#33
33
「俺は行くとこ行くとこ──」
足元、水のないプールの底にいったんナイフを置くとジェイミーはコートを脱ぎだした。興奮して体が火照っている。
「いろんな街でグリーンのような男と暮らした。クラヴェルのクソジジイ曰く『何処にでもグリーンはいる』……全くさ!」
レイミーが銃に手をやろうとした、その気配を察して素早くナイフを掬い上げると見せびらかすように警官たちにかざす。
「そいつらはあんたと違って、アイク、俺にいつも望むものをくれた」
視線はレイミーを素通りしてアイクだけを見ていた。
「あんたを知るまで俺が欲しいものはそれ一つ……〝快楽〟だけだった。あんたはその意味じゃあマットウで、どんなに頼んでも俺のことイジメちゃくれなかったもんな?」
剥き出しの自分の肌、ドス黒い痣の残るそれを愛おしそうに見つめるジェイミーだった。
やがて、顔を上げると、
「それからな、グリーンみたいな男とツルむともう一ついいことがあった。〝獲物〟が容易に手に入る、コレさ! グリーンのような男の周りにはいつも可愛子ちゃんがわんさと屯してるんだ。
そう、俺を気持ちよくさせるもうひとつの快楽は……こんな風な可愛子ちゃんを斬り刻むこと」
シュンに近寄ると髪を掴んで顔を上に向かせる。激しくキスした。
「──」
レイミーもアイクも微動だにできなかった。
死神のする死の接吻をアイクは思い出していた。何がいいんだかわからないが画家の好むモチーフだ。中でもエゴン・シーレが一番嫌いだった。上手過ぎて恐ろしい──
「可愛い面の奴見るとメチャクチャにしてやりたくなる。こいつら所詮おぞましい連中のいいなりになるしか能のない、非力で惨めな生き物だ」
キスするのをやめて顎を掴む。
「まあ、おまえは一度は見逃してやったのにな、シュン?」
華奢な顎に爪が食い込むほど強く握って揺さぶった。
「おまえを訪ねて行った時、ホントは俺、すぐにあの場でロドニーみたくおまえを斬り裂くつもりだったんだぜ? 俺のアイクにひでえ仕打ちしやがって、このクソガキ!」
ふいに声が優しくなった。
「でも、話をしているうちに気が変わった。だって、おまえ、物凄く苦悩してたろ? 俺、絶望してる奴って好きなんだ。傷ついた男も。おまえ丸っきりソレだった。だから、俺は思った。『OK、こいつは既に犠牲になってる』。警官を死ぬほど嫌ってる点も俺と共通してるし。それで、リストから外してやったんだよ」
ジェイミーは揺すっていた手を止めた。
「運が悪かったな、シュン? 結局これか? まあ、同じ男好きになっちまったんだ。上手くいくはずもないか?」
「何度言えばわかる、ジェイミー!」
たまらずアイクが声をかける。
「俺とシュンはもう何の関係もない。俺たちはとっくに終わっているんだ。だから──その子は放してやれ!」
「あーんなこと言ってるぜ、シュン? おまえの意見は?」
これ見よがしにシュンの唇に耳を寄せるジェイミー。
レイミーが小声で叱責した。
「ジェイミーを刺激しちゃだめじゃない、アイク」
「そんなことはわかってるさ。クソッ……」
「何とか気を逸らせてシュンの傍から離さなきゃ……武器はあのナイフだけよね?」
「ああ、多分……」
「おーい、嘘だって言ってるぜ!」
面白そうに振り返ってジェイミーが叫んだ。
「『二人は終わっちゃいない』……『僕はまだアイクのこと愛してる』……ってさ! え? 何? まだなんか言いたいのか?」
微かに頭を持ち上げて、吊るされた少年の唇が動く。
「……俺のこと……俺が愛してたこと……忘れないで……それだけ……」
「へえ! 結構いい根性してるじゃん、おまえも!」
再び髪を掴んで仰け反らせるとジェイミーは笑い声を上げた。笑いながら白い喉元をサッと斬る。
新しい血が吹き出した。
「やめろ! ジェイミー! それ以上……」
前へ走り出そうとしたアイク。レイミーは体で制すと、代わりに自分が前に進み出た。
よく通る警官の声で確認する。
「じゃ、グリーンは本当にここにはいないのね? 全てあなたが一人でやったっていうのね?」
ナイフを振るうのをやめてジェイミー、
「何度言わせる? 頭が悪いのか、レイミー? 俺の家族をブチ殺し、俺を引っ拐って……メチャクチャ痛めつけたのはビルだ!」
新しい名前。だがレイミーは驚いた様子を見せることなくごく自然に聞き返した。
「じゃ、そのビルは、今、何処にいるの?」
あっさりと一言。
「そりゃ──地獄だろ?」
少年は遠い目をして言う。
「ビルときたら呆気なく死んじまった。もっと腹の座った怪物だと思ったのにな。
