#6 〈挿絵あり〉
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「本当にわかんないのか? 俺の部屋だよ。昨夜、一緒に帰って来ただろ?」
ジェイミーの声にアイクは目を見開いた。
「昨夜……? 一緒に……?」
それから、慌てて跳ね起きる。
「いけねぇ! 今、何時だ?──4時?」
「夕方の、だよ。勿論」
アイクは頭を抱えて唸った。
「やっちまった! 無断欠勤か……クソッ、レイミーは吠えまくってるだろうな?」
それとも、北叟笑んでいるか?
『ほーら、ご覧なさい、また、やっちゃったわね?』
「大丈夫さ。ちゃんと電話しといたから」
埋めていた両腕からゆっくりと顔を上げるアイク。
「何?」
「俺が電話した。体調不良で一歩も歩けそうにない状態だって伝えた。──実際、その通りだったろ?」
「……レイミーに直接か?」
「うん。名指しして電話口へ呼び出してもらった。だって、あんたの直属のボスだって聞いてたから」
「ひぇーー!」
再び頭を抱えたアイクに、
「何だよ、気が利くだろ? 無断欠勤よりは格段に印象いいはずだぜ」
恐る恐るアイク、
「……おまえが〝誰か〟問われなかったか?」
「〝隣の部屋の住人〟だって言っておいたさ」
「〝隣の部屋の住人の孫〟と言うべきだったかもな、クソツ」
絶望する警官を見て少年は唇を尖らせる。
「チェッ、そんなのどうでもいいじゃん、今更」
(その通りだ、今更……)
ここで改めてアイクは自分のいる場所──ジェイミーの部屋を見渡した。
昨夜は周囲を認識できる状態になかったから、何もかも、今初めて見る世界だった。
「へえ、意外だな!」
「何が?」
「もっと……強烈にシッチャカメッチャカかと想像してた」
そこは実際、スッキリと整えられて快適だった。
元はオフィスと思われるだだっ広い一室。
家具らしきものは置かず、医療用のスティールの棚にきちんと衣類が並べられている。ベッド代わりの直置きのマットには清潔なシーツ。同じく直置きのTVとオーディオ類。フィルムを収納するアルミ製のトランクをコーヒーテーブルに代用していてお洒落だった。
全体に物の数を極力抑えた中で唯一の例外はクッションだ。
ベッドの上にも床にも溢れている。室内がひんやりした水槽を思わせるのはそれらクッションが水底の小石を連想させるせいと──色調のせいだろう。部屋中何もかもモス・グリーンからヴェロネーゼ・グリーンに至る見事なグラディションだった。
(こうなると足りないのはここを縫って泳ぐ熱帯魚……って俺もまだ相当に酔いが残ってんな?)
なんだか自分も水の中にいるような気がする。
苦笑しつつアイクは部屋の感想を述べた。
「凄くノーマルじゃないか!」
「ケッ、アブノーマルなのは性癖だけでたくさんだ!」
「!」
「なあ、俺のこと、そんなにイカレてると思ってんのか?」
いつになく真剣に聞いてくる少年の目を見てアイクはハッとした。傷ついた眼差し。その瞳がエメラルドグリーン……どこまでも続く緑の階調。
「いや、そんな意味じゃ──」
アイクはすぐ言い直した。
「悪かったよ、そんな深い意味はない。ちょっとからかっただけさ」
一方、ジェイミーもいつものジェイミーに戻って片目を瞑ってみせた。
「じゃあさ、意外ついでにもっと意外なこと教えてやろうか?」
「え?」
「信じる信じないはそっちの勝手だけどさ、俺、自分の塒に生きてる人間入れたの、あんたが初めてだ」
ゆっくりと首を巡らせてアイクは少年を見た。
「自分で言うのもなんだけど、俺、結構、神経質で潔癖症なんだ。こと住居に関してはな。可笑しいだろ? 身体の方は見境無いのにさ。部屋だけは絶対嫌だ。誰も入れさせたくない」
「……」
「だから、あんたが〝初めて〟で……そして、〝特別〟だ」
この告白の間中、アイクはジェイミーを見つめていたが、ジェイミーはアイクを見ず、別の方向──窓を塞いでいるブラインドを見ていた。このブラインドがまた、ヴェール・マレ、灰緑色とくる。
「まあ、これで借りが返せたかな? 最初に家に入れて泊めてくれたのあんただもんな。どう、よく眠れた? マットの方、あんたに譲ってやったんだぜ」
