#2
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見慣れない天井。
目を開けた後、暫くまじまじと見入っていた。
自分はソファに寝かされている。狭いリビングだ。ソファの足先に窓が見えた。
反対側の片隅にTV。それから、年代物のビューローがあって、雑然とファイルや雑誌が積んである。 その背後の壁には色々、写真や切り抜きやメモ、葉書等、宛らコラージュの如く貼り付けってあった。
「気がついたか?」
キッチンと思しき向こうのドアの前に佇む青年。思い出した──
「あんたが助けてくれたのか?……手当まで?」
頬や額にバンドエイド。腕には包帯が巻かれている。
「応急処置だぜ。きちんと病院へ行ったほうがいいかもな。骨は折れちゃいないみたいだが」
「あんたが……ここまで運んでくれたのか? 俺、完全にノビてた?」
「ああ。正直言って、かなり手こずったぜ。タクシーの運ちゃんにたっぷり嫌味言われた」
「だろーな?」
キッチンのテーブルに座った少年にアイクはコーヒーを入れてやった。
「だが、どうしろってんだ? あんなとこに放っとくわけにもいかないだろ?」
「優しいんだな?」
それについては否定も肯定もしなかった。
「……俺、ジェイミー・クルスって言うんだ」
「アイク・サクストンさ」
ジェイミーは片手を差し出し、アイクはそれを受けた。
ちょうどその時、キッチンの奥の部屋からくぐもった声がした。
「アイク……アイク……?」
アイクは立ち上がるとドアの向こうに消えた。
「何処なの、アイク? 帰って来たの?」
「ああ」
「アイク」
「よせよ、サラ、今は、ちょっと──」
アイクはすぐ戻って来た。
アイクがキッチンへ入った時、ジェイミーの方は居間のビューローの前に立っていた。
アイクを振り返って、
「邪魔したみたいだな? 思った以上に迷惑かけたみたいだ。俺、あんたが既婚者だとは知らなかった。ゴメン」
「サラは女房なんかじゃないよ」
「俺、帰るよ」
「大丈夫か?」
反射的にジェイミーは反応した。ギョッとした顔で振り向くと、
「何が? 何を?」
「え?」
「『大丈夫か』って、俺の何を心配してくれてるの? 怪我のこと? それとも精神状態? 一人で寂しいかって意味?」
「バカ、ちゃんと帰れるのかってことだよ」
苦笑しながらアイクは言い直した。
「俺の住居──ここが何処か、今、自分が何処にいるか、おまえ、わかってるのか?」
「そう」
目を閉じると少年は繰り返した。
「俺が、今、何処にいるかわかってるかって? OK、そんなこと昔っからわかってるよ」
「?」
「俺はさ、もうずっと……地獄にいるんだ」
今度ギョッとしたのはアイクだった。思わず目を瞠って少年を見返す。
「……なーんてね!」
ジェイミーはウィンクするとアイクの頬に軽く手を寄せた。嬲るように? 愛撫するように?
