#19
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ハリウットの西、メルローズAve.からロバートソンBlvdの一体はアート&デザイン地区と呼ばれ、ギャラリーが多いことで知られている。
そこに、定時に署を出たアイク・サクストンの姿があった。
今朝、正式にHERDチームからの離脱を申し渡されたアイクだったが、前にジェイミーに言った通り、解放されてむしろ心は軽やかだった。それで──
今日はジェイミー(と自分)に〝贈り物〟をしようと思い立ったのだ。
絵画を買おうなんて思ったのはいつ以来だろう? 絵一枚で部屋全体が変わるのをアイクは知っている。まずは寝室に飾る絵が欲しかった。それから、追々全ての部屋に新しい絵を飾ろう。新しい世界を生きるために。
勿論、購入できるのは無名に近い新人の作品か、複製画、版画だが。
(版画なら、以前ジェイミーが口にした〈ミコノス島〉も候補だな。〈灯台〉はサイズ的に無理がある……)
絵自体を見て歩くのも楽しかった。
何軒目かのギャラリーでアイクは一枚の絵の前で足を止めた。
「ベルト・モリゾ……」
それは室内から海を眺めている絵だった。
「いいかもな」
自分も絵の中の人たちと並んでいる気分になる。これなら寝室の向こうにすぐ海があるように思えるだろう。暗い室内と眩しい戸外の光のコントラストが絶妙だ。
この画家が室内から眺める風景画の多い理由をアイクは知っていた。
モリゾが女性だったためだ。まだ女流画家への偏見が根強かった時代、彼女は外で満足にスケッチができなかった……
でも、だからこそ、暗い室内から望む外の風景がこんなにも輝いているのだ。
しかも、何がいいって、モリゾの絵には不平や不満が一切ない。雑音のない不思議なほど満ち足りた静寂の中、視線は真っ直ぐに伸びて行く。
きっと、自分の置かれた環境や世間への恨みなどより、美しい外の世界への憧憬のほうが遥かに強かったからだろうな?
「海が好きなんだな?」
ギョッとして思考が停止した。
「おたく、今まで足を止めた絵、全て海の絵ばかりじゃないか!」
真横に立って、そう声をかけてきたのは、ケイレヴ・グリーンだった。
「──」
不覚だった。そんなに長いこと付けられていたのを気づかないとは。つまり、そのくらい俺は絵に夢中になっていたってことか……!
「何、海の絵を探しているのか?」
親しげにグリーンは言う。ちょうどギャラリー内にいた二、三人の客にはばったり鉢合わせした友人に見えるだろう。刹那、絶望的な気持ちでアイクは思った。
(やっぱり、こいつ、俺の顔をしっかり憶えてたんだ……)
だが、すぐ希望も湧いた。
(とはいえ、俺が警官だってことまでは知らないはずだ。)
「俺の推薦はアレだな、オーギャンの〈グランド=コートの夏の日〉。でなきゃ、ルドンの〈モルガの海〉とか」
なるほど! ジェイミーの言った通りだ、コンサバティヴ……
「寝室用なんです。明るいのが欲しい。このモリゾか……マルケの〈ル・ピラ〉はどうかな、なんて思ってたところです」
「マルケ? あんな下手糞のどこがいいんだか! 俺にはわからんね」
それから更に一歩躙り寄ると声を潜めた。
「おっと、騒ぐなよ。わかるよな? ちょっとそこまで付き合って欲しいんだ」
ポケットに入れたままのナイフの刃先をアイクの脇腹に寄せた。
(何てこった、俺はもう部外者だぜ? チームを外された途端にこれか? 大体──今、誰がコイツに張り付いているんだよ?)
「おい、キョロキョロするなよ? こっちだ」
グリーンはアイクに体を寄せたまま狭い路地に入った。その果て、車が止めてあった。
見覚えのあるトランザム。常にグリーンが使っている愛車だ。顎で後部座席を示し、アイクが乗ると自分もそのまま横に乗ってきた。
「荒っぽいな。いつも? こんなハントの仕方するのか?」
努めて明るくアイクは言った。
「でも、それにしちゃあ……俺はトウが立ち過ぎてると思うけど? あんたの好みはもっと年下だと思ったぜ」
「お互いにな?」
グリーンはニヤリとした。
「おまえ、あのBARにいたよな? おっと、自己紹介が先か。俺はケイレヴ・グリーン」
知ってるさ。つい最近まで専属だったから、とは言えず、まして、意図もわからない。躊躇したが取り敢えずアイクは本名を名乗った。
「……アイク・サクストンだ」
「荒っぽい真似をしたのは謝るよ、アイク」
「いえ、どういたしまして」
「俺の性分なんだ。その上、俺は今、かなり追い込まれている」
「!」
アイクがその理由を問う前にグリーンは言った。
「俺の恋人が姿を消しちまったからさ」
確かめるようにアイクの顔を覗き込む。
「ジェイミー・クルスって可愛子ちゃんだ。知ってるだろ?」
「いや」
「前にBARで兄さんに色目使ったじゃないか。その際、俺も一緒にいたんだが」
「悪いけど、憶えていないな。俺、モテるんで、声かけてくる子の顔一々憶えてたらきりがない──」
