心からの満足
「覚えてる?」
妻が助手席から言った。
「何を」
「新婚の頃。あんた、住宅ローンの審査通った日に泣いてた」
「泣いてねえよ」
「泣いてた」
夫は苦笑した。
確かに少し泣いた。
嬉しかったというより、怖かったのだ。
三十五年も返せるのかと。
家族を養っていけるのかと。
「でも結局返したな」
「まだ最後の固定資産税が残ってる」
「夢のないこと言うなよ」
妻が笑う。
深い皺が目尻に刻まれる。
若い頃はなかった皺だ。
自分が増やした皺かもしれない。
子どもが反抗期だった時。
義父の介護で揉めた時。
転職を反対された時。
倦怠期で会話すら減った時。
離婚という言葉が喉まで出かかった夜もあった。
「そういえばさ」
夫が言う。
「お前、一回だけ本気で俺を殺そうとしてたよな」
「二回」
即答だった。
夫は吹き出した。
「一回目は?」
「パチンコで生活費溶かした時」
「二回目は?」
「娘の運動会忘れた時」
「時効だろ」
「私の中では終身刑」
二人で笑った。
窓の外を夕陽が流れていく。
若い頃みたいな情熱はない。
胸が焦げるような恋もない。
それでも気づけば三十六年。
許せなかったことより、
許してもらったことの方が多かった気がする。
「最近さ」
夫はコンビニのコーヒーを飲みながら言った。
「俺が先に死んだら、お前どうする?」
「知らない」
妻は窓の外を見たまま答えた。
「その時考える」
「冷たいな」
「面倒くさい質問する方が悪い」
夫は笑った。
結婚して三十六年。
こんな会話ばかりだった。
愛しているなんて最後に言ったのがいつかも覚えていない。
それでも隣にはいつも妻がいた。
それが当たり前になっていた。
夫の実家からの
いつもの帰り道。
赤信号で停車していた車に、
大型トラックが突っ込んだ。
ものすごい衝撃だった。
後ろから押し潰される感覚。
車体が回転する。
夫の視界が揺れる。
何が起きたのか理解する前に、
妻の身体が飛んできた。
夫を覆うように。
抱きしめるように。
頭を守るように。
なぜ。
そう思った。
普通は自分を守る。
怖いはずだ。
逃げたいはずだ。
なのに妻は違った。
考える時間なんてなかったはずなのに。
真っ先に自分を選んだ。
遠くで誰かが叫んでいる。
サイレンも聞こえる。
視界がぼやける。
胸が苦しい。
だが不思議と恐怖はなかった。
代わりに、ひどく満たされていた。
ああ。
そうか。
そうだったのか。
俺は。
この人でよかったんだ。
若い頃の選択も。
喧嘩した日々も。
一緒に老いてきた時間も。
全部。
間違ってなかった。
妻の髪に触れようとして、
手が途中で止まる。
意識が沈む。
最後に思ったのは、
愛している、ではなかった。
ただ一つ。
ああ、
俺は愛する人を
間違えなかった。
だった。




