「録音は禁止です」
「録音は禁止です。絶対に」
サークルの部室で、顧問の山科が繰り返した。怪談研究会、通称「怪研」。夏の目玉企画は、廃トンネルからの生配信だ。
「山科先生、今どき録音なしはキツいですよ。再生数も…」
会長の篠田が笑い飛ばす。俺はカメラ担当で、その横にいた。先生は普段おどおどしているくせに、このときだけは異様に真剣だった。
「場所はどこでもいい。ただ、音は残すな。ソレには“呼び戻される声”が混ざるから」
オカルトみたいな説明に、部室の空気が一瞬しらける。副会長の由衣が、わざとらしく肩をすくめた。
「じゃあ、配信も禁止ってことですか。音、残っちゃいますよね」
「いや、生は…」山科は言いよどむ。「生は、まだ…薄いから。濃くなる前に切れば」
「“濃くなる前”って何ですか?怪談のネタにしていいです?」
篠田が笑い、俺もつられて笑った。そのとき、顧問の口元がわずかに震えているのに気づかなかったふりをした。
──結局、企画は予定通り決行されることになった。但し、先生の条件は一つだけ。
「録音機能は切って、生配信だけにしろ。 終わったら、アーカイブは残すな。消せ」
俺たちは「了解でーす」と軽く返事をした。本気で守るつもりは、誰もなかった。
夜十時…大学からバスで四十分。山の中の使われていないトンネル前。コンクリートのアーチには、錆びた文字でトンネル名が浮き出ている。
「うわ、ガチで廃墟って感じ」由衣が腕をさすり、身を縮こまらせる。
スマホを三台、簡易三脚に立てる。ひとつは配信用、もうひとつは保険。最後の一台は、内緒でボイスレコーダーアプリを起動した。
「録音は禁止って言われましたけど」
俺が小声で言うと、篠田が片目をつぶる。
「バレなきゃいいんだよ。再生回数が先生の小言を上回ったら、正義はこっち」
くだらない理屈に、俺も苦笑する。
配信開始ボタンを押す。画面に「ライブ配信中」の赤い表示が灯る。コメント欄に、サークルのフォロワーたちのハンドルネームが次々に流れた。
「録音は禁止です。絶対に」
サークルの部室で、顧問の山科が繰り返した。怪談研究会、通称「怪研」。夏の目玉企画は、廃トンネルからの生配信だ。
「山科先生、今どき録音なしはキツいですよ。再生数も…」
会長の篠田が笑い飛ばす。俺はカメラ担当で、その横にいた。先生は普段おどおどしているくせに、このときだけは異様に真剣だった。
「場所はどこでもいい。ただ、音は残すな。ソレには“呼び戻される声”が混ざるから」
オカルトみたいな説明に、部室の空気が一瞬しらける。副会長の由衣が、わざとらしく肩をすくめた。
「じゃあ、配信も禁止ってことですか。音、残っちゃいますよね」
「いや、生は…」山科は言いよどむ。「生は、まだ…薄いから。濃くなる前に切れば」
「“濃くなる前”って何ですか?怪談のネタにしていいです?」
篠田が笑い、俺もつられて笑った。そのとき、顧問の口元がわずかに震えているのに気づかなかったふりをした。
──結局、企画は予定通り決行されることになった。但し、先生の条件は一つだけ。
「録音機能は切って、生配信だけにしろ。 終わったら、アーカイブは残すな。消せ」
俺たちは「了解でーす」と軽く返事をした。本気で守るつもりは、誰もなかった。
夜十時…大学からバスで四十分。山の中の使われていないトンネル前。コンクリートのアーチには、錆びた文字でトンネル名が浮き出ている。
「うわ、ガチで廃墟って感じ」由衣が腕をさすり、身を縮こまらせる。
スマホを三台、簡易三脚に立てる。ひとつは配信用、もうひとつは保険。最後の一台は、内緒でボイスレコーダーアプリを起動した。
「録音は禁止って言われましたけど」俺が小声で言うと、篠田が片目をつぶる。
「バレなきゃいいんだよ。再生回数が先生の小言を上回ったら、正義はこっち」
くだらない理屈に、俺も苦笑する。
配信開始ボタンを押す。画面に「ライブ配信中」の赤い表示が灯る。コメント欄に、サークルのフォロワーたちのハンドルネームが次々に流れた。
〈来た!〉〈廃トンネルってマジ?〉〈今回はガチの心霊お願いします〉
篠田がカメラの前に立ち、いつものテンションで挨拶を始める。