容赦なくグリーンは首を絞めにかかった。
「タメ口を聞くと後悔するぜ、アイク? これは真面目な話なんだ」
「ああ、OK、わかった……」
アイクが両手を挙げて降参の意を示すと、グリーンはすぐに手を離した。
「あいつのことを思うと、俺はいてもたってもいられない。心配で」
「心配?」
ちょっとニュアンスが違う。
「そうさ。ジェイミーの奴、ここ数日というものまるっきり姿が見えない。餌食になったんじゃないかと思うと、俺は心配で夜も満足に眠れないんだ」
思わずアイクは聞き返した。
「餌食って? 何の?」
グリーンは呆れた顔をした。
「おまえ、顔はいいけど脳みその方は空っぽなんだな、アイク? わからないのか? 〈白鳥の王子〉だよ」
できるだけ慎重にアイクは問う。
「あの、連続殺人事件が、何か?」
「やれやれ! じゃ、おまえはこれっぽっちも気づいてないのか? 可愛子ちゃんばかり漁ってないで少しは世間で起こってることにも目を向けなきゃダメだぜ」
短く刈り込んだ栗色の髪を掻き毟ってケイレヴ・グリーンは言うのだ。
「現にこの1ヶ月ばかりの間に二人も殺られちまった。しかも、その二人ともジェイミーのダチなんだぜ。ってことは誰があのクソッタレな殺人鬼にせよ──そいつはジェイミーのことも知ってるってことになるじゃないか!」
激しく頭を振ると、
「あああ! ジェイミーも目をつけられているんだ! あいつの仲間がこうも確実に殺られ続けているんだから! あいつが殺られるのも時間の問題なんだ!」
暫くアイクは口が聞けなかった。
「……初耳だな」
頭を抱えて嘆き続ける屈強な男に顔を向けると、言葉を選びながら訊いた。
「実は……俺は越して来たばかりで……さほどあの界隈の常連ってわけじゃないから知らなかった。本当か、グリーンさん? 最近新聞を派手に賑わしている、切り裂かれた犠牲者たち──」
引き取ってグリーンが名を言ってくれた。
「ロドニー・ハワーズとミッキー・エヴァンスだ」
「そう、その子たちは二人ともジェイミーと親しかったのか?」
ロドニーはともかく、ミッキーの件は初めて聞く。あいつはそんなこと一言も言ってなかった……
「ああ。〈美しい供養羊クラブ〉の仲間だもの」
「美しい……何だって?」
「尤も、この名は俺たち需要者側が影で勝手にそう呼んでるんだけどな。文学的な響きで素敵だろ? 要するに、アレだ。あのBARに出入りして商売してる男の子たちの群れの総称さ」
そこまで言ってグリーンは心底落胆したというように息を吐いた。
「何だ、そんなことも知らないようじゃ、俺の見込み違いだったようだな? 俺はてっきりおまえならジェイミーの居場所を知ってるんじゃないかと淡い望みを抱いたんだが。あの後、ジェイミーに言い寄られて……懇ろになったわけじゃないんだな? そうか」
グリーンは反対側のドアを指差した。
「じゃ、降りていいぜ。少しはマシな情報を聞けると期待して損した」
しかし、アイクは降りずに、逆にグリーンの腕を掴んだ。
「何だよ? 俺に惚れたのか? このまま何処かへ連れて行って欲しい?」
「そうじゃないって。お願いだ、グリーンさん。俺に、今言ったクラブ……供養羊何とかのメンバーの男の子たちの名をぜひ教えてくれ!」
グリーンはまじまじとアイクの顔を見た。
「好きだな、おまえも」
とはいえ、グリーンはアドレス帳を出してアイクにメンバーのそれを書き写させてくれた。
リストを自分の手帳に写し終えるとアイクは礼を言って車を降りた。
アイクがドアを閉めてもグリーンは後部座席に座ったまま項垂れていた。
「それにしてもジェイミーは一体どこに行ったんだ? 今頃どうしているんだろう? クソッ、俺がこんなに心配してるってのに。生きてるんなら電話の一本もかけてくれてもバチは当たらないぜ?」
いったん行きかけたアイクだが、引き返して後部座席の窓を覗き込んだ。
「慰めにはならないかも知れないけど……大丈夫だよ、ケイレヴ。きっとジェイミーは今頃、安全な場所で幸せに暮らしてるさ」
「……」
今度こそ、アイクは歩き出した。
メルローズAve.の広い通りに戻ると、行きつ戻りつしている見覚えのある顔を発見した。名はなんと言ったっけ? そう、ミーチャム刑事。
「どうかしましたか、ミーチャム刑事?」
「あ、サクストン……」
若い刑事は雀斑の散った顔を染めた。
「グリーンを自宅からずっと貼ってたんだけど……つい、見失ってしまって……きっとこっちへ来たはずなんだ」
「ああ、それなら」
アイクは細い路地の1本を指差した。
「恩にに切るよ!」
自分の車に戻りながらふいに振り返る。
「なんで知ってるんだ?」
「偶然出会ったんです」
自分と入れ替わりに加わった新HERDの刑事──応援要員として更に四名の警官も補充されたそうだ──を見送ってからアイクも自分の車を止めてある駐車場へ走り出した。
絵はまたの機会にしよう。その前にやるべきことがある。
もう一度署へ戻るつもりだ。