サギとカラス
〈警視庁 捜査一課特別広域捜査班 鷺坂英二〉
鷺坂は、久しぶりの休暇で実家に戻った。
実家といっても都内にあるので、普段の生活とそう変わらない。ただ、兄の秀一が結婚することになり、「結納には出なさい」と母にきつく言われたためだった。
鷺坂の兄は、東京地検特捜部に勤める、いわゆるエリートだ。T大を卒業し、法の世界で生きることを決めていた。そのため、兄は小さい頃から努力を惜しまない人だった。
そんな兄の姿を見て育った英二にとって、兄はどこか近寄りがたい存在だった。都内にいながら英二が一人暮らしをしているのは、刑事という時間の不規則な仕事のせいもあるが、できるだけ早く兄から離れたかったというのもある。
その兄が結婚する。
兄のことだから、きっと相手の女性も完璧なのだろう。そう考えるだけで、ついつい窮屈な気持ちになった。
しかも今日は、普段着慣れないブランドもののスーツにネクタイまで締めている。本当に嫌でたまらない。
結納の時間までは、まだ少しある。
英二は久しぶりに自分の部屋へ入り、引き出しから一枚の写真を取り出した。
今はスマホで写真を撮ることが多くなり、昔の写真を見ることも少なくなった。
「懐かしいなぁ……」
高校時代の写真だった。
そこには、何人かの友人と一緒に笑う、幼なじみの姿があった。
英二はしばらく、その写真をじっと見つめていた。
――その頃。
「おい! 鷺坂は?」
捜査一課の山田が、鷺坂のデスクにやってきた。
横にいた清水が、
「今日は非番ですよ」と答える。
「そうか……。出直すか。この間送検した被疑者の証拠書類がわかりにくいって、地検のカラスがカーカーうるさくてな。鷺坂に書いてもらおうと思ったんだ。あいつ、報告書だけはうまいからな」
「まあ、サギとカラスですからね」清水が笑った。
「明日出勤したら、教えてくれ。頼みごとだからな。また来る」
そう言って、山田は去っていった。
〈東京地方検察庁 検察官 烏丸直樹〉
「烏丸さん、今日はやけにオシャレだよ」
事務官の小川が、同僚にこっそり話しかけた。
たしかに烏丸は、いつも身ぎれいにしている。しかし、今日は特別だった。
いつも閉ざされた屋内で仕事をしているせいか、少しでも普段と違う様子があると、周囲はすぐに気になってしまう。
午後六時になると、烏丸は珍しく、
「お疲れ様。お先に失礼」と、そそくさと帰っていった。
その姿を、小川は唖然とした表情で見送った。
烏丸はそのまま、Oホテルの「鳳凰の間」へ向かった。
受付でネームプレートを受け取ると、会場へ入る。
そこには、美しく着飾った女性や、スーツで決めた男性たちが集まり、賑やかな雰囲気に包まれていた。
今日は、東京都の若手議員が主催する「婚活イベント」の日だった。
もちろん、烏丸自身が結婚したくて来たわけではない。
友人の山下幸弘に、
「絶対に来るように!」と、強引に誘われたからだ。
どうも今回の婚活イベントは、都議の山下幸弘が、たまたま音頭を取ることになったらしい。
きっかけは、東京都が主催する婚活パーティーについて、幸弘がXで、
「マンネリ化していて面白くない!」
とも受け取れるコメントを、何気なくつぶやいたことだった。
ところが、それをたまたま見た都知事が、
「どういうことですか?」
と職員に問いただした。
世間も「確かに」と同意し、あっという間に話が広がった。
そして、都議の中でも都知事への忖度や、山下議員へのクレームもあり、それをまた幸弘がXでつぶやいてしまった。
それを見たフォロワーから、
「山下議員のせいじゃない!」
という同情の声が上がり、いつの間にか、
「だったら、自分たちで新しい婚活パーティーをやろう」
という話になってしまった。
そして、なぜか山下幸弘が、そのリーダーになってしまったのである。