俺のパパとママ、それからお兄ちゃんズタズタにして……ティムやアートがどんなに泣き叫んで助けてくれって懇願しても許してやらなかった……いつも平気で徹底的に斬り刻んだ……あんなに強くて恐ろしい男が……」
ゆっくりとレイミーが訊いた。
「その怪物がどうしたの?」
「ある朝、目が醒めたら、天井からブラ下がってた……」
「──」
*
山小屋の中。
剥き出しのレッドシダーの梁に、首を括った大柄な男がぶら下がって揺れている。
一〇歳ぐらいの全裸の少年がクリスマスツリーを見上げるような目でそれを見つめていた。
足元には見慣れたピンクのナイロン紐が一巻き。気づいて少年は拾い上げた。
無表情だった顔にゆっくりと広がっていくのは怒りの翳に見える──
*
「あいつが他人だけじゃなく自分も傷つけられるなんて知らなかったな。自分も殺れるなんて……こんなのありかよ? 中途半端にバッくれるなよ! 今更……」
「ルイス・ウィッスラーだ!」
突然アイクが声を上げた。
前に立つレイミーも、プールの底のジェイミーも同時にそっちを見た。
「ルイス・ウィッスラー……そうだな、ジェイミー? おまえが最初に手にかけたのはルイスだ。ルイスからがおまえなんだ……」
「何の話?」
眉間に皺を寄せてレイミーが訊く。
「ペイジが言ってただろ? 〈白鳥の王子連続殺人事件〉には何人か別人が混じっている。創始者はジェイミーが言ったそのビルで、そいつは〈ホールデン一家惨殺事件〉以外では二番目のアート・ホープまでなんだ……」
「そうなの?」
苦いものを飲み下すように喉を震わせてレイミーが喘いだ。
「じゃ、後は、ジェイミーの言う通り……全て……?」
絶望的だ。歯を食いしばってアイクは頷いた。
「そうさ、レイミー。ジェイミーが真犯人だ」
絶望的……
「そうさ! 俺はやめられなかった!」
異様に明るい声が重なった。
「ビルが俺に教えてくれた二つの快楽の味! 他人に痛めつけてもらうことも、他人を斬り刻むことも、全然やめられなかった……!」
「ああ、ジェイミー……」
赤い頭を振ってただその名を呪文のように繰り返すレイミー。
アイクはプールの天井を見上げた。そこにすべての悪の根源、ビルという男がぶらさがっているかのように。
(時間を巻き戻すことができれば……)
首吊り死体の足元で途方に暮れている少年の側へ駆け寄って、そのつぶらな瞳を塞ぎ、手を引いて連れ戻せるのに。怪物は去ったと優しく囁いて、それまで見てきた恐ろしいものは全て悪夢だったんだよと、頭を撫でてやれるのに。
だが、もう遅い。遅すぎる。
レイミーのオフィスでは口に出せなかったけれど、ジェイミーの9歳の写真を見た時、アイクは思ったのだった。ベルト・モリゾ。やっぱり今回はあの画家の絵に尽きる。
九歳のジェームズ・ホールデンはモリゾの描いた彼女の金髪の甥っ子の肖像画に似ていた。
不安そうに照れくさそうに、そして何より、まぶしそうにこっちを見ている無垢な男の子……
「俺は悪い子だろ? だから、他人──グリーンみたいなのに死ぬほど痛めつけられるのがいいんだ! 死ぬほど、な! でも、ダメだ。どいつもこいつも結局、最後までは行けやしない。
『ここまでだ』とか、『またこの次な』とか言って俺を床に放り出す。やっぱりビルが放り出したように……」
レイミーがハッとした。が、ジェイミーは頓着しなかった。少年は自分の思いを吐露するので精一杯だった。
「そうすると俺はまたフラストレーションが溜まって……もう一つの快楽に手を出すしかなくなる。ガキ一人満足に殺せないあいつらの代わりに俺が別のガキを殺してやるんだ! 俺の身代わりに!」
「なんてことあの子は──」
「え?」
「殺されたがってるのよ、ずっと前から」
「!」
「自分を止めて欲しがって……彷徨い続けて来たんだわ……」
「ビルは卑怯だ! 自分でやり始めておいて途中で降りやがった! 俺は? 俺は?」
それは血を吐くような懺悔だった。壮絶な告白だった。
「俺はどうしろって言うんだ? 俺は自分で自分を傷つけられないんだ!」
自分の柘榴色した傷だらけ、痣だらけの体を撫で回しながらジェイミーは絶叫した。
「何度も試したさ! でも、ダメなんだもの。俺は、自分では自分を痛めつけられない──意気地なしなんだ!」
アイクを振り返ってレイミーが恐ろしいことを言ったのは次の瞬間だった。
燃えるような髪をした女は、肩越しに低い声で、しかし、はっきりと言った。
「あなたが殺ってやればいい」
「!」
「あなたが殺ってやりなさい、アイク……!」