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第8話 : 地べたの夜空

第8話 : 地べたの夜空


 一週間は、長かった。


 月曜から木曜まで、わたしはいつもの部屋にいた。天井の罅を数えて、カーテンの隙間から時間を読んで、冷蔵庫のおにぎりを食べて、スマホを見て、眠って、起きて。何も変わらない四日間。でも一つだけ違ったのは、金曜日が待ち遠しかったことだ。

 学校に通っていた頃と、同じ感覚だった。週末が来るのを指折り数える。あの頃は土曜の部活が休みだから嬉しかった。今は、歌舞伎町に行けるから。理由が変わっただけで、カレンダーを見る目は同じだった。


 金曜の夕方。母さんと陸が家にいるうちに、シャワーを浴びた。髪を乾かして、パーカーとジーンズに着替えた。先週と同じ格好。リュックに財布と充電器を入れて、鏡を見た。

 先週の自分と比べて、何か変わっただろうか。わからない。見た目は同じだ。でも、鏡の中の自分の目が、ほんの少しだけ、どこかを見ている気がした。先週は目の焦点が合っていなかった。今は、ぼんやりとだけど、行き先がある。


 玄関で靴を履く。母さんがリビングから顔を出した。


「出かけるの?」


「友達のところ」


 嘘が、先週より滑らかに出た。それが少し怖かった。嘘は二回目から楽になる。楽になるたびに、罪悪感の角が丸くなっていく。


「遅くなる?」


「たぶん」


「気をつけてね」


 母さんの声は穏やかだった。先週の返信と同じ温度。「友達がいる」と信じてくれている。信じたいのかもしれない。わたしは「いってきます」と言って、ドアを閉めた。



 ローソンの前に着いたのは、午後九時を回った頃だった。


 先週は暗い路地を恐る恐る歩いた。今日は迷わなかった。新宿駅の東口を出て、一番街のアーチをくぐって、東宝ビルの横を抜けて、歌舞伎町タワーの裏に回る。たった一回歩いただけなのに、足が道を覚えている。身体は頭より記憶がいい。


 コンビニの灯りが見えた。青白い看板。その下に、先週と同じように何人かが座っている。

 ルカの赤いメッシュを探した。いた。壁にもたれて、缶ジュースを飲んでいる。レンが隣で何かを喋っている。カケルは少し離れた場所に座って、イヤホンをしている。


 五メートル手前で立ち止まった。また声をかけてもらえるだろうか。先週はルカが見つけてくれた。今日も待てばいい。でも待つのは甘えている気がする。自分から近づくべきだ。でも何て言えばいい。「来ました」? 「こんばんは」? どっちも違う。


 考えている間に、レンがこちらを見つけた。


「あ、なぎ、来た来た!」


 なぎ。

 先週は「なぎさちゃん」だった。今日は「なぎ」。二文字。フルネームでも、ちゃん付けでもない。愛称。わたしに愛称をつけた人は、レンが初めてだった。


 ルカが顔を上げて手を振った。先週と同じ、ひらっとした手の動き。


「遅いじゃん。来ないかと思った」


 来ないかと思った。待っていてくれた、ということだ。わたしが来ることを前提にして、しかも遅いと思うくらいには待っていてくれた。胸の奥がじんとした。


「ごめん。電車、混んでて」


 嘘ではないけど本当でもない。混んでいたのは事実だけど、遅れた理由は電車じゃなくて、家を出る前に鏡の前で十五分くらい迷っていたからだ。パーカーの色はこれでいいか。髪はこのままでいいか。誰に見せるわけでもないのに。


「座りな」


 ルカが自分の隣を叩く。先週と同じ仕草。わたしは言われるまま座った。アスファルトの硬さと冷たさが、お尻から伝わってくる。六月の半ば。夜は蒸し暑いのに、地面はひんやりしている。上半身は汗ばむのに、下半身が冷える。この不均衡が、歌舞伎町の温度だった。


 レンがわたしの顔を覗き込んだ。


「なぎ、肌きれいじゃん。すっぴん?」


「うん」


「もったいなー。メイク映えするタイプだよ、絶対。目が大きいし、輪郭もいいし」


 メイク映え。そんなことを言われたのは初めてだった。中学では自分の顔について何か言われること自体が恐怖だった。加工された画像がLINEで回ったあの夜から、鏡を見るのが怖くなった時期がある。自分の顔に価値があるなんて、考えたことがなかった。