さすがに山下も焦りを感じたらしく、お坊ちゃま議員のコネクションを最大限に活用し、それはそれはハイスペックな男女を集めたのだった。
烏丸は会場を見渡し、小さくため息をついた。
「……俺、なんでここにいるんだ?」
と、つぶやいた。
「烏丸、ありがとう。来てくれて、本当に助かったよ」
例の人たらしの笑顔で、山下が近づいてきた。
「今から乾杯の挨拶をするけど、挨拶はこんな感じでいいかな?」
そう言って、スーツの内ポケットから一枚の紙を取り出した。
そこには、明らかにAIが書いたと思われる、名文が書かれていた。
「お前、これ読むの?」
「そうだよ。いい文章だろ? AIに書いてもらったのさ」
山下は自慢げに見せた。
「名文だけど、お前のいいところが出ていないな」
烏丸は、ばっさり切り捨てた。
「なんだよ~。久しぶりに会ったのに、相変わらずきついな」
山下は苦笑した。
そこへ秘書の佐久間が呼びに来た。
「じゃあ、またあとで」
山下はそう言って、乾杯の挨拶へ向かった。
烏丸は会場を一回りした。
どこか高級感の漂う会場だった。
「この感じだと、あの名文のほうが相応しいかな……。ちょっと余計なことを言ってしまったか」
烏丸は、少し後悔した。
しかし、その名文のおかげで、乾杯は見事に決まり、パーティーが始まった。
そもそも出身大学つながりで参加している人が多いため、いつの間にか大学ごとに自然とグループができ、大規模な同窓会のような雰囲気になっていた。
なかには、いつも通りに申し込んできた参加者もいて、少し蚊帳の外になっているような感じもある。
それでも、明らかにいつもの婚活パーティーとは参加者の雰囲気が違う。
その違いを、会場にいる人たちも肌で感じ取っていた。
紳士淑女たちは、それぞれ気合いを入れて会場内を歩き回っている。
烏丸は仕事柄、ついつい人を観察してしまう癖がある。
今回も会場内を歩きながら、無意識に周囲を観察していた。
すると、
「こんにちは!」
と声をかけてきた女性がいた。
烏丸は驚き、
「あっ、こんにちは」
と慌てて返した。
「私、こういうパーティーが好きで、いろいろなところに行くんですが、この会場はいつもと参加されている方のレベルが違う感じがして、少し気後れしています」
女性は、にこやかに笑った。
「同感です。僕はあまりこういうところには来ないのですが、友人に誘われて来たんです」
「よかったら、少し座ってお話しませんか?」
女性から誘われた。
さすが、パーティー慣れしているだけあるなと思いながら、烏丸は誘われるまま、空いている席に座った。
「私、菊池陽子といいます」
女性は名刺を差し出した。
そこには、
「サーナルリゾート開発」
と書かれていた。
しかも、肩書きには「営業部長」とある。
「へえ、すごい。営業部長なんですね」
烏丸は感心した。
「営業部長といっても、部下は数人で……」
陽子は謙遜した。
「僕は公務員で、仕事は少し堅い職業ですが……」
「まあ、公務員は堅くないと、当然です! どんなお仕事ですか?」
「東京地検で検察官をしています」
「すごい! エリートじゃないですか。今日は本当に当たりのパーティーだわ」
陽子は嬉しそうに笑った。
もう少し話をしたい雰囲気だったが、お決まりのビンゴゲームが始まってしまった。
陽子はメッセージカードに自分の携帯番号を書き、
「電話番号、交換しませんか? 日を改めて、お茶でも」
と、ほほ笑んだ。
烏丸も、陽子の積極的なアプローチに驚きながら、まんざらでもない様子で名刺を渡した。
「僕の携帯番号は、ここに書いてあります」
陽子は婚活パーティー仲間と思われる友人たちと連れ立って、ステージ前へ向かった。
「烏丸、飲んでるか?」
久しぶりに会った仲間が声をかけてきた。
「お前、地検にいるんだろ? エリートまっしぐらだな」
「そうだよ。なかなか飲み会とか来ないから、今度みんなで集まるときは来いよ」
