#20
20
署に戻って自分の机に腰を落ち着けると、アイクは足下の段ボール箱から例の〈白鳥の王子〉連続殺人事件に関連する全ファイルを取り出した。本来ならHERDチームの任を解かれた時点でレイミーに返却するつもりでまとめておいたのだ。だが、朝の騒動で渡しそびれた。
食い入るような視線で一冊一冊ページを繰り始める。
「精が出るな!」
いつからそこにいたのか、アイクの後ろにコーヒーカップを二つ持ってケヴィン・ペイジが立っていた。
「君がこんなに真剣に働いてるところを初めて見たよ!」
「そうですか?」
アイクは無視した。
CBIの捜査官は共同オフィスのアイクの机の側までやってくるとカップを一つ差し出した。その際、さりげなくアイクが開いているファイルの内容を確認する。
「この件から外されたのに? やけに熱心じゃないか!」
意味深に問う。
「そんなに興味あるかい?」
快くコーヒーを受け取ってアイクは答えた。
「俺はご覧の通り暇なんです。それで、ちょっと気になることがあったので──まあ、これは、言わば趣味の領域ですよ」
ペイジは舌舐めずりせんばかりに嬉しそうだった。
「趣味の、ねえ!」
同じ頃。レストラン〈スパゴ・ビバリーヒルズ〉。
最も速いディナーの予約客としてレイミー・ボトムズは窓際の席に座っていた。
人を待っているのだ。そのせいで今日は主義を曲げてパンプスを履いていた。車から降りるときスニーカーから履き替えたのだ。
何回目になるだろう? すっぽかされるのではないかという不安から腕時計に目を落とした時、自分の前に人が立った気配にサッと顔を上げる。
「!」
それは八角形のサングラスに虹色のアフロヘアというイカレた若者だった。
「はい! レイミーお姉ちゃん!」
「あなた、シュン? 呆れた……全然気付かなかったわ! 一体どうしたのよ、その格好?」
シュン・ホルトは舌を出してから、サングラスとカツラを毟り取った。
「俺のことつけまわしてる阿呆な警官どもにサービスしてやってるのさ!」
レイミーの向かいの席にドサッと座る。
良家の子息らしく変装以外、服装はTPOをわきまえていた。ラルフ・ローレンの濃紺のブレザーにマーガレット・ハウエルの水色のシャツ、ブルックス・ブラザースのチノパンツ。ネクタイは──わからない。ポール・スミス?
「それより、話ってなんだよ? 直々にこんな処に呼び出して。この間の罪の告白が効いたのか? 俺をロドニー殺しで逮捕しに来た?」
「背伸びたわね? 暫く見ないうちに……」
思わず口を突いて出た言葉だった。だが、少年はその暖かさを拒否した。受け付けなかった。鋭い皮肉で返す。
「大人になっただろ? もう二度とあんたたち怖いオオカミさんに騙されないようにお勉強の方もちゃんとやってるよ」
親しみを覚えた自分が馬鹿だった、とレイミーは後悔した。容赦せず少年が斬り裂いた心の傷(そしてそこから響く痛痒)には気づかないふりをして本題に入った。そうよ、私は思い出話をしに来たんじゃない。あくまでもビジネスライクに、単刀直入に言わなきゃ。
「呼び出したのは他でもないわ。折行って、頼みがあるのよ」
「そら来た!」
少年は笑った。こればかりは変わりようのない、キュートで魅力的な微笑で少年は問い返す。
「で? 今度はどんな嘘をつけばいい?」
「シュンイチ……」
刑事の悲しい目と少年の冷たい目が交差する。
レイミーが疲れきって帰って来るや、入口ですぐ声がかかった。
「レイミー!」
物思いに沈んでいたので我に返ってハッとした。
「な、何よ? 吃驚するじゃない。脅かさないでよ」
それはアイク・サクストンだった。
「そんなに驚くなよ。俺だって残業することもあるさ! それで──ずっとあんたを待っていたんだ。どうしても頼みたいことがあって……」
刹那、レイミーの脳裏をシュンのキュートな微笑みが過ぎった。さっきまでいたレストランで自分が使ったのと同じ言葉……頼みたいことがあって……
「何よ?」
動揺を悟られないようにレイミーは早口に訊いた。顔を上げるとそこに見たことがないくらい真剣なアイクの顔があってレイミーは再度驚いた。
アイクは腰に手を置くと言った。
「連続殺人事件のことだ。ぜひ、聞いて欲しい」
レイミーのオフィスまで二人は廊下を一緒に歩いた。
「この仕事を俺に回してくれた時、あんた最初に教えてくれたよな? HERDの名称と、それから、この作戦の全体像について」
「ええ」
「マークされた怪しい〝候補者〟はケイレヴ・グリーンだけじゃない。あいつはこのところ急にポイントを稼いで、結果、担当の俺たちを嬉しがらせてくれたけど。今まで候補に挙がったけどポシャった奴も含めて……現在、別の地域の警官たちが監視してる全ての〝候補者〟の情報を俺に見せて欲しいんだ」