 レンは嘘を言う顔をしていなかった。本気でわたしの肌を褒めている。メイクが好きな子にとって、すっぴんの肌がきれいなことは、まっさらなキャンバスを見つけたのと同じ意味なのかもしれない。


「今度メイク教えてあげる。地雷系、似合うと思うんだよね、なぎ」


「地雷系って、あの目の下に赤いやつ?」


「そうそう。涙袋強調して、目の下にチーク入れるの。やってみたくない?」


 やってみたいかどうか、わからなかった。でもレンが楽しそうに話しているから、「うん」と頷いた。レンが「やったー」と声を上げた。メイクの話をしているときのレンは、本当に楽しそうだ。顔の角度や光の当たり方を語る目が輝いている。


 カケルは先週と同じように、壁にもたれてイヤホンをしていた。目を閉じているように見えるけど、時々薄く開いてこちらを確認している。わたしが座ったことを認識したらしく、片耳のイヤホンを少しだけずらした。


「カケル、何聴いてるの?」


 聞いてみた。先週の「何してるの?」より、少しだけ踏み込んだ質問。カケルは一瞬わたしを見て、イヤホンの片方を差し出した。


 受け取って、耳に入れた。

 電子音。低くて深いベースの上に、かすかなピアノのフレーズが浮かんでいる。メロディは荒削りだけど、どこか引っかかる。繰り返し聴きたくなる種類の音だった。途中でノイズが混じる。雑踏みたいな音。車のクラクション。


「これ、自分で作ってるの?」


 カケルが頷いた。


「すごい」


 素直にそう思った。わたしには音楽のことはわからない。でも、この曲には「感情」がある。カケルが普段口にしない言葉が、音になって流れている気がした。


 カケルがイヤホンを戻した。わたしの感想に対して何か言いたそうな顔をしたけど、結局「ん」とだけ言って目をそらした。でも、イヤホンを差し出してくれたこと自体が、カケルにとっては大きな一歩なのだと、なんとなくわかった。


 午後十一時を過ぎた頃、ルカが「ちょっと歩こう」と言った。


 四人で立ち上がる。レンが「どこ行くの」と聞く。ルカは「適当に」と答えた。歌舞伎町を歩く。ルカが先頭で、レンがその横に並んで、カケルとわたしが少し後ろを歩く。

 夜の歌舞伎町は、先週よりも少しだけ見慣れた場所になっていた。ネオンの色は同じだ。赤、青、ピンク、金。でも一週間前ほどの衝撃はない。匂いも同じ。焼き鳥と排水溝と香水が混ざった、あの匂い。耳に入ってくる音も同じ。客引きの声、カラオケの低音、遠いサイレン。全部が同じなのに、怖さが少し減っている。隣に誰かがいるだけで、街の見え方が変わる。


 コンビニで食べ物を買い出した。ルカがカップ麺を二つ。レンが菓子パンとポテチ。カケルはペットボトルの水だけ。わたしはおにぎりを二つ買った。昆布と鮭。会計を済ませて店を出ると、ルカが「こっち」と路地に入っていった。


 ビルとビルの隙間。非常階段の下に、コンクリートのちょっとしたスペースがあった。二メートル四方くらい。人が四人座れるだけの、狭い空間。頭上には非常階段の鉄骨があり、その向こうに夜空がわずかに覗いている。


「ここ、うちらの場所」


 ルカがそう言って、コンクリートの地面に座った。レンが「あ、なぎ知らないのか。ここ秘密基地ね」と笑った。秘密基地。小学生みたいな言い方。でもこのビルの隙間は、確かにそう呼ぶのがふさわしい場所だった。大通りからは見えない。人通りもない。歌舞伎町の喧騒が、壁一枚向こうでくぐもって聞こえる。


 四人で座って、買ってきたものを広げた。カップ麺のお湯はコンビニでもらった。ルカが蓋を開けて、湯気がコンクリートの壁にぶつかって消えていく。

 レンがポテチの袋を開けて、みんなに回した。カケルが一枚だけ取って、また壁にもたれた。わたしは昆布のおにぎりを食べた。冷たい海苔が指先に触れる。六月の夜に食べるコンビニのおにぎりは、もう二回目だ。一回目はレンにもらった。今回は自分で買った。同じおにぎりなのに、回数が増えると味が変わる。前よりおいしい。


 食べ終わった後、ルカが地面に寝転がった。


「なぎも寝てみな」


 言われるまま、わたしもコンクリートの上に仰向けになった。背中が硬い。冷たい。Tシャツ越しに、地面の温度が伝わってくる。骨がごつごつ当たる。ベッドとは何もかもが違う。