「山下も都議になって忙しいみたいで、なかなか会えないからさ」
「ところで鷺坂は元気か? あいつもマイペースで、しかも刑事だろ。本当にお前らとは縁遠くなってしまったな」
大学時代の仲間と話していると、忘れていた記憶が次々と蘇り、話が弾んだ。
そこへ山下が割り込んできた。
「おい、今日は婚活パーティーなんだから、こんなところで男だけで固まってないで、会場内を巡回しろよ。あとでXで『つまらなかった』なんてつぶやかれたら、政治家生命終わりだ」
山下は愚痴をこぼした。
「了解!」
烏丸たちは再会の約束をすると、それぞれパーティーを盛り上げるため、会場へ戻っていった。
◆第一章 身元不明の男
休暇明けの鷺坂は、朝から忙しかった。
遅い昼食を取っていると、突然呼び出された。
「井の頭公園近くの道路で、男性が倒れているとの通報です。至急、捜査員は現場へ」
その知らせに、鷺坂はムッとした。
「清水に任せる!」
そう言って弁当を食べようとしたが、
「子どもじゃないんですから」
清水に言われ、仕方なく出動することになった。
現場へ向かう車の中では、運転する清水に向かって、延々と労働者の権利について語り続けた。
そして最後は、
「働き方改革はどうなっている!」
清水は、ただ呆れるしかなかった。
現場に着くと、鷺坂は野次馬の整理を手伝いながら、周辺が荒らされないよう警戒し、鑑識の到着を待った。
その間も、倒れている男と周囲の状況を注意深く観察していた。
やがて鑑識が到着すると、第一発見者から当時の状況を聞き、周辺の目撃情報も集めた。それほど人通りの少ない道路ではない。しかし、意外なことに目撃者は少なかった。集まった野次馬から話を聞いても、手掛かりになりそうな情報は得られなかった。
鷺坂は手持ち無沙汰になり、鑑識の宮坂のそばへ行った。
「宮坂さん、初見はどうです?」
「鷺坂か。そういえば、この間お見合いしたんだって? 昨日はデートだったのか?」
鷺坂は真っ赤になった。
「違いますよ! 本当に清水のやつ、みんなにばらしているな」
「おいおい、清水は無実だぞ」
「じゃあ、なんで知っているんですか?」
「なんだ。本当にお見合いしてたのか」宮坂が笑う。
「親父に言われて仕方なく……。僕のことはいいですから、こっち、こっち」
鷺坂が男を指差した。
「ははは。お前は昔から嘘がつけない性格だな。出世できないぞ」
「いいですよ。興味ないので」鷺坂はふくれた。
宮坂は男を見ながら説明した。
「まだ初見だから詳しいことはこれから調べるが、今のところ死因になるような目立った外傷はない。倒れたときについたと思われる擦り傷が、手のひらと膝にある程度だ。ただ、倒れてから亡くなるまで、ある程度苦しんだ様子はうかがえる」
「それと、携帯、財布、免許証など、所持品がまったくない。どこかで落としたか、盗まれた可能性が高いな」
「争ったような跡は?」
「残された足跡を見る限り、ここで争った様子はない。今のところは、こんなところだな」
「年齢は?」
「ざっと70代くらいかな」
鷺坂は、あらためて男を観察した。
「この身なりからして、ホームレスには見えないし……」
そのとき、男の右腕にある高級時計に目が留まった。
「宮坂さん。この時計のシリアルナンバーから、購入者の名前が分かる可能性はありませんか?」
「そうだな。後で番号を知らせるよ」
「お願いします」
鷺坂はその場を離れ、清水と周辺の捜索を始めた。
所持品がどこかに落ちている可能性があるからだ。
遺体や遺留品の回収が一通り終わると、現場には引き続き捜査のため規制線が張られた。鷺坂たちは、いったん現場を後にした。
自分のデスクに戻った鷺坂は、すっかり冷えてパサパサになった弁当の残りを食べながら、報告書を作り始めた。
すると、山田課長がやってきた。
