桜と雨
一
「桜が散るように死にたいな」
道路の左側を流れる川の河川敷では、これ見よがしに桜が咲いている。先週からちらほらと咲き始めたが、おそらく今が満開のピークだろう。
「なんだ? 遅めの中二病か?」
上司の高杉から言われ、僕は我に返った。しまった、心の中でつぶやいたつもりだったが、つい口に出てしまっていた。
「なっ、聞こえていたんですか」
「聞こえたも何も、こんな狭い車内で一緒にいるんだから、そりゃ何か喋れば聞いてしまうだろう」
僕は動揺して高杉の顔を見ようとしたが、自分が運転中ということを思い出し、慌てて視線を前に戻した。
「というか、何だ? 突然、桜がどうとかって」
聞かれてしまったことは仕方がない。曖昧に流すのも不自然だし、諦めて話を続けよう。
「突然じゃないでしょう。高杉さんもずっと桜見てるじゃないですか」
「ぼうっと外を見てるだけだよ」
そう言いながら、高杉は助手席側の窓の外を見つめている。視線の先には桜並木が続いていて、僕には彼が桜を見ているようにしか見えない。
「というか、君はまだこの仕事2年目だから、桜をキレイだと思う心が残っているんだね。うらやましいよ。俺らの業界だと、桜を嫌いになる人が多いんだけどな。ま、君もそのうちそうなるさ」
僕らの業界―引っ越し屋が最も忙しくなるのは三月末から四月上旬にかけてだ。人はこの時期を『桜の季節』だとか『出会いと別れの季節』などと聞こえの良い言葉で呼ぶが、僕らに言わせれば『引っ越しの季節』つまり仕事が最も忙しくなる時期、ただそれに尽きる。まあ、稼ぎ時で懐が潤う季節であることも確かなのだが。
仕事の繁忙期と桜の開花時期がちょうど重なっているものだから、この業界で働く者は、どうしても桜と仕事がイメージで結びついているらしい。
「桜を見ても仕事のことしか考えられなくなってしまったなあ。早く散らないかなぁ、桜。はぁ、早く雨にでも降られないかなぁ、桜」
ため息交じりに話す高杉の頭は、すっかり仕事に侵されてしまったようだ。この仕事に転職して2年目の僕にはまだその気持ちはよく分からないが、このまま仕事を続けていれば、僕もいずれ桜を見て仕事の憂鬱を思い出すようになるのだろうか。
「あの、高杉さん。たまたま繁忙期に桜が咲いているのであって、雨で桜を早めに散らせたからと言って僕らの仕事が落ち着くわけじゃないですよ」
「あーそんなこと分かってるよ。正論言わないでくれ」
高杉はすねたような言い方をした。
僕らの会社では、引っ越しの依頼は基本二人一組で受け持つ。僕は入社直後から高杉とペアを組んで仕事をすることが多かった。入社直後は大手会社から流れてきた僕に警戒していたのか、高杉はほとんど話をせず、二人の間には常に重苦しい空気が漂っていた。しかし、それから丸一年がたった今、お互いに冗談を言い合えるような関係になっている。僕はそのことをふと感じ、何だか嬉しくなった。
「えっと、話を戻そう。『桜みたいに―』何だっけ?」
1年前の高杉ならもうこの話は流していただろうが、今の彼はかなりしつこい。僕は高杉との関係性の変化を嬉しく感じてしまった自分を悔いた。
「『桜が散るように死にたい』ですよ。だって、ずるいじゃないですか、桜って。一番美しい姿を人の記憶に残したまま儚く散っていけるんですよ。それに比べて僕らは、このまま真面目に働いて、定年まで人の荷物を運び続けて、年老いて、大きな功績も残さずに死んでいくんですよ。どうせ死ぬなら、自分が一番美しいと思う姿で終わりたいじゃないですか」
言ってしまってから、この仕事を悪く言うような口ぶりになってしまったことを反省した。少なくとも高杉は自分とは違い、この仕事が好きで、仕事を誇りに思っていることを、僕はよく知っていた。
「つまり早死にしたい、と?」
「いやっ、そういうわけじゃないですけど…」
高杉は僕の仕事に対する物言いについては特に気にしていない様子で、僕はひとまず安心した。
「まあなんだ、もし相談があるなら話を聞くぞ。あ、次の角の家が目的地じゃないか?」
高杉の指さす方向を見ると、確かに立派な門を構えた依頼主の新居が見えてきた。
「いいなあ。豪邸だなあ。俺もいつかはこんな家に住みたいなあ。よしっ、今日最後のひと仕事だ。これを乗り越えれば、今夜はビールが美味いぞー」
家の前に駐車すると、高杉は「話の続きは帰りの車内な」と言い素早く降りて行った。僕もあわてて高杉に続いた。