 でも、目を開けたら。


 ビルとビルの隙間に、細い夜空が見えた。


 黒い空。星は見えない。歌舞伎町のネオンが明るすぎるから。でも、細い空の端を、飛行機の赤い光がゆっくりと横切っていった。そしてもう一つ、白い光が反対方向に動いている。二つの光が、わたしの頭の上を交差して、それぞれの方向に消えていく。


「星は見えないけど、飛行機は見えるんだね」


 わたしが言うと、ルカが「うん。贅沢でしょ」と笑った。


 レンも寝転がった。「うわ、背中いっったい」と言いながら、スマホを頭の上に掲げて自撮りしている。カケルだけは寝転がらず、壁にもたれたまま上を見ていた。でもイヤホンは外している。


 地べたに寝転がると、世界が違って見えた。

 立っている人たちの足が、視界の端を通り過ぎていく。非常階段の隙間から覗く大通り。革靴の足音。ヒールの音。酔っ払いの千鳥足。スニーカーの足早な歩き。全部が頭の上を通過していく。わたしたちは地面に近い場所にいて、その足音を聞いている。

 社会の底辺にいるということなのかもしれない。学校にも行かず、家にも帰らず、歌舞伎町の路地裏のコンクリートに寝転がっている十代の子どもたち。ニュースで見たら「問題」として語られる存在。危険な場所にいる危険な子どもたち。

 でも。

 底にいるからこそ見える空があった。


 ビルの隙間の、細い、細い夜空。立っていたら見上げることもない、あの隙間。地面に寝転がって初めて、そこに空があることに気づく。星は見えなくても、飛行機が横切る。風が通る。空は、どこにいても空だ。


「ねえ」


 レンが言った。


「おれたち、地べたで夜空見てんの、けっこうエモくない?」


 ルカが「エモいって言うやつがいちばんエモくない」と突っ込んだ。レンが「ひどー」と笑う。カケルの口元が少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。



 深夜を過ぎた頃、もう一人合流した。


 ミキという名前の女の子。先週もいたけど、ほとんど話さなかった。地雷系のメイクが濃くて、まつげが長くて、声が高い。レンと仲がいいらしく、二人でスマホの画面を覗き合っている。


 ルカがカップ麺を啜りながら、ミキに声をかけた。


「ミキ、今日は家帰んないの?」


「帰りたくない」


 ミキの声は軽かった。「帰りたくない」を、コンビニに行くのが面倒くらいの温度で言っている。でもわたしは、その軽さの裏に何かがあることを知っていた。帰りたくないという言葉を軽く言える人は、重く言えなくなった人だ。


 ミキは自分のことを少しだけ話した。母親が再婚した。新しい父親と合わない。同じ屋根の下にいるとストレスで過呼吸になる。だから夜は外に出る。歌舞伎町に来る。ここにいれば呼吸ができる。


 わたしは黙って聞いていた。ミキの話は、わたしの話とは違う。でも、「ここにいると息ができる」という部分だけが、重なった。場所が違っても、理由が違っても、「息ができない場所」から逃げてきた子どもたちが、ここに集まっている。

 わたしだけじゃない。そう知った瞬間、安心と同時に、やるせなさが込み上げてきた。安心してはいけない気がした。「自分だけじゃない」ことは、「みんな苦しい」ということでもあるから。


 ミキが話し終わった後、ルカが「そっか」と言った。

 あの「そっか」だ。先週、わたしに向けて言ったのと同じ二文字。ルカは全員に「そっか」を配っているのだろう。理由を聞かない。掘り下げない。ただ受け止める。

 ここでは「そっか」が通貨みたいなもだった。それ以上の言葉は必要ない。理由を追及されない。事情を根掘り葉掘り聞かれない。「そうなんだ」で済む場所。わたしがいじめで不登校になったことも、ミキが家にいられないことも、ルカの事情もレンの事情もカケルの事情も。全部「そっか」で受け止められて、その先は本人が話したいときに話せばいい。


 わたしは自分のことを話さなかった。いじめのことも、不登校のことも。話すかどうか迷って、迷ったまま夜が過ぎた。でもそれでよかった。話さなくてもいい場所。それがここだった。