「鷺坂、やっと捕まえた」
「どうしました?」
山田は書類の束を見せた。
「この捜査資料が分かりにくいって、地検のカラスがカーカー鳴くんだよ。悪いが、まとめ直してもらえないか」
「えー、またですか」
鷺坂が嫌な顔をする。
「悪いな。カラスのやつ、細かくて手に負えないんだ」
「僕もこれから報告書を書かないといけないんですよ」
「そこをなんとか。ここだけでいいから」
山田が指を差す。
鷺坂が書類を見ると、
「たしかに、カラスがカーカー言うはずだ」と心の中でつぶやいた。
「分かりました。その代わり、お願いがあります」
「なんだ?」
「今、鑑識から今日の身元不明の男性の腕時計のシリアルナンバーが届きました。購入者を調べてください。身元が分かるかもしれません」
「分かった」
鷺坂はデスクに向かい、報告書の修正を始めた。
山田もシリアルナンバーを受け取り、さっそく購入者を調べ始めた。
ほどなくして、鷺坂の資料の修正も終わった。
「今日も残業だ……。働き方改革はどうなっている!」
清水は、とっくに帰っている。
ふと今日の報告書を見ると、作成したのは清水だった。
「しかし、あいつもなかなか要領よく、ポイントをまとめられるようになったな」
鷺坂は少し感心した。
「これからは楽になる。これこそ働き方改革だ」
そう言って、大きく伸びをした。
そこへ山田が戻ってきた。
「鷺坂! ありがとう。さすがだな。報告書を書かせたら、お前の右に出るやつはいないぞ。助かったよ」
そう言って、鷺坂の肩をぽんと叩いた。
「ところで、夕飯まだだろ? 一杯どうだ。お礼だ」
疲れはたまっていたが、せっかくだからと、ごちそうになることにした。
二人が向かったのは、有楽町近くの繁華街から少し外れた場所にある居酒屋だった。
「へえ、こんなところに……」
鷺坂は周囲を見回した。
山田は常連らしく、
「おい、奥、空いている?」
と声をかけると、先に立って奥の個室へ向かった。
個室に入ると、意外なほど静かだった。
二人が上着を脱いで席につくと、ノックの音がした。
店主自らおしぼりを持ってきた。
「とりあえず生で。鷺坂は?」
「僕も」
「あとで追加するから、適当に酒のつまみになりそうなものを作ってくれ」
「今日はいい魚が入ってるぞ」
「じゃあ、それで刺身の盛り合わせ、頼めるかい?」
「どうも。」
店主はそう言って部屋を出ていった。
「山田課長、お知り合いですか?随分親しそうで」
鷺坂が感心すると、山田はおしぼりで手を拭きながら笑った。
「まあな。ここは俺たち同期のたまり場なのさ」
「たまり場?」
「あいつ、俺の同期でな。警官を辞めて、この店を開いたのさ」
「へえ、そうなんですか。山田課長は昨年まで捜査二課にいましたよね」
「まあな。ところでお前、時々『貴婦人』に行っているだろ?」
「はい?えっご存じでしたか?」
「あいつも同期なのさ」
「そうなんですか? 知らなかった。長坂さん、同期だったんですか。何も言わないから、知りませんでしたよ。新人のころ、ずいぶん扱かれました」
「ははは。お前のことは、あいつから時々聞いていたさ。お坊ちゃまだと思っていたが、なかなか大胆だぞ、お前も。鉄道が好きなんだろ? だから、あいつとも気が合ったのかね」
そこへノックの音がした。
「ビールと刺身、お持ち。どうぞゆっくりと」
店主は料理を置くと、静かに部屋を出ていった。
「仲間と飲むと、ついつい捜査の愚痴なんかも出るからな。ここなら仲間内で安心できる。あいつも、俺たちがここに来るときは、何か話したいことがあるんだと分かっているのさ」
山田はジョッキを持ち上げた。
「さあ、お疲れさん」
「お疲れさまです」
二人は乾杯した。
「ふーーー。冷えていて美味いな。鷺坂、刺身食べられるか?」
「はい、大好きです」
「そうか。遠慮なく食え」
「ありがとうございます」