「私にその権限はないし、君にその権利はないわ」
赤毛の上司はピシリと言った。
「まして君は最早HERDチームのメンバーですらない。忘れたの?」
「だから、こうして非公式に頼んでるんじゃないか」
少々からかうような口調で、
「さっきまで張り付いて離れてくれなかったあの仕事熱心な捜査官、ペイジにも言ったんだけどさ、〝部外者〟だからこそ、〝趣味の領域〟で、逆に奔放で大胆な読みもできるってもんだぜ、レイミー。俺に賭けてみる気はないか?」
レイミーは足を止めた。リノリウム床を擦ってスニーカーがキュッと鳴る。
「急にどうしちゃったのよ、アイク? 血気盛んになっちゃって?」
(まるで、昔のアイクみたい……)
確かに眼前のアイク・サクストンはキラキラしてエネルギッシュだった。弾けるような躍動感。レイミーはこんなアイクに恋をしたのだ。
「何かあったの?」
「そう言われると困るけど……強いて言えば、モリゾの眼差しかな」
照れたようにアイクは笑った。
夕刻、ギャラリーで見たベルト・モリゾの絵。自分の置かれた環境や待遇に不満や不平を言わず、唯真っ直ぐに伸びる視線。その先には光り輝く世界があった……
待望する美しい世界だけを見つめる強くて揺るぎないあの眼差し……
あんな風に自分も生きたいと思った。もう一度、俺にできるだろうか?
この事件をキチンとかたしたら、その時は……
(その調子よ、アイク!)
モリゾについて、絵画に暗いレイミーには何のことか皆目わからなかったが。夜明けの海風に吹かれたような爽快で熱っぽい気分はレイミーにも伝わった。
(君はだんだん治癒している……)
「実はさっきまで色々調べていたんだけど、俺のIDでは限界がある」
アイクは率直に打ち明けた。
「問題が生じたら全責任は俺が取るよ。どうせ一度は大失態を演じてる俺だ。この件であんたに迷惑はかけないと誓うから」
一歩前に足を踏み出す。
「だから、いいだろ? 昔の姉弟のよしみで、俺にこの事件に関する全情報を閲覧させてくれ」
そこまで要求されると流石に赤毛の刑事は逡巡した。
「うーん……こういうの規律違反だわ」
アイクがパッと破顔する。
「あれ? こういう規律違反、今まで一回もしたことがないってのか、レイミー? 警官のくせに?」
「!」
再びギクリと身体を震わせるレイミーだった。〝裏取引〟という言葉にシンクロしてシュンの顔がまた蘇る──
とはいえ、アイクの方に他意はなかった。腕を組み心持ち首を傾げて上司の答えを待っている。
「裏取引か。ええ、私も警官だもの、やったことがある。前に一度……それから、たった今しがた……」
レイミー・ボトムズは伏せていた目を挙げた。
「いいわ、アイク。いらっしゃい。君に私のコードを貸してあげる」
「何やってたんだよ? こんな時間まで?」
その夜遅く、アイクがアパートに帰るとジェイミーはソファに寝転がってTVのリモコンを押し続けていた。
「悪い。早く帰るつもりが──ちょっと色々あってな」
バスルームへ直行してシャワーを使い始める。そんなアイクをリビングからジェイミーが大声で詰った。
「HERDチームから外されたんだろ? 暇になるって言ったじゃないか! それをこんな時間まで俺をほっぽって……警官って、ホント、嘘つきだな!」
(おまえだって嘘つきのくせして……)
ふとアイクは思い出す。
「なあ、ジェイミー?」
「何だよ?」
「おまえ、本当はミッキー……」
しかし、アイクはその言葉を飲み込んだ。何かが──ソレを口にするのをやめさせたのだ。シャワーの栓を捻り水量を最大にしてアイクは自分の声を掻き消した。
「何か言った?」
「いや、いい。何でもない!」
再び大声で叫び返す。
「そうだ、改めて言っておくぞ! くれぐれも……〈サイドカー〉近辺には近づくなよ! おい、聞いてるのか!」
「聞いてるよ」
吃驚するくらい近くでジェイミーの声がした。振り向くまでもない。背中にぴったりと裸の体をくっつけて抱きついていた。いつの間に?
それで、叫ぶ必要がなくなったアイクは優しい声で言った。
「いいか、しばらくは絶対、あの界隈からは遠ざかっていろよ。あのお優しいグリーンがおまえを恋しがってかなり危ない状態だった」
「へえ? ホント?」
「ほんとだとも。その証拠に……自分の好みのタイプ無視して……男をバックシートに連れ込んでたよ……」
アイクとしてはイケテる冗談のつもりだったのだが。ジェイミーの反応はイマイチだった。ジェイミーが反応したのはもっと別のもの。例えばキス……或いは……Etc……