「ふう……」
アイクは大きく息を吐くと層をなしたクッションの上に仰向きに倒れ込んだ。
仰け反った姿勢のまま問う。
「俺、昨夜、おまえに何を喋った? くだらないこと、耳にしたくないようなおぞましいこと、喋り続けてたろ?」
「憶えてないのか?」
「ああ。だが、想像はつく。──そうか、俺の抱えてる秘密、一切合切喋っちまったってわけだ。あーあ……」
アイクは酷く落ち込んで見えた。
「なあ、だったら、こういうのはどうだ?」
慰めるような口調でジェイミー、
「俺もあんたに〝秘密〟を見せてやるよ。それでハンディを同じにするってのは?」
「おまえの秘密……?」
頷くや、いきなりジェイミーは服を脱ぎだした。この突然の行為にアイクは慌てて、
「お、おい……」
「いいから、見ろよ! これ!」
「!」
ジェイミーの裸の胸、乳首と乳首の間に刻まれている十字の文様──
明らかに鋭利な刃物でつけられた痕だった。
刹那、アイクの耳にいつかのジェイミーの言葉が蘇った。
『俺が斬り刻まれるところ、見たいかい?』
「……ケイレヴ・グリーンか?」
「まさか!」
ジェイミーはけたたましい笑い声を上げた。
「よく見ろよ。これはもっと……すっと古い……昔の傷跡さ。だろ?」
アイクの手を取ると指でなぞらせながら、
「これは、俺が最初に寝た奴につけられたのさ。九歳だった」
「──」
「これを俺の〈緋文字〉だとぬかす奴もいた。俺の呪われた人生の象徴だってさ。笑わせるぜ! 俺はこれを守り神……〈聖痕〉だと思ってる!」
ブラインドを下ろした薄暗い部屋の中でジェイミーの緑の瞳がキラキラ光っている。水槽の主役がここにいた。熱帯魚は少年自身なのだ。
「こんな目にあっても、まんまと生き延びてるって、その明白な証拠だもんな? つまり、俺はこれから先だってどんなものにも打ち負かされない! 俺をブチのめせる相手なんてこの地上の何処にもいないんだ!」
両手を広げクルクル回転しながらジェイミーは叫ぶのだ。
「これを見るたび俺は勇気が湧くし、誇りに思う! これこそ勝者の烙印さ! 俺は一生この十字架と一緒に世界を渡って行くんだ! 怖いものなんてない!」
「……だから、ジェイミー・クルスか。大した命名だよ」
つくづく感じ入ったという風にアイクは頭を振る。
「おまえは……強いんだな?」
「キスしてみる? ご利益あるかもな」
軽やかなステップで傍らに立ち胸を突き出すジェイミー。
だが、アイクはそっと体を離した。床に落ちているシャツを拾うと少年に投げた。
「もういいから、さっさと着ろ」
怒っているように見えた。
「何だよ? 感想はそれだけ? これを見た大概の人間はもっと……感動してくれたぜ」
袖を通しながら小声でボソリと訊いた。
「……傷物は好きじゃないのか?」
さっきからずっとアイクからの返答がない。流石に苛立ってジェイミーは壁際にうっそりと佇んでいるアイクに突進した。
「おい、なんとか言え──?」
アイクは泣いていたのだ。
腕を組み背を向けて突っ立ったまま静かに泣いていた。
「な、何? どうしたんだよ、アイク?」
これには却ってジェイミーの方が慌てた。回り込んで顔を覗き込んで尋ねる。
「そんなにショックだったのか? だって、あんた、警官だろ? これ以上のえげつない傷や死体、それこそ山ほど見て来ただろうが?」
「……おまえが可哀想だ、ジェイミー」
「!」
俯いて両目を手で覆ったままアイクは言う。
「俺は嫌いなんだよ、こういうの。死体ならいいってわけじゃないけど──だが、生きてる人間にこんな真似したがる奴の気が知れない。吐き気がするぜ!」
「……あんたは、つくづく真っ当なんだな、アイク?」
ジェイミーは酷く悲しげな顔になった。
「ひょっとして──いや、絶対、警官って職業あんたに合ってるんだ。俺、がっかりだよ」
この言葉はアイクには意外だった。
「何故だ? 警官が嫌いなのか?」
「うん。大っ嫌いさ! でも、あんたは口で言ってるほどには警官が嫌いじゃないんだね? 本当は凄く気に入っている。ただ、今わざと嫌いになろうとしているだけ。図星だろ?」