鷺坂が刺身に箸を伸ばす。
山田が、少し意味ありげな顔をした。
「早速なんだが、例の時計のシリアルナンバーを調べたら、面白いことが分かったぞ」
「えっ、もう分かったんですか?」
「元・捜査二課の実力をなめるなよ」
山田は得意げに笑った。
「まあ、偶然でもあるがな。このシリーズは、十年前の伊勢志摩サミット開催を記念して作られた時計だ。しかも、伊勢志摩を代表する真珠・宝飾ブランド会社が全面協力して作ったもので、百個限定だった」
「百個……」
「しかも一般にはほとんど流通していない。サミットに関係した地元の名士や議員、リゾートマンションのオーナーなどに向けて販売されたものらしい」
山田はそこで一度、ビールを口にした。
「そして、この番号は、そのリゾートマンションのオーナーが購入していた」
「じゃあ……」
「そう。あの男は、どこかのリゾートマンションのオーナーかもしれない」
鷺坂の顔が引き締まった。
「ただし、このナンバーは購入時の記録しか管理されていない。その後、別の人間に渡っていたら、そこまでは追えない。まあ、とりあえず今はここまでだ」
「ありがとうございます。僕が資料を作っている間に、ここまで調べていただいたんですね。さすが、たたき上げの山さんです。本当に助かりました」
鷺坂は少しほっとしたように笑った。
「意外に早く身元が分かるかもしれませんね。なんだか安心しました」
「お前、急に腹が減った顔してるぞ」
「そうですか?」
「追加していいぞ」
「じゃあ……あとビールもおかわりで」
「いいぞ。若いんだから、たくさん食え」
山田はニコニコしながら、追加の料理を注文した。
このときの鷺坂は、まだ知らなかった。
この身元不明の男をきっかけに、まさかあれほど大きな事件へとつながっていくとは――。
◆第二章 落し物
早朝の川辺では、犬の散歩をする人や、ランニング、ウォーキングをする人たちが行き交い、それぞれの朝を過ごしていた。
ある高齢の夫婦も、毎朝と同じように、ゆっくりと川辺を歩いていた。
「あら」
妻が、草むらに黒い男性用のセカンドバッグが落ちているのに気づいた。
バッグの蓋は開いていたが、落とされたばかりなのか、汚れもほとんどない。
「あなた、交番に届けましょうか?」
「そうだね。でも、蓋が開いているから、私たちが何か抜いたと思われても嫌だな」
「じゃあ、写真を撮っておきましょう」
夫婦はスマートフォンでバッグの状態を撮影すると、バッグを拾い、近くの交番へ届けた。
「ご苦労様でした」
警察官に礼を言われ、夫婦が交番を後にする。
警察官は、届けられたバッグを机の上に置くと、拾得物照合のためのシステムへの登録を始めた。
「鍵が三本……。それから、薬の袋。上野耕三……芦沢病院……薬の名前は……」
画面に一つずつ入力していく。
「財布、携帯、免許証、クレジットカード……。本人を特定できるものはないか」
警察官はバッグの中身を確認しながら、入力を続けた。
「本人を特定できそうなのは、この薬袋だけだな」
登録内容を確認し、保存する。
その後、拾得物一式をまとめ、所定の保管場所へ移した。
―その日の午後。
鷺坂の隣の席で、清水が拾得物管理台帳を調べていた。
「鷺坂さん これ、どう思います?」
清水が画面を見せる。
「黒いセカンドバッグか……」
鷺坂は画面を覗き込んだ。
「ん? 金品や携帯はなし。本人を特定できそうなのは、この薬袋だけか」
「はい。名前が書いてあります。上野耕三。それと、芦沢病院」
「芦沢病院か……。現場からは少し離れているな」
鷺坂は画面を見つめた。
「でも、気になるな」
そのときだった。
監察医務院、司法解剖の第一報が届いた。
鷺坂が報告書に目を通す。
そこには、遺体の死因について、次のように記されていた。
――持病の治療薬を一定期間服用していなかったことが、死亡に関与した可能性が高い。