多分、その両方。
「あんたこそ、アイクさん、わかってる?」
「え?」
「自分が何処にいるか?」
彼Ⅱ──今やはっきりと名乗ったジェイミー・クルス──は凍りついたように佇むアイクをその場に残して去って行った。
「アイク、面会人よ!」
アイクは吃驚して顔を上げた。
署内。机に覆い被さって書類の山を捌いている真っ最中のこと。
警官になって以来、勤務中に名指しの面会人など初めてだった。それで驚いたのだが、訪ねて来た人物を見て、もっと驚いた。
一階入口付近、警察署特有の苔色のリノリウムの床の上で待っていたのは、なんと、あの、昨日の彼Ⅱ、ジェイミー・クルスだった。
「何、フリーズしてんだよ?」
「ジェイミー? ……何故、ここがわかった?」
目の前で薄く笑う少年を見て思い出した。昨日、居間の机の前に立っていたその姿を。
短い時間だったとはいえ、少年にはアイクの素性を知るにはアレで充分だったのだ。
「やりやがったな!」
「おっと、何も盗んじゃいないぜ?」
「〝情報〟以外は、か? クソッ」
「怒んなよ」
甘い声とちょっと傾げた首の線。上目遣いで宥めるように囁くジェイミー。
「今後、あんたと連絡を取る場所が知りたかっただけさ。だって、ほら、自宅に俺なんかが出入りしちやマズイだろ? 何と言ったっけ、あんたの恋人──」
「サラは恋人じゃない」
「へえ? とにかく──」
「とにかく、来いっ!」
アイクはジェイミーの腕を掴むと外へ飛び出した。
警察署近くのカフェテリア。
ジェイミーはチラチラとアイクを見てニヤついている。
「だけど、ほんと、意外だったな! 吃驚したのは俺の方だよ。あんたの勤務先が、まさか警察だとはなあ……」
「らしくないってんだろ? よく言われるよ」
「そーでもない。あんたの制服姿ってスッゴイ魅力的! セクシーで似合ってるぜ。見てるだけでイキそうだ」
「────」
「わかった。睨むなよ。本題に入ろう。あんたがさ、あのBARにいたのは〈お仕事〉だったんだね? 麻薬関係? それとも、売春関係?」
アイクが何も言わないのでジェイミーは更に続けた。
「誤解しちゃったぜ! てっきり俺、あんたが俺に気があるのかと思ったんだ。だって、ずっと俺のこと見てたから」
「……俺が見てたこと、気づいてたのか?」
やっぱりな。アイクは低く呻いてから、
「遣り手だな? そんな素振りちっとも見せなかったくせして」
「俺は慣れてるもん。舐め回すように他人から見られるのに」
「だろうな」
露骨にため息を吐くアイクを少年は無視した。
「でもさ、本命は俺じゃなかったわけだ。ってことは──グリーンか?」
アイクはまた喋らなくなった。黙ってコーヒーを飲んでいるだけ。上げ下げされるコーヒーカップの鈴に似た幽かな音だけが響いた。
「当たりだろ? 奴は何をやらかしたのさ? ヤバイのか?」
「そりゃこっちが聞きたいね。おまえが教えてくれりゃこんな簡単なことはない」
「ふーん……じゃ、何を知りたいのさ?」
「長いのか?」
「!」
どうせまただんまりを決め込むものと思っていたのでアイクのこの質問はジェイミーには予想外だった。虚をつかれた格好で口篭ってしまう。
「野郎と付き合って長いのか、と聞いたんだよ」
「あ? ああ、残念ながら……つい最近知り合ったばっか」
ジェイミーは紅潮して目を逸らせた。先刻の返答の遅れを恥じたのか、それとも……
「だ、だから、奴が警察に目をつけられるほどヤバイ男なら、俺もこれ以上深入りしたくない」
「正解だな」
アイクの声の調子が変わったのに気づいてジェイミーは顔を上げた。
真っ直ぐに自分を見つめている警官の目と目が合う。その真摯な眼差し。コノ男ハコンナ男ダッタッケ?BARニ座ッテイタ時、コイツハモット……
「グリーンとは切れたほうが賢明だぜ。奴は〈白鳥の王子〉連続殺人事件の真犯人」
「え?」
少年の瞳が煌めいた。
「──と目星をつけられた候補者の内の一人」
「〈白鳥の王子〉って……ワーオ! 見かけによらずあんた大物なんだな! じゃ、あんたがソレ担当してるのか? あんな大事件を?」
「答えは順にNO/YES/YESだ」
アイクは即答した。
「大事件だってのはYES、担当してるのもYES。でも、俺が大物だってのは大間違い」
全く、俺ときたらまたぞろミスをやりまくってる。あれほどヘマをするなと──いや、待てよ、ヘマをしろと言ったんだっけ、レイミーは?
