#34
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かつての姉、今は上司であるレイミー・ボトムズ刑事は繰り返した。
「あなたが殺ってやりなさい。あの子はそれを望んでるのよ」
「──」
「俺は悪い子だろ?」
苦しんでいるのか楽しんでいるのか、眼前の少年はもはや手がつけられない極限状態に見えた。
アイクの逡巡を見透かすように吊るされたシュンの傍に行き、体を寄せてニヤリと悪魔っぽく笑った。
「ヘイ、アイク!」
右手のナイフは放さないまま、左手をアイクに突きつける。親指と人差し指をゆっくりと丸めた。
「!」
弧を描くように腕を伸ばしてシュンの左の乳首へ──
薄桃色の乳首を指で抓んでもう一度アイクの顔を見た。そのまま停止する。
「あいつ……」
知っててやってる。
レイミーの言うことは正しい。俺を挑発しているんだ。撃って欲しくて──
一枚の絵が出現した。
この場合、恐ろしいのは絵画に暗い女刑事以外の男たち三人が三人ともその絵を知っていて、その絵の暗示するところを知っていることだった。
並んで立ち、隣の愛妾の乳首を抓んで微笑むもう一人の愛妾の図……
一七世紀フォンテンブロー派でおよそ最も有名な絵。
〈ガブリエル・デストレとその妹〉
作者不明、(実はモデルも不明?)。でも、そんなことはどうでもいい。アイクは胴震いした。
今、問題なのは、その絵では、乳首を抓まれている方が死ぬ運命にあること。
王に愛されたばかりに殺害される愛人の絵をサウサリートのギャラリーの息子は再現して見せたのだ。
「さあ、どうする、アイク? 俺は悪い子だろ? このまま放っておいていいのか?」
(俺を殺してくれよ!)
「どうしたのさ? これじゃまだ足りない? 乳首を切り落とすとこまで見ないと決心がつかない?」
(俺を殺して……開放してくれ……)
「いいとも! それがお望みなら」
(早く……殺して……アイク!)
ナイフを持つ右手が揺れる。
「もう、いいよ、ジェイミー。もう、いいから」
自分でも吃驚するほど柔らかな声だった。
「悪ふざけはやめて、ただ一つだけ答えてくれ」
その優しい声でアイクは訊いた。
「おまえ、本当に助けて欲しいのか? 俺ならそれができると思ってるのか?」
「ああ、アイク」
吐息が漏れた。
「あんたならできる。あんたでなきゃダメだ」
「だったら、ちゃんとそう言え。おまえの口で、俺に、本当にして欲しいことをはっきりと伝えろ。これは大切なことなんだ。俺はもう失敗は繰り返したくない」
乾いた音がプールの底に響いた。ジェイミー・クルスがナイフを捨てた音だった。
「俺を……た、た、たすけて……」
「それをずっと俺に求めていた?」
「うん」
「それが俺にして欲しい一番のことだった?」
「うん」
まるで九歳の子供のようだった。
力無く噴水に凭れかかるとジェイミーはそのままズルズルと膝を折ってしゃがみ込んだ。
*
ジェームズはそのままズルズルと膝を折って絨緞の上にしゃがみ込んでしまった。
今、目の前で起こっていることが何なのか理解できない。
本当は走って逃げるべきかも知れない。でも──体が動かなかった。
石のように固まったまま兄が何度も刺されるのを見ていた。
兄はとっくに死んでいるように見えたがナイフで抉られるたびに生き返ったように飛び跳ねる。
ついさっきまでは本当に飛び跳ねていた。
夕食のテーブルの周りをふざけて追いかけっこしていたのだもの。
兄の部屋に飾ってある有名選手のサイン入りのバスケットボールを持ち出すとウォルターはいつも怒って(怒ったふりをして)ジェームズを追いかけるのだ。だから、兄に構って欲しくなるとジェームズはいつもそれをやった。案の定、ママには叱られた。それで、ダイニングからリビングに走り込んだところ、まだママは怒っている。今日のママはいつもよりずっと大きな声を上げて──
違う。ママは自分たちを叱っているのではない。叫んでいるのだ。何て?
「逃げて! 逃げなさい! 早く──」
悲鳴とともに血だらけのママがリビングルームに倒れ込んで来た。
ジェームズもウォルターもわけがわからなかった。
ママの次に部屋へ入って来たのは巨人のような大男だった。手に血の滴るナイフを下げている。
「ビル!」
兄が叫んだ。兄はこの巨人を知っているらしい。
「ウォルター……」
巨人が手を伸ばした。
「俺と行こう。さあ!」
「あっちへ行け!」
兄は巨人の腕を払った。
「聞いただろ? パパが警告したはずだ! 二度と俺に付き纏うなって! でなきゃ警察に訴えるって! 俺はおまえなんか大っ嫌いだ!」
兄は必死で巨人から逃れようともがいた。
「パパが言ってた! おまえなんかに絵を売るんじゃなかったって! それ以前に、そうさ、おまえみたいな化物を店に入れるんじゃなかったって!」
「そんなうるさいパパなんかもういないさ」
巨人が振り返った先、リビングルームの前の廊下に倒れているパパの金髪の頭が見えた。金髪? 嘘だ、あれはどう見ても真っ赤……
「おまえなんか大っ嫌いだ! 虫唾が走る! 放せ、俺に触れるなったら!」
その後、ウォルターがなんと言ったのかジェームズには聞き取れなかった。
兄は巨人に抱きしめられるとキスされて刺された。刺されてキスされた。キスされて刺されて……
刺されるのとキスされるのとどっちが多いかもうわからない。数えられない。
全てが終わりを告げて、巨人が自分を見るまでジェームズは自分の体が透明になっていたような気がした。巨人に見つめられて、また体が戻って来た、そんな感じ。
しかも、驚いたことに自分はまだ兄との鬼ごっこの途中だった。両手にボールを抱えていたから。
巨人は振り返って室内にいる最後の生存者を凝視した。
「おまえは俺と来るな? 嫌だなんて……言わないだろう?」
殺戮者を見上げる見開かれたジェームズの瞳。
兄の宝物だったバスケットボールがジェームズの腕から零れ落ちたのはこの時だった。
ボールは血の海の中を持ち主の横まで転がって行った。
*
「お願い、僕を……たすけて……」
あの日言えなかった言葉がジェイミーの唇から漏れた。八年経って、やっと。
本当はあの日に言うべきだったのだ。
あの日、そう叫んでガムシャラに逃げるべきだった。あの恐ろしい巨人の手から。
でも、あまりの恐怖が少年を硬直させ、麻痺させ、雁字搦めにして……助けを求める声をその小さな体の奥深く封印してしまった。
思えば、八年前のその日から、ジェイミーは一度もその言葉を口にしたことはなかったのだった。
どんな時も──
どんな恐ろしいことをされ、どんな痛い思いをし、どんなおぞましいものを見せつけられてもジェイミーはその言葉を使わなかった。使えなかった。
今、堰を切ったようにジェイミーの体から救済の言葉が溢れ出した。
「助けて! 助けて! 助けて! 助けて!」
誰も動く者はいなかった。
血を滴らせるシュン、両腕をだらりと下げたままのレイミー。顔を覆って蹲るジェイミー。
誰一人動く者はいなかった。
その中でアイク・サクストンはゆっくりと肩に下げたホルスターから拳銃を抜き取った。
「安心しろ。俺が助けてやる」
アイクは銃を構えた。そして、トリガーを引いた。
屋内プール場に響いた銃声はきっかり一回だけ──