おそらく被害者は、持病の治療薬を毎日欠かさず服用していた。
何らかの理由で薬を服用できなくなり、その後、急激に症状が悪化。強い筋肉のこわばりや高熱などを起こし、死亡した可能性がある。
鷺坂は報告書から顔を上げた。
「清水、これ……どう思う?」
清水も画面を覗き込む。
「鷺坂さん……これ、つながりそうですね」
「そうだな」
鷺坂は、もう一度、拾得物の画面を見た。
「清水、急いで芦沢病院に照会をかけてくれ。上野耕三という人物が、そこの患者だったか確認してもらおう」
「はい!」
清水が席を立った。
その一方で、鷺坂は昨日、山田課長から得た情報を思い出していた。
例の会社から入手した、当時の購入者リスト。
鷺坂は保存していたデータを開き、名前を追っていく。
――あった。
「上野耕三……」
確かに、その名前が掲載されている。
だが、横に記されたシリアルナンバーは違っていた。
「……番号が違う」
鷺坂は眉を寄せた。
なぜ番号が違うのか。
その疑問を抱きながらも、さらにリストを眺めていく。
そこには、大物政治家の名前、企業関係者、そしてサミット関係者など、名だたる人物の名前が並んでいた。
「まあ……当然といえば当然の名前ばかりだな」
鷺坂は独り言のようにつぶやいた。
そして、そのリストを厳重に保管すると、パソコンに残っていた不要なデータを削除した。
ほどなくして、芦沢病院から連絡が入った。
正式な照会に対する回答と、担当者との面談が可能だという。
「行きましょう、鷺坂さん」
「そうだな」
拾得物を登録した交番へ連絡し、そこで薬袋のみうけとり、芦沢病院へ向かった。
病院に到着し、受付へ向かう。
民間の病院ということもあるのか、午後だというのに、ロビーには多くの高齢者がいた。
椅子に腰掛けて談笑する人、顔見知りらしい患者同士で話に花を咲かせる人。
病院というより、どこか地域の集会所のような雰囲気だった。
清水が周囲を見回す。
「病院って、午後はもっと空いているイメージだったんですけど……ここ、混んでますね」
鷺坂も周囲を見渡した。
確かに、一般の総合病院とは少し雰囲気が違う。
二人が院長室へ向かって歩いていく。
その途中の待合室から、賑やかな声が聞こえてきた。
「うーん。今年は健康運がいいね」
「おい、病院にいて、それはないだろう」
「ははは!」
周囲から笑い声が起こる。
鷺坂も思わず口元を緩めた。
「確かに……」
そう呟きながらも、二人は特に気に留めることなく、そのまま院長室へ向かった。
院長室では、院長と担当医が待っていた。
急な依頼にもかかわらず対応してくれたことへの感謝を伝えながら、鷺坂と清水は名刺を渡した。院長と担当医も、突然のことで驚いた様子だった。
「芦沢先生、このたびは捜査へのご協力ありがとうございます。こちらが薬袋になりますが、こちらの病院のもので間違いございませんでしょうか?」
鷺坂が薬袋を差し出す。
「はい。当院は院内処方としておりますので、間違いございません」
院長が薬袋を確認する。
「ご連絡をいただいた後、当院の薬局にも確認しました。処方箋に基づき、間違いなくお渡ししております」
「差し支えなければ、記録を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
清水が尋ねる。
「どうぞ。ご確認ください」
院長が答えた。
清水と鷺坂は過去の記録を確認した。
上野は定期的に通院し、その都度、薬を処方されていた。投薬にも問題はなく、これまできちんと薬を服用していたことも確認できた。
鷺坂が顔を上げる。
「具体的なことは、まだ捜査中ですのでお話しできません。ただ、本人からの電話や、最後の診療時に、何か気になることはありませんでしたか?」
院長は担当医と顔を見合わせた。