ただ、帰りの車内では2人とも疲れ果てていて、話の続きが始まることはなかった。
二
『今夜飲もうぜ 駅前の魚魚亭で19時から 来れるやつー?』
作業服から着替えて事務所を出た直後、スマホが鳴った。
大学時代のサークルから何となく縁が続いている友人グループの、トークルームからの通知だった。この友人はよくこうして何の前触れもなく飲みに誘ってくる。いくら今日が金曜日とはいえ、急に言われて1時間後に集まれる社会人なんて、普通はそうそういない。まあ、彼もそういうことは分かっているようで、「偶然一緒に飲めるやつがいればラッキー」くらいのノリで誘っているようだ。
『今日、嫁が実家帰ってるし、俺行こかな』
すぐに、他の友人から返信があった。てっきり誰も行くやつはいないと思っていたから意外だったが、それからはその通知につられて次々と参加する友人が出てきた。突然の呼びかけにしては珍しく、人が集まる飲み会になりそうだ。
明日は滅多にない土曜日の休みだ。夕方の高杉の「今夜のビールは美味いぞー」という言葉を思い出したからか、単に周りの友人に流されたからか、僕も飲み会に行くという返事をしてしまった。
目的の居酒屋に着いたのは20時を回った頃だった。友人たちと比べて職場が駅から離れていることもあり、1時間ほど遅れての合流になった。
席には自分の他に4人が来ていたが、既に相当飲んだ後のようだ。僕のビールが届くまでの間にも矢継ぎ早に会話が飛び交っていたが、しらふの僕から聞くと一体何が面白いのか分からないようなのばかりだった。
好きなアイドルの話、漫画の話、妻の愚痴、最近付き合った彼女とののろけ話-。話を聞いているうちに、何だか、どれも自分とは全く関係のない世界の話に思えてきた。そして、そんなことを生き生きと話す友人たちを見ていると、皆が自分とは正反対に輝いているように見えた。
僕は、誇れる話も笑い話も何もない自分が、飲み会へ来てしまったことを少しだけ後悔した。
僕は去年、新卒の頃から勤めていた大手会社をクビになった。組織ぐるみでの不正が見つかったことが原因で、僕はその不正に関わっていなかった―というかそもそも知らなかったのだが、若いながらもその部署の管理職を担っていた僕は、責任を取らされる形で解雇処分になってしまった。
失業した僕に対し、妻はあっさりと離婚を申し立ててきた。しばらくして分かったのだが、妻はかなり前から浮気をしていて、あわよくばその相手との再婚を、と考えていたらしい。考えてみると、僕が職を失ったことが妻にとっては離婚の口実として絶好のチャンスだったのだろう。
幸いなことに知り合いのつてで小さな引っ越し会社への再就職が決まったのだが、自分の誇りだった仕事と愛する妻から見放された後は、何をしても心の底から楽しむということができなくなってしまった。
生きる目的がないのに、これから先も寿命まで人生が続いていくということが、正直苦痛だった。
友人や仕事仲間と話をしている時だけがこうしたマイナスな思考から解放される時間だったのだが、仕事の疲れが溜まりすぎているからか、今日に限っては友人たちの雑談も騒音に思えてくる。
そんな僕の感情とは裏腹に、友人たちは数年前に流行ったアニメの話で盛り上がっていた。
「そのキャラだってさ、これからって時に殺されたから、伝説のアイドルになったわけだろう。そのままアイドルを続けていたら、年を取って人気が衰えて引退してで、結局普通のアイドルとして生きていたんじゃないか?」
「いや!月野ユウは生きていれば大人の魅力を兼ね備えたもっともっと伝説のアイドルになっていたんだー!」
「オタクは黙ってろ!」
「アニメの話は俺にはさっぱり分からんが、その理論は分からんでもないな。歴史上の偉人もそうだろう。坂本龍馬とか沖田総司がそのたぐいだ。短命だったからこそ人気があるし、伝説化しているんだ。ん? いや、違うな…沖田総司は天寿を全うしても無数の伝説を作っていたはずだ! だって知ってるか? 沖田総司はたった12歳の頃から―」
人はみな、自分の得意ジャンルになると饒舌になるらしい。
「そういや俺の親父が好きな歌手も売れてた頃に亡くなったらしくてさ、子供のころ車の中でいつもその歌手の歌が流れてたよ。古いけど以外と良い歌なんだぜ。俺も覚えて歌ってたんだけど、タイトル何だっけな―」
それぞれが話したいことを話しているだけの空間になってしまった。誰も他の人の話は聞いていない。
