#24
24
あちこちに散乱する脱ぎ捨てられた衣類、倒れたワインの空瓶、ベネシャン硝子のワイングラスが二個……ブラインドから透けて見える陽光はまだ夜ではないことを示している。
ベッドの中からくぐもった声が響いた。
「どうだ? 俺がちっとも恐ろしい人間じゃないって……わかったろ?」
「うーん……」
続いて少年の澄んだ笑い声。
「でもさ、まだ本性を出してないだけだったりして」
「ふふ、言うじゃないか」
ケイレヴ・グリーンも笑った。
「さてと、そろそろ帰らなけりゃ。宿題が山ほど残ってるんだ」
ベッドから転がり出たのは──シュン・ホルトだった。
服を着だすが、ふと気づいて壁の方へ引き寄せられた。飾られている絵を見て、
「……アンドリュー・ワイエス?」
少年は驚いてベッドを振り返った。
「いい趣味だなあ!」
「男の子の趣味同様、だろ?」
後ろから抱きしめる。
「それはどうだか」
太い腕の中でくすぐったそうにシュンは笑った。
グリーンは少年を抱きしめたまま並んだ二枚の絵を眺めて、
「故郷の風景に似ている。心が落ち着くよ」
「というと田舎の出身なのか? いいな! 僕なんか16年この方このクソッタレな都会に閉じ込められてるっていうのにさ」
けぶるような朧な瞳を瞬かせて少年は訊いた。
「ねえ? あんたの故郷って何処? 僕も行ってみたいな」
黒髪がかぶさる耳を吸い寄せて少年にだけ聞こえる声でグリーンは教えた。
「……」
その間中、少年はクスクス笑い続けていた。
「気をつけて帰れよ! くれぐれも悪い男にとって食われないようにな、シュン?」
教科書で膨らんだバックパックを肩に担ぎ上げるとシュンは指を突き出して怒ってみせた。
「FUCK YOU!」
玄関まで出て手を振って見送るグリーン。少年の後ろ姿が植え込みの向こうへ消えるのを見届けてからドアを閉め──ハッと息を飲んだ。
いつの間にか階段に誰か座っていた。
「……驚いたな。あんたの新しい可愛子ちゃんて、アレか?」
「ジェイミー!」
驚愕のあまり、暫くグリーンは言葉が出なかった。
「いつ帰ってきたんだ? いや、その前に……一体、今まで何処へ行ってたんだ?」
漸く気を取り直し、駆け寄って抱きしめようとするのをジェイミーはするりと交わした。
「おい、それはないだろ? 掻き消えたみたいに姿が見えなくなったから心配してたんだぞ! 俺がどんなにおまえの身を案じて街中探し回ったと思ってる?」
ジェイミーは唇を尖らせると、
「ケッ、そうして探し回った結果、もっとイイモノ見つけたってわけ?」
シュン・ホルトが歩み去った方角を睨みつけた。
「妬なって。あんなのは気晴らしのお遊びさ。まあ、俺だって一度はプレッピースクールに通う男の子を味わってみたかっただけで──俺にとっておまえ以上に本気になれる子なんていやしない」
強引に胸に抱き寄せるとグリーンは言い直した。
「本気で扱える奴は、な? そこのところはお互いよーく知ってるだろ?」
「──」
無言で微笑むジェイミー。緑色の瞳がいつになく翳って悲しげに揺れる。
一方、グリーンは思い出したように突如声を張り上げた。
「それにしても、おまえ、またあそこを使って侵入したな? ったく、あれほど言ったはずなのに。やめてくれよ、アレは亡きフランソワーズ専用の出入口だぞ!」
ジェイミーは忌々しそうに吐き捨てた。
「ハッ!何がフランソワーズだ! 聞いて呆れるぜ、あんなクソアフガン犬……」
レイミーは目を丸くして頭を振り続けている。
今しも目の前でシュンが描いてゆく見取り図を見つめたまま。
場所は〈ポロラウンジ〉。ビバリーヒルズ・ホテルの中にあるレストランだ。
ここの営業時間は朝7時から日付の変わる1時30分まで。時間に囚われないハリウッドスターや世界のVIP御用達で予約さえあればいつ何時でも最高の料理を味わうことが可能なのだ。
そういうわけだから、レイミー・ボトムズも今日はパンプスどころではない。持っている中で一番高級なスーツに身を包んでいる。密かに敬愛してやまないシカゴの女探偵を真似たブルーの絹のパンツスーツ……!
この店を選んだのは協力してくれたシュンへの感謝の気持ちを表したかったのに加えて、普段は絶対に警官がいそうにないから。レイミーとしてはこの密会の場面を誰にも見られたくはなかった。
とはいえ、今はそういう種々の目論見を忘れて唯々驚愕するばかり──
「ち、ちょっと待ってよ、シュン!」
「何がさ?」
「全然違うわ! 私たちが持ってる図面と……」
「そう? 俺は見て来たままを描いてるだけだけど? 忘れないうちにね。そら、完成!」
シュンは描き上げた紙ナプキンをテーブルを滑らせてレイミーに投げてよこした。
すぐさま受け取って、食い入るように見つめる赤毛の刑事。せっかくのドレスアップが台無しだ。派手に鼻の頭に皺を寄せた。
「──」
これはどういうこと? じゃ、まさか? ジェイミー・クルスが私たちに偽の情報を掴ませた……?