「こんばんは、怪研チャンネルです! 今日は大学近くの“例のトンネル”から、リアルタイムでお送りします」
俺は配信アプリの音声レベルを確認しながら、もう一台のスマホでそっと録音アプリの表示を隠した。
トンネルの中は、思ったよりも暗い。街灯は入口の外にしかなく、中は懐中電灯の光だけだ。コンクリートの壁は汗をかいたように黒く湿り、ところどころに錆と苔が浮いている。
「じゃあ、入りますか」
由衣が先頭、次に篠田、最後尾を俺が歩く。三人の足音が、カツ、カツ、と湿った床に反響する。
コメント欄に、さっそく書き込みが増えた。
〈足音リアル〉〈声がちょっと響いてて怖い〉
途中で篠田が、話の流れで「このトンネル、昔事故があったらしくてさ」と適当な怪談を始める。内容は、去年の文化祭で話したものの焼き直しだ。
「女の人が一人で通りかかったときに、酔っぱらい運転の車が突っ込んで──」
そのときだった。俺の耳に、何かが引っかかった。
篠田の声の奥。遠くの方で、もうひとつ別の声が、かすかに混じった。
「あれ、今…」
由衣も立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回す。
「何か聞こえたよね、今」
「風じゃない?」
俺は冗談めかして言ったが、口の中が急に乾いた。
配信画面のコメントが一斉に動く。
〈今、誰か笑った?〉〈女の人の声した〉〈会長の後ろから声してる〉
「え、マジ?」篠田が振り返る。そこには俺と、空っぽの暗闇しかない。
「やめてよ、そういう釣り」
由衣が笑おうとしたが、声が少し震えていた。
そのとき、イヤホンからノイズが走る。配信用スマホから、キイッという高い音が漏れた。画面が一瞬、歪む。コマ落ちしたように、映像が途切れた。
「おい、回線?」
「大丈夫大丈夫。たまにあるから」
俺は設定画面を確認しながら、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。ノイズに紛れて、微かに「やめて」という囁きが聞こえた気がしたからだ。
「今の、聞こえた?」
「何が?」
「『やめて』って、誰か…」
由衣が俺の言葉をさえぎる。
「やめてって、私が言いたい。マジで怖いんだけど」
コメント欄はますます騒がしくなる。
〈聞こえた!〉〈『録音やめて』って言ってない?〉〈この音保存しておきたい〉
ぞわりと背中に冷たいものが走る。録音アプリのタイムカウンタは、しっかり動いていた。
「…一回、引き返そうか」
由衣がぽつりと言った瞬間、トンネルの奥から、コツ、コツ、と乾いた靴音が響いた。
誰も歩いていない。俺たち三人はその場に凍りついた。
コツ、コツ。その音は、一定のリズムで近づいてくる。視界の先には、真っ黒な穴が口を開けているだけ。
画面のコメントが一斉に「うしろ!」で埋まった。
「なにこれ、演出じゃないからね、マジで」
篠田が震える声で笑おうとする。そのとき、スマホのマイクが不自然なほど音を拾いはじめた。ほとんど無音だったトンネル内に、ささやきが幾重にも重なって聞こえる。
「……みてる」「かえして」「あたしのこえ」
聞き取れるかどうかの瀬戸際の音量で、確かに日本語だ。篠田が思わず声を荒げる。
「おい、誰だよ、ふざけてんの!」
俺もスマホをぐっと握りしめた。録音アプリの波形が、ひどく細かく震えている。
ふいに、コメントがぴたりと止まった。代わりに、画面中央にシステムメッセージが浮かぶ。
〈この配信は、規約違反の可能性があるため一時停止されました〉
「は? なんで」
俺たちは顔を見合わせる。トンネルの中は、急にしんと静まり返っていた。さっきまでの足音も、ささやきも、ぴたりと止んでいる。
「配信切れても、録音は残ってるから」
篠田が無理に明るい声を出す。帰ってから編集して、怪異音声としてアップすればいい。そう言いかけたとき、胸ポケットのスマホが震えた。
知らない番号からの着信。こんな山の中で圏外じゃないことの方が不思議だ。
「出ない方がよくない?」由衣が青ざめた顔で囁く。
無視しようとしたが、なぜか指が勝手に画面をスワイプしていた。耳に当てる。
「…もしもし」
ノイズの海の向こうで、誰かの声がした。
