真っ直ぐに寝室へ向かった。
寝室のドアの取っ手を握ったままアイクは暫く動けなかった。
ベッドは空っぽで何処にも母親の姿は見えず、その代わりに──腕を組んだスーツ姿のレイミーがいた。
ベッドに腰掛けたまま上司レイミー・ボトムズはいつもの低い声で言った。
「お帰りなさい」
「サラを……ママを……どうした?」
とにかく最初にアイクの口から出た言葉はこれだった。
「病院に収容したわ。取り敢えず症状が安定したら、医師の薦める然るべき専門施設へ移送してもらえるはずよ」
「……彼女、何かやらかしたのか?」
アイクとしてはこう訊くのが精一杯だった。レイミーはサッと首を振って、
「私の個人的な判断よ。〝一歩も動けない〟という君の症状を知りたくて──上司である私にはそれを知る権利と責任があるでしょ?──ここへ出向いたのよ。そして、サラに会ったわけ」
組んでいた腕を解くと立ち上がった。
「何故、黙っていたの? または、何故、放って置いたの? もっと早い段階で、もっとマシな選択肢は山ほどあったはずよ」
快活な足取りでアイクの前までやってくる。スーツでもパンプスは履かず常にスニーカーというのがレイミーのスタイルだった。
「もっと言えばね、本当に私が言いたいのはこっちの台詞よ。『何故、相談してくれなかったの?』」
レイミーはアイクの瞳を真っ直ぐに見つめて繰り返した。
「私にでも、私の父にでも相談してくれていたら私たちはいつでも力になったわ。今までそうだったように」
今までそうだったように?
──そして? これからも?
「これ以上、恥を晒せってか?」
それがアイクの返答だった。
「どん底もどん底……ここが最下層の行き止まりだってか? サクストン一家の崩壊。よりによって……スタートラインは一緒だったのに、これだもんな? ボトムズ巡査とサクストン巡査」
「アイク……」
両足を揃えてアイクは敬礼をした。つい今しがたとは打って変わって、溌溂とした声で言う。
「辞表を書きます! もうこれで行き着く処まで行ったし。キッパリと型がつきました!」
実際さっぱりとした気分だった。
「本当は何度も──もっと前にこうすべきだってわかってたんだけど。特に例の大失敗の後では……」
いったん口を閉ざし、言葉を探すように自分の足元を見つめる。
「でも、踏ん切りがつかなくてズルズルと今日まで来ちゃったってカンジ。その結果、あなたに多大な迷惑をかけちまった。謝ります。いつも、結局、尻拭いをやらせる破目になるな? 親父も、おふくろも、そして、俺も……」
「君の方はまだ済んじゃいないわよ、アイク、勘違いしないで」
レイミーはピシャリと言った。
「この二日間、何をしていたの? あんな状態のサラをほっぽって一体何処へ行ってたの?」
「──」
口を引き結んで一言もしゃべろうとしないアイク。
レイミーがほうっと息を吐いた。幾分声を和らげる。
「ここは君の自宅だから、今日は上司と部下じゃなく、昔みたいに友達同士として話ができるわ。私の方も何度も……もっと前にこうしたいって……こうすべきだって思っていたのよ」
「昔みたいに? 姉貴面して? ──説教はたくさんだよ、俺」
「そうじゃないわよ! あんたこそゲームに負けて拗ねてる昔のまんまの子供じゃない、これじゃあ!」
片手を腰に置きもう片方の手でズバッと宙を切る。
「どんなにゴネてベソかいたって、もう二度とコントローラーの順番は譲ってあげないんだからね!」
その口調と仕草が記憶の中のそれと同じだったのでアイクは思わず失笑してしまった。
レイミーも笑った。暫く笑った後で、
「あんたのいけないとこはね、繊細でナイーブで完璧を求め過ぎるところよ」
「サクストン家の気質なのさ」
「もっとタフでラフになんなきゃ警官はもたないわ」
「でたな? これぞボトムズ家の気質!」
「茶化さないで!」
レイミーはアイクの腕を掴んだ。