「他に何か聞きたいことは?」
「秘密の扉は何処?」
「何だって?」
「あ、いえ、つまり、この辺にちょっとした出入り口があったんじゃないの? フランス窓みたいなものが」
ジェイミーに聞いた場所を指でなぞってみせる。
「いや、そんなもんなかったぜ。まあ、全体に小ぢんまりして凄くノーマルな家だった」
「君の家に比べりゃ何処の家だって小ぢんまりしてるだろうけど」
ついお得意の皮肉が出る。だが、少年は気づかなかった様子。
「噂の拷問道具とかもなかったし。尤も、そっちの方は俺がビビるのを心配して片付けちまったのかも知れないけど」
「……そう」
「丸っきり紳士ってふう。そうそう、あんたに殊更頼まれていたあっちの方」
悪魔っぽくニヤッとしてみせた。
「セックスの話じゃないぜ? 〝絵〟の方な。アンドリュー・ワイエスだった」
「?」
キョトンとしてレイミーは図面から目を上げた。
「故郷を彷彿とさせるから、がグリーンがその画家を好きな理由」
「凄いわ、シュン! 本当に? ホントにそこまで聞き出すことができたの?」
「ああ、わけなかった」
レイミーは前のめりになって、
「故郷は何処だって言ってた?」
「褒めてくれよ。ここは今回で一番の腕の見せ所だったんだから。いいかい、奴は寝室に二枚アンドリュー・ワイエスの絵を飾ってて、〈海からの風〉と〈クリスチアナの世界〉なんだ。『どっち?』と甘え声を出して俺は確認した」
「?」
絵画に暗い女刑事は首を傾げるばかり。
「チェッ、知らないの? ワイエスには故郷と呼ぶべき土地が二箇所あるんだよ! メーン州とペンシルベニア州。奴が指差したのは」
キスしながら、という部分は少年は省略した。
「海の方。だから、奴の故郷はメーン州さ!」
「ありがとう! そうとわかれば即、NCICに照会してグリーンの前歴や何かをもっと詳しく調べられる」
「本当にこんなんでいいのか? こっちとしては簡単過ぎて嘘みたい」
「一生恩に着るわ、シュン!」
「恩なんかいらない。感謝もだ」
それまでの砕けた調子を一変させて少年は冷たく言い放った。
「俺たちは取引をしたんだ。そうだろ、ボトムズ刑事?」
シュン・ホルトの闇色の瞳の焦点がピタリと合っている。
「俺はやることはやった。次はあんたの番だぜ。ちゃんと取り決め通りやってくれよ?」
乾いた声でレイミーは頷いた。
「……もちろんよ」
満足してシュンは立ち上がった。ジャケットを羽織ってその場を去ろうとした。
「じゃ!」
「!」
大きく見開かれたレイミー・ボトムズの双眸。息を飲んで、次には叫んでいた。
「シュンイチ!」
「おわっ?」
行きかけたシュンの腕を掴むと力いっぱい自分の方へ引き寄せる。
「何? 何? いきなり何だ……よ?」
「それ」
上擦って掠れたレイミーの声は酷く聞き取りにくかった。
「え?」
「それ、その服……」
「ああ、これか? クールだろ? このカッコ良さがわかるとは刑事にしちゃ結構イケてんだな、お姉さん」
ハイティーンの少年の顔になって嬉しそうにシュンは笑う。
「この感じ、アボット・キニー辺りの古着屋漁ってもちょっとやそっとじゃ手に入らないよな? ママは汚らしいって怒るんだ。せめて、クリーニングに出せって。やなこった! この──本物の血の痕が断然ワイルドなのに」
シュンの無駄口を最早レイミーは聞いてはいなかった。まじまじとジャケットを凝視しながら地から染み渡るような声で訊く。
「それ、クルスの……ジェイミー・クルスがあの日着てたジャケットよね?」
レイミーは自分が震えているのがわかった。一瞬、脳裏に蘇る写真。駐車場で対峙するキュートな二人の図……
片やシュン、ポカンとした顔で、
「え? ああ、そう。どうして知ってるんだ?」
思い出しながらクックツと笑う。
「あいつ、俺を訪ねてきた日、酷えナリで見れたもんじゃなかった。まあ、その分、可愛さも際立ってたけど。それで、俺、泊めてやって、シャワーも使わせて……着替えもないって言うんで下着から全部、俺の服着せて帰したんだ」
ここまで一気に言って息を継いだ。
「それが何か?」
「脱いで、シュン!」
「は?」
「脱ぎなさい! 今すぐ、君の着ているものを脱ぐの! さあ、早く!」
高級レストランの客は皆一斉に会話をやめて、文字通り固まった。
ワイングラスを乾杯の形で止めた紳士、銀のフォークを真紅のルージュの口元で止めた淑女、人気のデザート、ムースショコラを吹き出してしまった老婦人もいた。
血相を変えた支配人が宙を泳ぐようにしてやって来た。
「お、お客様! 当店でそのような……破廉恥なお振る舞いは……ご遠慮願いますっ!」
「いいから!」
押さえつけようとしがみつくタキシードの腕を振り払うとレイミーはもう一度叫んだ。
「たった今! ここで! 即刻! 脱ぎなさい、シュン!」