『──録音、やめて』
女の声。低く掠れ、どこか濡れたような響き。耳元ではなく、頭の内側に直接落ちてくるような感覚だった。
「誰ですか」
『かえして。こえを、かえして』
「声を…?」
『とらないで。ここから、ださないで。おねがい』
ブツッ、と通話が切れた。同時に、胸ポケットのスマホが勝手に再起動を始める。
「何今の、着信?」
由衣が覗き込もうとするのを、思わず振り払った。
「…帰ろう。マジで」
誰からともなくそう言い出し、俺たちはほとんど駆け足でトンネルを引き返した。
その夜。部屋の明かりを落として、俺は録音されたデータをイヤホンで確認していた。
再生ボタンを押すと、最初は足音と、いつものふざけたトークだけだ。ところどころにノイズが混じるが、心霊番組の演出でも見慣れたような範囲内に思えた。
「案外、普通だな…」
巻き戻そうとしたとき、耳の奥で何かが引っ掛かる。再生バーを数秒だけ戻し、音量を上げる。
そこに、確かに混ざっていた。
「ろくおんを、やめて」
女の声が、はっきりと。篠田でも由衣でもない。配信ではかすれていた言葉が、録音ではもっと明瞭だった。
背筋に冷たい汗がつうっと流れ落ちる。
「…合成、だよな。誰かがいたずらで、遠くから…」
自分に言い聞かせながら、さらに先を聞く。トンネルの奥に進み、配信が乱れ始めたあたり。
そこから先、録音の中の世界は、現場で聞いたものと完全に違っていた。
イヤホンの中では、絶え間ないざわめきが渦巻いていた。何十人もの声が、かすれた囁きで同じ言葉を繰り返す。
「ここにいさせて」「外にださないで」「聞こえる?」「聞こえるよね?」
そして、その合間を縫うように、低く落ち着いた一つの声が響く。
『録音は禁止です。絶対に』
顧問の声だった。山科の、あの部室での口調が、そのまま録音に刻まれている。
「あれ…これ、いつ…」
部室での会話は録っていないはずだ。録音を始めたのは、トンネルに着いてからだ。なのに、なぜ山科の声が、トンネルの反響音を伴って混ざっている。
『戻してやれない。だから、録音はするなと言った』
独り言のようなその声に、別の女の声が食い込んだ。
『うそつき。あたしのこえ、まだ、のこってる』
瞬間、ファイルがぷつりと切れた。再生アプリがフリーズし、スマホの画面が暗転する。
真っ黒な画面には、ほんの一瞬だけ、小さな波形アイコンが浮かんでいた。波形の下に、見慣れないファイル名が表示される。
「unknown_voice_01」
次の瞬間、画面は元のホーム画面に戻っていた。さっき見たファイル名は、どこにも残っていない。
「…気のせいだ」
声に出してみると、喉がひどく乾いていた。しかしスマホのストレージを確認すると、録音フォルダの容量だけが、妙に増えている。
ファイル数は、ひとつ。俺が録った「trunnel_live.wav」だけ。なのに合計サイズは、十倍近くになっていた。
「バグだよな…」
そうつぶやいたとき、イヤホンからノイズが漏れた。再生は止めているはずなのに、かすかなささやきがじわじわと音量を上げてくる。
『…きこえる?』
思わずイヤホンを引き抜こうとして、指が動かない。腕から力が抜け、体がベッドに沈み込んだ。
『きこえるよね』
声は耳の外ではなく、頭蓋骨の内側で鳴っている。スマホの画面は暗いままだが、そこからほの白い光だけが洩れているように見えた。
『じゃあ、わたしのこえ、かえして』
爪でガラスをひっかくような音がした。それは、耳ではなく、喉の奥から響いてきた。自分の発声器官が、勝手に別の声を鳴らしているような奇妙な違和感。
俺の口が、ゆっくりと開く。出てきた声は、俺のものではなかった。
「──録音、やめて」
女の声。それは、イヤホンで聞いたものと同じ響きだった。
喉が焼けるように熱い。息を吸おうとしても、胸が動かない。代わりに、声だけが勝手に紡がれていく。
「ここに、のこりたい」「だして、ほしくない」「でも、きいて、ほしい」
意味が渦を巻いて、頭の中に流れ込んでくる。誰かの断片的な感情が、音となって俺の体を通り抜けていく。
やがて、暗闇の中に、無数の波形が浮かんだ。心電図のような細い線が、上下に震えながら、ぴんと張り詰めている。