 午前三時を過ぎた。ミキとレンはネカフェに行った。「シャワー浴びたい」とミキが言って、レンが「おれっちも行く」とついていった。


 ルカとカケルとわたしの三人が、ビルの隙間に残っている。カケルは壁にもたれて目を閉じている。ルカは缶ジュースの最後の一口を飲み干して、空き缶を横に置いた。


 わたしは寝転がったまま、空を見ていた。飛行機はもう通らない。ただ暗い空があるだけ。でも不思議と、飽きなかった。何もない空を見ていると、頭の中が静かになる。部屋の天井を見ているときは、罅を数えてしまう。ここの空には罅がない。


 ルカが横で小さく欠伸をした。


「なぎ、来週も来る?」


「来ると思う」


「思うじゃなくて、来な」


 命令じゃない。誘い。でもルカの口調には、有無を言わせないところがある。「来ると思う」では不十分で、「来る」と言い切ってほしいのだ。約束がほしい。ルカは約束を大事にする人なのかもしれない。


「来る」


「よし」


 ルカが短く笑った。それだけのやりとりだったけど、わたしの中に小さな錨が下りた気がした。来週の金曜日に、ここに来る。それだけの予定。でもカレンダーに印がつくだけで、一週間の形が変わる。


 始発の時刻が近づいていた。東の空がわずかに白んでいる。ネオンがまだ光っているけど、空の色が変わり始めると、その光が弱くなって見える。朝が夜を押し返している。


 立ち上がった。お尻がじんじんする。コンクリートの上に二時間以上座っていたから。足の裏の感覚が鈍い。


「帰る」


「ん。気をつけて」


 ルカが片手を上げた。カケルが目だけ開けて、すぐ閉じた。


 ビルの隙間を抜けて、大通りに出た。歌舞伎町の朝は始まりかけている。ゴミ収集車のエンジン音が遠くで唸っている。清掃員がホースで歩道を洗っている。水がアスファルトの上を流れていく。夜の匂いが、少しずつ薄まっていく。


 新宿駅に向かって歩きながら、スマホを取り出した。メモ帳を開く。書きたいことがあった。


 「コンクリートの隙間から、空が見えた。星はなかったけど、飛行機が横切った。あれに乗っている人は、わたしたちが地面にいることを知らない」


 書いた。もう一つ。


 「地べたに座ると、足音が聞こえる。革靴、ヒール、スニーカー。全部の足が、わたしたちの上を通り過ぎていく。でもわたしたちは下にいるから、空が見える。上にいる人には見えない空が」


 書いた。指が止まらない。もう一つ。


 「底にいるから見えるものがある。それは慰めじゃない。事実だ」


 三つのメモを書き終えて、メモ帳のタイトルを変えた。

 無題だったメモのフォルダに、名前をつけた。


 「トー横日記」


 日記。日記なんてつけたことがなかった。でもこれは日記と呼ぶしかない。歌舞伎町で見たものを、感じたことを、言葉にして残す。誰に見せるわけでもない。自分のための記録。息をしている証拠。

 先週のメモと合わせて、四つ。「歌舞伎町の夜は、匂いで始まる」「名前を呼ばれた」「コンクリートの隙間から空が見えた」「底にいるから見えるものがある」。四つの短い文。たったそれだけだけど、ここにはわたしの二週間が入っている。


 駅に着いた。改札を通って、ホームに降りる。始発の電車を待つ。先週と同じ早朝のホーム。まばらな人影。酔い覚ましのサラリーマン、早朝シフトの作業着の人。

 電車が来た。乗り込んで、窓際の席に座る。車窓に映る自分の顔。クマは相変わらずだけど、先週よりひどくはない。パーカーのフードを被って、目を閉じた。


 電車が動き出す。揺れが心地いい。歌舞伎町の地面より柔らかいシートに、身体が沈んでいく。

 眠りかけながら、考えていた。来週もあの場所に行く。ルカと約束した。レンがメイクを教えてくれると言った。カケルの曲をまた聴きたい。ミキの話の続きは聞かない。聞かなくていい。それぞれの事情はそれぞれのもので、共有するかどうかは本人が決めること。


 車窓の外を、朝の光が流れていく。住宅街の屋根。電線。コンビニの看板。洗濯物が干され始めている家がある。六月の朝は明るくて、世界が白く光っている。


 この光の中に帰っていく。天井の罅がある部屋に、母さんの溜息がある家に。でも来週の金曜日には、またネオンの下に行く。二つの世界を行き来する生活が始まった。どちらが本当のわたしなのかは、まだわからない。


 わたしが確かだと言えるのは、一つだけ。

 あのコンクリートの地面は硬くて冷たかったけど、あの隙間から見えた空は、わたしの部屋の天井よりずっと広かった。

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