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最初のデートはハマー美術館。どちらの自宅からも近かったから。でも、理由はそれだけではなかった。
有名なモネの絵の前でシュンは、自分はモネが好きだと言った。小学生の時、フランスのモネの生家を訪れたことがある。自分がせがんだのだ、と得意げに言う。
「ジヴェルニーってとこ。パリから離れた凄い田舎でさ。姉貴なんかブーブー文句言いっ放し。でも、僕は気に入った。あんなとこに住みたいや」
実は──
アイクは絵が好きだった。休日は美術館巡りをするのが趣味なのだ。だが、このことは誰にも話していない。スノッブで警官らしくない気がして。
自分の秘密を明かす最初の人が恋に墜ちた相手だというのは最高に幸福なことだとアイクは思った。
「絵画好きの警官なんて……スッゴク素敵じゃないか!」
アイクの告白を聞いてシュンは感嘆した。黒曜石の瞳が燐く。
「画家は誰が好み? 正直に言ってみて」
「……例えばベックリン」
「あ、そりゃ、ソートー病んでるな!」
言葉とは裏腹に少年の笑顔は屈託がない。
「〈死の島〉だろ? 誰か殺したい人がいるな? あの絵の中の小舟の柩に誰を入れたいのさ?」
「そういうおまえは……誰が好みなんだ?」
「うーん……やっぱ、僕はホックニー。但し──」
その先はアイクが引き取った。
「──プールのシリーズ限定!」
目配せし合って笑いさざめく二人。
D・ホックニーは素晴らしいプールサイドの絵を描いている。乱反射する水と光、そして裸の少年……
趣味が合う──容貌だけでなく魂まで──ということは、これはもう、運命の出会い、神様の贈り物ではないかとアイクは思った。
こうして、二人がウエストウッド界隈でデートを重ねる幸福なカップルの一組となるのにさほど時間はかからなかった。
アイクの休日前夜。その日は少し遠出してサンタモニカ。
サード・ストリート・プロムナードから2ブロックにある秘密の隠れ家(的なホテル)、エンバシー。
凄く高級だけれどアイクは奮発したのだ。古風な造りのそこはアパートメントだが、1泊から滞在可。全室キッチン付き。
「なあ? ずっと思ってたんだけど……」
傍らの少年にアイクは囁いた。
「シュンって、あんまり聞かない名だよな?」
「本当はシュンイチ・ホルト。パパがドイツ系、ママが日系さ。最強のコンビだって祖父ちゃんは言ってるぜ。『ヤンキーどもを散々手こずらせてやった!』……」
「アハハハ……」
シュンは寝返りを打って俯せになるとアイクの手を自分の胸に引き寄せた。掌を優しくなぞる。
「シュンって漢字はこう書くんだ──〈瞬〉。ほら、こっちが目を表す形で、文字全体の意味はスパークってこと。イチは〈一〉で、ナンバーワンって意味さ」
「……嵌ってるよ」
ベッドの中でアイクは漢字を綴る少年の指ではなく顔だけを見つめていた。
伏せた睫毛、けぶるような黒い瞳から目が離せない。
「おまえ……その名の通りだ……」
幸福な恋人たちのその誰もが信じている通りに、アイク・サクストンも二人の関係が永遠に続くものと信じて疑わなかった。
だが、思いもかけない形で破綻の日はやって来た。
その日。
パトロール中の車内で無線機を取ったアイクにオペレータが告げた。
「アイクなの? 今ご家族から電話があって至急連絡が欲しいって。何かあったみたいよ、大丈夫?」
「家族? ああ、またおふくろか。わかった、ありがとう」
「いえ、今日は弟さんだったわよ」
「──……」
ハンドルを握っていた方の同僚が気を利かしてくれた。ちょうど一服したかったところだから、おまえは電話をかけてこいよ。俺はドーナツでも食ってるさ。
それで、アイクはドーナツ店に置いてある公衆電話から電話した。母ではなくシュンに。
「どうした、シュン? 勤務中に電話するなって言ってるだろ? 仕事終わったらこっちからかけるよ。それまでいい子で──」
「アイク……どうしていいかわからないよ……僕……」
受話器の向こうから聞こえるシュンの声はくぐもっていて平生のそれではなかった。
「すぐ来てよ、アイク……お願いだから……」
「何かあったのか?」
「電話じゃ言えない……」
明らかに様子が変だった。
「今、ウィルロジャース・メモリアルパークにいるんだ。サンセットBlvdとビバリーDrが交差する入口近くだよ。早く……早く来て、アイク、お願い……でないと僕……死んじまう」
「──」
『死んでしまう』はシュンの口癖の一つだった。アイクは何回もそれを聞いている。でも、何度聞こうとたまらない気持ちになる。どうせ、いつもと同じように些細な、他愛ない事に決まっている。そうは思ったが──結局アイクはシュンの指定した場所に駆けつけた。
この行動自体、後から考えると不運な偶然が幾つも重なった結果だった。
まず、一緒に組んでいた同僚の人柄が良すぎた。
のんびりとチョコレートドーナツを齧っている姿を窓越しに見てアイクは確信した。あの調子なら10分くらい平気だろう。そうして、これが二つ目の不運となるのだが、シュンのいる公園はまさにその10分で行って帰れる距離にあった。もっと離れていたらアイクは断念したはずだ。
じかに顔を見て、ちょっと言葉を交わすだけでもシュンは落ち着くだろう。
アイクは同僚をドーナツ店のカウンターに残してパトカーを急発進させた。
公園の遊歩道の手前にパトカーを止めると、ずっと待っていたらしく夾竹桃の茂みからシュンは飛び出して来た。一直線にアイクの制服の胸に飛び込む。
「どうした? 一体何があった?」
「パパにばれちまった……詰め寄られて、それで、全て打ち明けたんだ。男と付き合ってるって。本気で愛してるって。あんたのことだよ」
「!」
「そしたら、野郎、ド頭来て──」
「落ち着けよ、シュン?」
「俺を遠い処へやるって言うんだ。牢獄みたいな寄宿舎にブチこんでやるって。こんなのあるかよ?」
シュンは溺れているようにもがいてアイクにしがみつく。
「俺、あんたと離れたくないよ! 勿論、あんたもだろ?」
「シュン……」
「アイク?」
「勿論──」
シュンは強引にキスしてきた。ここではヤバイと知りつつ、しかし、抵抗できなかった。少年の激しい行為にのめり込んで、引き摺られて、我を忘れた。
その刹那、背後で何か、影が動いたのを感じた。気配として微かに。
だが、振り返ってその影の正体を確かめる余裕はなかった。次の瞬間、頭部に鋭い衝撃が走ってアイクは意識を失った──
公園の叢の中で意識を取り戻した時、全ては遅かった。
とうに血が乾いたズキズキ痛む頭を、必死の思いで持ち上げて周囲を見回した、その瞬間に、アイク・サクストンは了解した。
シュンの姿がない。ホルダー内の銃が抜き取られている。
「……やられた……畜生……!」