一つ一つの波形に、名前がついていた。知らない名前ばかりだが、その中に一つだけ、見覚えのある文字列があった。
「yamashina_voice」
顧問の名前。俺の喉から、勝手に低い男の声が漏れる。
「…録音は禁止です。絶対に」
自分の意思とは関係なく、先生の声色で喋らされる。言葉を発するたびに、頭の中の波形がひとつ、またひとつ、外側に滲み出していく。
それはまるで、保存された声が、現実世界の音声回路に逆流してくるようだった。
「たすけ…」
自分の声を取り戻そうとした瞬間、すべての音が、ぴたりと止んだ。
世界から音が消えた。エアコンのファンの回転音も、外を走る車のタイヤの音も、自分の心臓の鼓動すら聞こえない。
代わりに、ただひとつだけの音が、頭の奥で鳴り続けている。
「再生中」
機械的な、しかしどこか嬉しそうな女の声。その単語が、一定のリズムで繰り返される。
「再生中」「再生中」「再生中」
俺はベッドの上で、声も出せずに口をぱくぱくと動かしていた。
翌日、怪談研究会のグループチャットは、篠田のメッセージで盛り上がっていた。
〈昨日の配信、途中で切られてさ〉〈でもアーカイブ、なぜか自動で残ってたw〉〈音、やばい。絶対伸びるやつ〉
由衣もすぐに返信を寄せる。
〈マジで? 私、途中から記憶ないんだけど〉〈怖いけど、チェックしてみる〉
俺のスマホにも、同じ通知が届いているはずだった。けれど、机の上に置かれたままのそれを、誰も手に取ることはなかった。
画面の中では、自動アップロードされた「最新動画」が、静かに再生回数を伸ばし続けている。
サムネイルには、暗いトンネルの入口と、ぼんやりと浮かび上がる人影。タイトルは、篠田たちがつけたものではなかった。
「録音は禁止です」
説明欄には、一文だけが記されている。
「この動画の音声のダウンロード、録音、二次利用を固く禁じます」
再生ボタンを押した誰かの部屋で、今日もまた、誰かの喉が、別の誰かの声で震え始める。
〈来た!〉〈廃トンネルってマジ?〉〈今回はガチの心霊お願いします〉
篠田がカメラの前に立ち、いつものテンションで挨拶を始める。
「こんばんは、怪研チャンネルです! 今日は大学近くの“例のトンネル”から、リアルタイムでお送りします」
俺は配信アプリの音声レベルを確認しながら、もう一台のスマホでそっと録音アプリの表示を隠した。
トンネルの中は、思ったよりも暗い。街灯は入口の外にしかなく、中は懐中電灯の光だけだ。コンクリートの壁は汗をかいたように黒く湿り、ところどころに錆と苔が浮いている。
「じゃあ、入りますか」
由衣が先頭、次に篠田、最後尾を俺が歩く。三人の足音が、カツ、カツ、と湿った床に反響する。
コメント欄に、さっそく書き込みが増えた。
〈足音リアル〉〈声がちょっと響いてて怖い〉
途中で篠田が、話の流れで「このトンネル、昔事故があったらしくてさ」と適当な怪談を始める。内容は、去年の文化祭で話したものの焼き直しだ。
「女の人が一人で通りかかったときに、酔っぱらい運転の車が突っ込んで──」
そのときだった。俺の耳に、何かが引っかかった。
篠田の声の奥。遠くの方で、もうひとつ別の声が、かすかに混じった。
「あれ、今…」
由衣も立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回す。
「何か聞こえたよね、今」
「風じゃない?」
俺は冗談めかして言ったが、口の中が急に乾いた。
配信画面のコメントが一斉に動く。
〈今、誰か笑った?〉〈女の人の声した〉〈会長の後ろから声してる〉
「え、マジ?」篠田が振り返る。そこには俺と、空っぽの暗闇しかない。
「やめてよ!そういう吊り…」
由衣が笑おうとしたが、声が少し震えていた。
そのとき、イヤホンからノイズが走る。配信用スマホから、キイッという高い音が漏れた。画面が一瞬、歪む。コマ落ちしたように、映像が途切れた。
「おい、回線?」
「大丈夫大丈夫。たまにあるから」
俺は設定画面を確認しながら、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。ノイズに紛れて、微かに「やめて」という囁きが聞こえた気がしたからだ。