「捜査にご協力したいのはやまやまですが……担当医とも話しましたが、いつものように月に二度受診され、薬もきちんと服用されていたようです。私どもも、その点は安心しておりました」
「安心……とは?」
鷺坂が問いかける。
「はい。上野さんは、東京と伊勢志摩の二拠点で生活されていたんです。以前、東京でゆっくり治療されたほうがいいのではないかとお話ししたこともあります」
院長は少し微笑んだ。
「でも上野さんは、『伊勢志摩の美しさは、あそこにいるからこそ分かる。東京は働くところ、終の棲家ではない』とおっしゃっていました」
「なるほど……」
鷺坂は黙って聞いている。
「ですから、病院へ通院されるときや、仕事の用事があるときに東京へ出てこられていたようです」
「では、東京にもご自宅があるということですか?」
「そうですよ」
院長はパソコンを操作し、カルテの住所情報を表示した。
「こちらです」
鷺坂と清水は、その住所をメモした。
「ありがとうございます。重要な情報です」
「お役に立てれば、なによりです」
院長が答える。
「急なことで驚いておりますが、また何かお役に立てる情報がございましたら、提供させていただきます」
「ありがとうございます」
鷺坂は一瞬ためらってから、口を開いた。
「大変言いにくいお願いがございます。差し支えなければへ監察医務院にお越しいただき、遺体をご確認いただければと思います。お願いできますでしょうか?」
「そんなことですか。構いませんよ」
院長は意外なほどあっさりと答えた。
そして担当医を見る。
「ね?」
「はい。私も構いません」
担当医も頷いた。
二人はすぐに準備を済ませると、鷺坂と清水の車に同乗し、監察医務院へ向かった。
◆第三章 少年
カンは、仲間からの連絡を受け、急いで井の頭公園近くのコンビニへ向かった。
カンは、子どもたちを支援、養護するNPO法人を運営している。かつてそこで育った子どもたちは、今では大人になり、それぞれの仕事を持って社会に参加している。
カンにとって、それは何より嬉しいことだった。
中には、どうしても裏社会から抜け出せない人間もいる。それでも、それはそれでいい。誰かに助けてもらうのではなく、いつか自分の足で歩んでいく努力をしてほしい。カンはそう願っていた。
そんなカンのもとに、今日は仲間のリョウから急な連絡が入った。
近所の子どもが、裸足のまま助けを求めてコンビニに駆け込んできたという。
髪はぐちゃぐちゃに乱れ、服も下着なのかシャツなのか分からないほど汚れている。風呂にも入っていない様子だという。
「分かった。すぐ行く」
カンは事務所にあった子ども用の衣類や下着、靴下などをまとめ、コンビニへ向かった。
コンビニに着くと、店内にいたリョウが、他の客に気づかれないよう、奥へ目線を送った。
カンは外へ出ると、裏口から倉庫へ入った。
薄暗い倉庫の中では、少年が椅子にちょこんと座り、菓子パンを頬張っていた。
カンが入ってくると、少年は突然パンを置き、椅子から立ち上がって逃げようとした。
「大丈夫。怖がらなくていいよ。僕はお店の人間じゃない。君に洋服と飲み物を持ってきただけだよ」
カンは、できるだけ穏やかな声で伝えた。
少年は恐る恐る立ち止まった。
しかし、その目にはまだ恐怖が残っている。目の前の人間を信じていいのか、分からないという表情だった。
無理もない。
誰も味方がいない中で育ってきたのだろう。ずっと孤独だったのかもしれない。
「こんな子に、誰を信用しろっていうんだ……」
カンは胸が痛くなった。
焦らず、辛抱強く待った。
どのくらい時間が過ぎただろう。
少年が小さな声で尋ねた。
「お兄ちゃん……お店の人?」
「ううん。でも大丈夫だよ。君が洋服を着ていないと聞いたから、洋服と下着を持ってきたんだ。サイズが合わないかもしれないけど、多めに見てね」