ジェイミーは訊いた。
「なあ、どうして無理に警官を嫌いになろうとしてるのさ? 警官って職業を崇拝し過ぎて自分がそれをする資格がないと思った? 母親と寝てるから? それとも、やらかした失策のせい?」
「その話はやめろ」
「じゃ、さ」
ジェイミーはアイクの胸に体を摺り寄せると囁いた。
「警官なんて辞めちまえよ? そうすりゃ、いけ好かない上司とも顔を合わせずに済むし、その上……その上……」
「その上何だよ?」
「……俺とも存分に愛し合えるようになるだろ?」
少年の論理が可笑しくてアイクは吹き出してしまった。
「何だ、それ?」
「理由はわからないけど──感じるのさ。俺とあんたの仲を遮ってるのは、あの品の悪い制服のせいだってね」
アイクは体を反転させると右肩を壁につけて寄り掛かった。
「ふん、制服姿がセクシーだって言ったくせに」
「ありゃ大嘘さ! 制服姿のあんたなんて見れたもんじゃない。サイテー」
「そうかよ」
今度は背中に凭れ掛かるジェイミーだった。
「なあ、あんなえげつない服着なくなったら、あんたは最高だぜ、アイク?」
「そういう風に言わない奴もいたぜ。心底似合うと言ってくれた奴もいた……」
「やっぱりな?」
ジェイミーの口調が変わった。
子猫のよう擦りつけて甘えていた顔を逸らすと目の端から覗くようにしてアイクを見つめる。
「ソレで今まで何人、可愛子ちゃん引っ掛けたのさ?」
「おい?」
「そういや、あんたの親父さんも人妻誘惑したのは職務中──制服姿だったんだもんな?」
「やめろよ」
「なるほど。昨夜あんたの言った通り、大したDNAだぜ!」
次の瞬間アイクはジェイミーを殴り倒していた。
職業柄身体で覚えこまされているので人を殴るツボを心得ている。
ジェイミーは吹っ飛ばされて反対側の壁にぶつかった。
起き上がると手の甲で口を拭って血を確認した。
「乱暴は嫌いじゃなかったのか、アイク? あんた、嘘つきでもあるんだな?」
「黙れ!この──」
「ホント、あんたは父親似だぜ!」
少年の胸ぐらを掴んで引っ立てると、更に殴った。
連打の後で、床に倒れ伏したジェイミーを見下ろしてアイクは言った。
「これが望みか? 気に入ったか、ジェイミー?」
何発殴ったのか定かではない強ばった拳をゆっくりと開く。
「おまえが欲しいのはこれか? 煽りやがって……」
床でジェイミーは薄く目を開けた。が、それはアイクには見えなかった。アイクに見えたのは金色の後頭部だけ。
「嘘つきはお互い様だろう? さっき俺は、生身の人間痛めつけて喜ぶ野郎に吐き気がすると言ったけど、痛めつけられて喜ぶ野郎にも吐き気がするぜ。──おまえはそっなんだろ、ジェイミー?」
拳に滲んている血をシャツで拭う。自分の血か少年のソレかアイクにはわからなかった。
「おまえ、ケイレヴ・グリーンにも自分から近づいたんだってな?」
少年の体がビクリと引き攣った。
「……誰に聞いた?」
「さあな。誰でも構わないさ」
ジェイミーの引っ掻くような乾いた笑い声が部屋中に響き渡る。
「ふうん? あんた、日頃自分で言ってるような……手抜きの屑警官ってわけじゃないんだな? 俺の身辺調査も怠り無く、か?」
ジェイミーは肘を突いて床から上半身を起こした。
憎しみに満ちた目でアイクを睨みつける。
「これだから警官は嫌いなんだ! 人様には綺麗事並べて説教垂れるくせして、その実、嘘つきで、サイテーで、汚い……」
殴られたばかりの、その生々しい薔薇色の傷のせいで少年は天使のように美しかった。
「俺の部屋から出て行け!」
「言われなくってもな」
既にアイクはドアに向かって歩き出していた。
「俺に言わせりゃ、おまえらだって警官同様じゃないか。そっくり返してやるよ。おまえ等男娼も嘘つきの集まりさ。サイテーに汚い。いつだってな」
ジェイミーは腕を伸ばして傍にあったものを手当たり次第、アイクの後ろ姿めがけて投げつけた。
クッション、クッション、クッション、ティッシュボックス、ナイロン紐……
どれ一つ当たらなかった。
最後に投げた梱包用のピンクの紐の球はアイクが閉めたドアに当たって空々しい音を立てて床に落ちた。