「今の、聞こえた?」
「何が?」
「『やめて』って、誰か…」
由衣が俺の言葉をさえぎる。
「やめてって、私が言いたい!マジで怖いんだけど」
コメント欄はますます騒がしくなる。
〈聞こえた!〉〈『録音やめて』って言ってない?〉〈この音保存しておきたい〉
ぞわりと背中に冷たいものが走る。録音アプリのタイムカウンタは、しっかり動いていた。
「…一回、引き返そうか」
由衣がぽつりと言った瞬間、トンネルの奥から、コツ、コツ、と乾いた靴音が響いた。
誰も歩いていない。俺たち三人はその場に凍りついた。
コツ、コツ。その音は、一定のリズムで近づいてくる。視界の先には、真っ黒な穴が口を開けているだけ。
画面のコメントが一斉に「うしろ!」で埋まった。
「なにこれ…演出じゃないからね、マジで」
篠田が震える声で笑おうとする。そのとき、スマホのマイクが不自然なほど音を拾いはじめた。ほとんど無音だったトンネル内に、ささやきが幾重にも重なって聞こえる。
』……みてる』『かえして』『あたしのこえ』
聞き取れるかどうかの瀬戸際の音量で、確かに日本語だ。篠田が思わず声を荒げる。
「おい、誰だよ!ふざけてんの!」
俺もスマホをぐっと握りしめた。録音アプリの波形が、ひどく細かく震えている。
ふいに、コメントがぴたりと止まった。代わりに、画面中央にシステムメッセージが浮かぶ。
〈この配信は、規約違反の可能性があるため一時停止されました〉
「は? なんで」
俺たちは顔を見合わせる。トンネルの中は、急にしんと静まり返っていた。さっきまでの足音も、ささやきも、ぴたりと止んでいる。
「配信切れても、録音は残ってるから」
篠田が無理に明るい声を出す。帰ってから編集して、怪異音声としてアップすればいい。そう言いかけたとき、胸ポケットのスマホが震えた。
知らない番号からの着信。こんな山の中で圏外じゃないことの方が不思議だ。
「出ない方がよくない?」
由衣が青ざめた顔で囁く。
無視しようとしたが、なぜか指が勝手に画面をスワイプしていた。耳に当てる。
「…もしもし」
ノイズの海の向こうで、誰かの声がした。
『──録音、やめて』
女の声。低く掠れ、どこか濡れたような響き。耳元ではなく、頭の内側に直接落ちてくるような感覚だった。
「誰ですか」
『かえして。こえを、かえして』
「声を…?」
『とらないで。ここから、ださないで。おねがい』
ブツッ、と通話が切れた。同時に、胸ポケットのスマホが勝手に再起動を始める。
「何今の、着信?」
由衣が覗き込もうとするのを、思わず振り払った。
「…帰ろう。マジで」
誰からともなくそう言い出し、俺たちはほとんど駆け足でトンネルを引き返した。
その夜。部屋の明かりを落として、俺は録音されたデータをイヤホンで確認していた。
再生ボタンを押すと、最初は足音と、いつものふざけたトークだけだ。ところどころにノイズが混じるが、心霊番組の演出でも見慣れたような範囲内に思えた。
「案外、普通だな…」
巻き戻そうとしたとき、耳の奥で何かが引っ掛かる。再生バーを数秒だけ戻し、音量を上げる。
そこに、確かに混ざっていた。
『ろくおんを、やめて』
女の声が、はっきりと。篠田でも由衣でもない。配信ではかすれていた言葉が、録音ではもっと明瞭だった。
背筋に冷たい汗がつうっと流れ落ちる。
「…合成、だよな。誰かがいたずらで、遠くから…」
自分に言い聞かせながら、さらに先を聞く。トンネルの奥に進み、配信が乱れ始めたあたり。
そこから先、録音の中の世界は、現場で聞いたものと完全に違っていた。
イヤホンの中では、絶え間ないざわめきが渦巻いていた。何十人もの声が、かすれた囁きで同じ言葉を繰り返す。
『ここにいさせて』『外にださないで』『聞こえる?』『聞こえるよね?』
そして、その合間を縫うように、低く落ち着いた一つの声が響く。
『録音は禁止です。絶対に』
顧問の声だった。山科の、あの部室での口調が、そのまま録音に刻まれている。
「あれ…これ、いつ…」
部室での会話は録っていないはずだ。録音を始めたのは、トンネルに着いてからだ。なのに、なぜ山科の声が、トンネルの反響音を伴って混ざっている。