とにかく、こんなガキにあっけなく警官だという正体を暴かれ、挙句にその部外者の一般人にベラベラと捜査内容や情報を垂れ流している。
このことがレイミーの耳に入ったら今度こそ俺は解職だ。
そろそろ他の仕事口を真剣に考える頃合かもな。俺一人ならどうにでもなるが、畜生、俺には養わなけりゃならない女がいる……
「聞いてるのか、アイク? 返事をしろよ!」
「え? 何?」
アイクは我に返った。
「だからさ、俺が折角申し出てるんだぜ、協力してもいいって」
「協力? 何を? 何のことだ?」
「ケイレヴ・グリーンを俺が探ってやるぜ!」
口を開けたままアイクは暫く言葉が出て来なかった。
かなり経ってから、漸く言えたのが、
「何、馬鹿言ってるんだ、おまえは?」
「あんたこそ、何をそう驚いてんだよ? こういうのよくあることだろ? TVドラマや映画で俺、見たぜ。〈囮調査〉とか言うんだよな。幸いあいつは俺に熱上げてるしさ、この役、俺にうってつけじゃん」
「……だめだ」
「何故?」
「そう上手くいくはずないし、何より危険過ぎる」
ジェイミーが露骨に笑ったのを見て、
「何が可笑しい?」
「あれ? 人生なんて常に危険なものなんじゃないのか?」
瞬間、アイクは思い出した。『俺はずっと地獄にいる』と言った昨日のジェイミーの姿を。
アパートの居間の、くすんだ壁を背景に包帯を巻いた腕を腰に当てて立っていた少年……
そう言えば、今日は大きめのモッズコートを着ているせいで包帯も細い腰も見えなかった。
「それはおまえ自身の生き方の問題だろ?大概の人間にとって人生は平穏無事で安全なものなんだ」
「チェッ、カッコつけんなよ」
少年は肩を竦めた。
「要するに俺が知っているか、知らないかの違いのくせして」
「なんだと?」
「OK、俺が気づかなけりゃ良かったわけだ。だって、そうだろ? あんたは俺を張ってた。グリーンの情夫だと知ってて。で? グリーンが俺をブッ殺すのを待ってたわけだ。そしたらその時、腰を上げて堂々とあいつを現行犯逮捕できるもんな?」
少年の緑色の瞳がまた輝く。
「ケイレヴ・グリーンが本当に例の連続事件の殺人鬼なら、次の犠牲者は俺だとあんた踏んでたんだ。……なあ? 俺が奴に斬り刻まれるとこ、見たかった?」
「────」
口を真一文字に引き結んで一言も発しないアイクに、更に畳み掛ける。
「それとも、あんた自身がこの件では囮なのか? 張ってるのはあんたじゃなくて、あんたの後ろに何ダースもの有能な──それこそ〝らしい〟警官が眼を光らせている?
あんた、さっき言ったよね? 『自分はさほど大物ってわけじゃない』。そんな大物でもない平のポリ公が連続殺人事件みたいな大事件に抜擢されたのは、やはり、あんたのその──容貌のせい?」
唇を舐めながら、
「ほんと、〈白鳥の王子〉役にピッタリだ。警官にしとくの勿体無いよな? よく声掛けられるだろ?
白状するとさ、俺、最初、あんたのこと〈お仲間〉かと思ったんだ。あんな店にいても全然違和感なかったぜ」
「いい加減にしろよ」
アイクの声は低くくぐもって響いた。ジェイミーも戦慄したように見える。
アイクは席を立つと勘定を払って出て行った。
「アイク……!」
店を飛び出して追って来たジェイミーは物凄く可愛らしかった。路を歩いていた人たちが嫌でも目をやってしまうほど。
しかし、アイクは振り返りもしなかった。
それで、アイクがたった今、少年を振ったみたいに見えた。
「……アイク……」
少年の顔を過ぎる悲しみの翳がそのストーリーに一層リアリティを添えている。