カンが笑うと、少年は少しだけ表情を緩めた。
「うん……僕ね、靴下がないの。足の裏がチクチクして痛いの」
「分かった。僕はカンっていうんだ。君は?」
「ゆう」
「そっか。ゆうっていうんだ」
カンは少年と少し距離を置いたまま、優しく声をかけた。
「じゃあ、ゆう。そっちに行ってもいいかい? 洋服を着よう。足の裏も見てみよう」
「うん・・」
少年が小さく頷いた。
カンがゆっくり近づくと、異臭がした。
「……本当に、しばらくお風呂に入っていないんだな」
服を着替えさせると、下着も身につけていなかった。
「これ、着ような」
カンが下着と服を渡し、足の裏を確認すると、ガラスの破片が刺さっていた。
「痛かったね。すぐ消毒しよう」
カンは持ってきた救急用品を取り出し、足の手当てを始めた。
ひと通り処置が済むと、カンは少年の顔を見た。
「パンだけじゃお腹すくよな。何か買ってくるから、ここを絶対に動いちゃダメだよ」
念を押すと、少年は黙って頷いた。
カンは店内にいるリョウにLINEを送った。
『このこと、店長には報告したか?』
すぐに返信が来た。
『まだ』
『防犯カメラに映っているはずだ。今すぐ店長に連絡しろ』
そして、もう一つ指示を送った。
『その時、子供がここに電話してくれと紙をみせたのでNPO法人「こども社会ネット」に連絡したといえ』
『分かった』
カンは続けて、
『あと、店の商品分はきちんと支払うから、必ずレジで精算しろ。いいな』
と念を押した。
しばらくすると、カンがNPO法人「こども社会ネット」のロゴが入った上着を着て、店内に入ってきた。
防犯カメラを意識して
名刺を渡す等、店員に案内されて倉庫の奥へ向かうようふるまった。
「ゆう もう大丈夫だよ」とカンがにっこりした
そしてゆうには、
「君を安全なところへ避難させるからおにいちゃんに協力してくれるかい?」
とやさしく言った。
ゆうは小さな声で
「うん」と頷いた
リョウはカンから教わったとおり、店長へ電話で事情を説明した。
「分った。すぐに行く。それまで、そこで子供とその人にそこでお待ちいただけ」
ほどなくして店長がやってきた。
カンは改めて名刺を渡した。
「この少年は、以前から私たちが運営するNPO法人に通ってきていた子どもです。最近、姿を見せなくなっていたので、私たちも心配していました」
カンは、少年のことを説明した。
「もし何かあったら、コンビニの駆け込み所に入って、店の人にここへ連絡するように、と以前から伝えていたんです」
「そうだったんですか……」
店長は少年のほうを見た。
「ご両親も心配されていると思います。こちらで都の福祉課とも相談し、保護することにしました」
カンが説明すると、店長も安心したように頷いた。
「あの警察へは知らせた方が・・」と店長が心配そうに尋ねると
「大丈夫です。身元が分からなかったり、本人確認が取れない場合は、捜索願が出ている可能性もありますから、警察や関係機関への連絡が必要です。でも、この子は私たちが以前から支援していて、連絡先もこちらで把握しています。こちらで保護しますので、ご心配なく」
といいカンは店長にきちんと礼を言い、少年を車に乗せた。
そのまま、事務所へ戻った。
カンとの約束通り、車に乗るまで、ゆうは一言も話さなかった。
カンはバックミラー越しに少年の姿を見ながら、考えていた。
――なぜ、この子は裸足で、ひとりで逃げてきたのだろう。
店長には嘘をついて申し訳ない。だが、この子の状態は普通じゃない。何かある。
気を回しすぎかもしれない。
それでも今は、こちらで保護しておこう。
カンにはまだ分からなかった。
ただ、この子を守らなければならない。そして、その先に何か――犯罪のにおいがする。
この小さな出来事が、やがて少年たちを取り巻く別の事件へとつながっていくことを、カンはまだ知らなかった。