『戻してやれない。だから、録音はするなと言った』
独り言のようなその声に、別の女の声が食い込んだ。
『うそつき。あたしのこえ、まだ、のこってる』
瞬間、ファイルがぷつりと切れた。再生アプリがフリーズし、スマホの画面が暗転する。
真っ黒な画面には、ほんの一瞬だけ、小さな波形アイコンが浮かんでいた。波形の下に、見慣れないファイル名が表示される。
「unknown_voice_01」
次の瞬間、画面は元のホーム画面に戻っていた。さっき見たファイル名は、どこにも残っていない。
「…気のせいだ」
声に出してみると、喉がひどく乾いていた。しかしスマホのストレージを確認すると、録音フォルダの容量だけが、妙に増えている。
ファイル数は、ひとつ。俺が録った「trunnel_live.wav」だけ。なのに合計サイズは、十倍近くになっていた。
「バグだよな…」
そうつぶやいたとき、イヤホンからノイズが漏れた。再生は止めているはずなのに、かすかなささやきがじわじわと音量を上げてくる。
『…きこえる?』
思わずイヤホンを引き抜こうとして、指が動かない。腕から力が抜け、体がベッドに沈み込んだ。
『きこえるよね』
声は耳の外ではなく、頭蓋骨の内側で鳴っている。スマホの画面は暗いままだが、そこからほの白い光だけが洩れているように見えた。
『じゃあ、わたしのこえ、かえして』
爪でガラスをひっかくような音がした。それは、耳ではなく、喉の奥から響いてきた。自分の発声器官が、勝手に別の声を鳴らしているような奇妙な違和感。
俺の口が、ゆっくりと開く。出てきた声は、俺のものではなかった。
「──録音、やめて」
女の声。それは、イヤホンで聞いたものと同じ響きだった。
喉が焼けるように熱い。息を吸おうとしても、胸が動かない。代わりに、声だけが勝手に紡がれていく。
「ここに、のこりたい」「だして、ほしくない」「でも、きいて、ほしい」
意味が渦を巻いて、頭の中に流れ込んでくる。誰かの断片的な感情が、音となって俺の体を通り抜けていく。
やがて、暗闇の中に、無数の波形が浮かんだ。心電図のような細い線が、上下に震えながら、ぴんと張り詰めている。
一つ一つの波形に、名前がついていた。知らない名前ばかりだが、その中に一つだけ、見覚えのある文字列があった。
「yamashina_voice」
顧問の名前。俺の喉から、勝手に低い男の声が漏れる。
「…録音は禁止です。絶対に」
自分の意思とは関係なく、先生の声色で喋らされる。言葉を発するたびに、頭の中の波形がひとつ、またひとつ、外側に滲み出していく。
それはまるで、保存された声が、現実世界の音声回路に逆流してくるようだった。
「たすけ…」
自分の声を取り戻そうとした瞬間、すべての音が、ぴたりと止んだ。
世界から音が消えた。エアコンのファンの回転音も、外を走る車のタイヤの音も、自分の心臓の鼓動すら聞こえない。
代わりに、ただひとつだけの音が、頭の奥で鳴り続けている。
「再生中」
機械的な、しかしどこか嬉しそうな女の声。その単語が、一定のリズムで繰り返される。
「再生中」
「再生中」
「再生中」
俺はベッドの上で、声も出せずに口をぱくぱくと動かしていた。
翌日、怪談研究会のグループチャットは、篠田のメッセージで盛り上がっていた。
〈昨日の配信、途中で切られてさ〉〈でもアーカイブ、なぜか自動で残ってたw〉〈音、やばい。絶対伸びるやつ〉
由衣もすぐに返信を寄せる。
〈マジで? 私、途中から記憶ないんだけど〉〈怖いけど、チェックしてみる〉
俺のスマホにも、同じ通知が届いているはずだった。けれど、机の上に置かれたままのそれを、誰も手に取ることはなかった。
画面の中では、自動アップロードされた「最新動画」が、静かに再生回数を伸ばし続けている。
サムネイルには、暗いトンネルの入口と、ぼんやりと浮かび上がる人影。タイトルは、篠田たちがつけたものではなかった。
「録音は禁止です」
説明欄には、一文だけが記されている。
「この動画の音声のダウンロード、録音、二次利用を固く禁じます」
再生ボタンを押した誰かの部屋で、今日もまた、誰かの喉が、別の誰かの声で震え始める。