「あんな……たった一度のミスが何よ? 何をいつまで引き摺ってるの? 挙句に小さなミスを五万と引き寄せて……」
縋るような瞳に見えた。
「いい加減立ち直ってよ! はっきり言って皆──私も、私のパパも含めて──あんたの将来を嘱望してた。期待してたし、実際、あんたはその通りだったじゃない? これ以上ないくらい優秀な警官だった。私なんか嫉妬してたくらいなんだから」
「へえ? そいつは初耳だな」
本当にそれは初耳だった。ずっと眩しいものでも見るみたいに見つめ、目標にしていたのはこっちだったから。
「皆、ずっと待ってるのよ。あんたが元のあんたに戻る日を。今度の件だって〈延命治療〉なんて脅かしたのは、あれは嘘よ」
レイミーの肩で揺れる赤い髪がいつになく優しく見える。
「あんたに発破をかけたかっただけ。私だって万全の治療を心掛けてる。あんたの回復を助け、且つ、あんたの能力を存分に活かせるようなネタ見繕ったつもりよ?」
「──」
「今回の〈HERD〉は、あんたならゾロゾロつるむより単独でじっくりと対処してくれるって信じたから担当させたのよ。この作戦は少数精鋭なんだから! それを、途中で投げ出すなんて、私、許さないから!」
アイクは素晴らしい微笑を返した。この男にしかできない笑い方。
「あんたの言葉は嬉しいけど──じゃ、こっちも腹を割って言うよ、レイミー姉ちゃん。俺、ほんと、もうダメなんだ」
両目を閉じると、
「つくづくわかったとこ。俺は警官に向いてない。親父がそうだったように、さ。だから、もう……解放してくれ……」
「!」
ここで突然電話のベルが鳴った。
反射時にアイクはベッド横の電話機に目をやった。だが、くぐもった発信音はそこではなくベッドの上に置かれたレイミーのショルダーバッグの中から聞こえて来る。
「私だわ」
バッグから携帯を取り出すレイミー。気を利かしてアイクは寝室を出た。
キッチンを抜けてリビングルームに行った。
ポケットに両手を突っ込んでビューローに寄り掛かったアイクは、なるほど、さっきレイミーが指摘した通り拗ねた少年に見えなくもない。
虚ろな目で壁にペタペタ貼り付けたピンナップ類を眺めながら今さらのようにアイクは思った。
(なんでこんなもの、いつまでも残しておくかなあ……)
答えは簡単。母が貼ったから。
ここにあるのはどれもサラ・サクストンのお気に入りの一枚で──言わばこれはママの大切な写真館なのだ。家族の習慣とは可笑しなもので、いつしか自分も受け継いで何枚も追加してきた。
結果がこれである。
写真の中で最も古いのは両親の高校時代のそれ。ふたりは二学年違いのステディだった。
警官になりたての制服姿の父や、同僚と一緒の集合写真もある。
思えば、父に捨てられた後でさえ母はこれらの写真を剥がそうとしなかった。一度貼った写真は決して剥がさない。これもまたサクストン家のルールなのだ。
「──」
縦横に視線を走らせて久しぶりにアイクは地層のように積み重なって凝結した思い出の数々を眺めた。
生まれたての赤ん坊と、それを囲む笑顔の若い夫婦。顔中アイスクリームだらけになっている水着姿の幼児。黒髪の少年……
サクストン一家とボトムズ一家が一緒に行ったピクニックの写真もある。
髪を二つに分けて大きなリボンで結った幼いレイミーに寄りかかっているもっと幼い自分……
今となってはそれが誰と誰か、どっちにとってもわからないほどだ。
レイミーが荒々しい足取りで掛けて来た。
「またあんたの愚痴に付き合って大失態だわ! 今の段階であんたの辞表なんて悠長に受け取ってる暇なんてなくなったわよ!」
赤毛が燃え立って炎のようだった。
「何かあったのか、レイミー?」
「やられた! また始まったわ! しかも、よりによって私たちの管轄で……!」
アイクが問い直す前にレイミーは叫んだ。
「死体が発見されたのよ! あの連続殺人犯によると思われる、斬り刻まれた少年の死体が……!」