(僕もさ、あの頃の、自分にとって人生が最高だった瞬間で全てが終わりだったら良かったのにって思うよ)
僕は心に浮かんだ言葉を飲み込んだ。今話したとしても誰も聞いていないだろう。それに、間違えて雰囲気がしんみりしてしまっても困る。
ふと、数時間前に見た桜の姿が脳裏に浮かんだ。美しい姿のまま散ってゆける桜のことが、心底うらやましく思った。
三
二日酔いで頭が痛い。昨日はそこまで量を飲んでいなかったつもりだったが、自分も若い頃に比べるとお酒に弱くなったらしい。
窓の外では、天気予報にはなかった雨が激しく降っていた。せっかくの休日に雨か、とも思ったが、仮に晴れていたとしても二日酔いでどこかへ出かける気分ではない。ただ、週末にお花見をする予定の人は多かっただろうから、世間の人は残念がっているだろうと思った。
(いいよな、桜って。雨が降ったら、散ってそれで終わりだろ)
二日酔いで気分が悪いせいか、昨日に続いてまたマイナスなことを考えてしまう。
家族と仕事に恵まれて、世間的にもある程度の地位と名誉があって、毎日が幸せだった-あの頃の自分の人生に雨を降らせて、あの頃の記憶のまま、全てを終わらせたい。
(そう思っても、僕たちは桜みたいなキレイな姿のまま終われないもんな)
外で雨に打たれる桜を想像しながら、僕は再びベッドにもぐりこんだ。
夕日が部屋の中まで差し込む頃、昼までの大雨が嘘のように上がり、青空が広がった。
1日中寝たり起きたりを繰り返していた僕は、この時間になってようやく気分が回復してきた。とりあえず空腹を満たそうと冷蔵庫を開けたが、すぐに食べられる物がない。僕は仕方なく近くのコンビニに歩いて行くことにした。
パーカーに着替えて玄関を出ると、春の空気が全身を包み込んだ。正直なところ家から出ること自体面倒に感じていたが、歩き始めると一気に憂鬱が全て吹き飛んだような気分になった。やはり、人間にとって引きこもりは精神に悪いらしい。
気分が良くなった僕は、コンビニは後回しにして近所の公園まで歩いてみることにした。そういえば、河川敷には桜が咲いていたはずだ。まあ、今朝の雨で散ってしまっただろうが―
公園の桜の樹は、花びらが半分ほど散っていた。てっきり花が全て落ちてしまったのではと思っていたが、そこまで桜は弱くないらしい。桜に向けてカメラを構えている人もちらほらいるが、満開の姿をトラックから連日見ていた僕からすると、その桜はいかにも中途半端で華が無いように感じられた。
僕は雨でできた水たまりに足をとられないよう、視線を落としながら桜の樹のそばへと近づいた。
(うわ、汚っな!)
泥水にまみれて公園の排水溝にたまった桜の花びらが見えて、つい心の中で叫んでしまった。
(なんだ、桜が散るのって、そんなに美しいものじゃないんだな。桜も雨風に打たれて泥水に交じって、惨めな姿で散っていくんだな)
そう思うと、僕はなぜか安心した気持ちになった。
視線を上げて散りかけの桜の樹を見つめると、花びらが散った部分からは、もう新しい葉が開きかけていた。
(そうか、君たちは花が散った後も終われないんだな)
心の中でつぶやいてから、あまりにも当たり前のことを考えた自分がおかしくなった。これまでの人生で幾度となく春から夏へと移り変わる桜を見てきたはずなのに、どうやら僕は春の姿しかしっかりと見ようとしていなかったようだ。
花が散った後も樹は生き続ける。次の年に向けて新しい葉をつける。
―そんな当然のことが、この日の僕には新鮮な発見に思えた。
四
僕はハンドルを握っていた。助手席には上司の高杉がいる。いつもと変わらぬ景色だが、季節はもう、夏に変わろうとしていた。
道路の左側を流れる川の河川敷では、葉を全身にまとった桜の樹が力強く生きている。桜の葉が、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
「僕やっぱり、夏の桜のように生きたいなって思います」
「なんだ? まだ中二病続いてるのか?」
「そうかもしれません」
「否定しないのかい。ていうか、散った後でいいの?」
「まあ、年中咲き続けられるならそれがいいですけどね。そんなの無理ですから」
「何かよう分からんが、とりあえず、頑張れよ」
「ふっ、雑なアドバイス」
眩しい夏の桜並木を横目に見ながら、僕たちのトラックは次の依頼主の家へと進み続けた。




