第7話 : 最初の声
第7話 : 最初の声
赤いメッシュが、人混みの中に消えていった。
わたしはまだベンチに座っていた。へこんだ缶コーヒーを両手で握ったまま。心臓がうるさい。さっきの酔った男の指先が、まだ視界にちらついている。でもそれよりも、あの子の声のほうが強く残っていた。
「また来るなら、もうちょっと奥。タワーの裏のローソンの前」
場所の名前じゃない。地図に載っていない。でも、わたしにだけ渡された座標みたいなもだった。
缶コーヒーはもうぬるくなっていた。アルミの冷たさが消えて、わたしの手の温度と同じになっている。二十三時を過ぎていた。終電にはまだ間に合う。立ち上がって、新宿駅に向かえばいい。電車に乗って、埼玉に帰って、ベッドに潜って、天井の罅を数えれば、この夜は終わる。
いつもの夜に戻る。
足が動かなかった。
帰りたくないのではなく、まだ動きたくなかった。この場所に留まっていたいのでもなく、ただ、あの声を反芻していたかった。「あそこのほうが安全だから」。安全。わたしの安全を気にかけてくれた人がいた。名前も知らない人が。
十分くらい、座っていたと思う。
立ち上がった。缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。リュックの紐を肩にかけ直した。
新宿駅の方向は、右だ。
わたしの足は、左に向かった。
歌舞伎町タワーの裏。ローソンの看板が、暗い路地の奥で青白く光っている。
店の前に出ると、自動ドアの横、アスファルトの上に四、五人の若者が座っていた。コンビニの灯りに照らされた輪郭。誰かがスマホをいじっている。誰かが缶ジュースを飲んでいる。低い声で話しているけど、何を言っているかはここからでは聞こえない。
その中に、赤いメッシュが見えた。
わたしは五メートルくらい手前で立ち止まった。近づけない。声が出ない。さっきベンチで助けてもらったのに、今さらのこのこ行くのは図々しい気がした。何と言えばいいのかもわからない。「さっきはありがとうございます」? それだけ言って、どうする?
帰ろうか。やっぱり帰ろう。ここにいる理由がない。
踵を返しかけたとき、声が飛んできた。
「あ、さっきの子。来たんだ」
赤いメッシュの子が、こちらを見ていた。片手を軽く上げている。笑ってはいないけど、拒絶の顔でもない。「こっちおいで」と手招きをしている。
わたしの足は、また動いた。自分の意思なのか、あの手招きの力なのか、よくわからない。コンビニの灯りの中に、一歩、また一歩。
「そこ座りな」
赤いメッシュの子が、自分の隣のアスファルトを手で叩いた。わたしは言われるまま座った。コンクリートが冷たい。六月の夜なのに、地面は思ったより温度が低かった。お尻にその冷たさが伝わってくる。
「わたし、ルカ。あんたは?」
名前を聞かれた。名前。瀬川凪沙。中学で笑われた名前。高校で消えかけた名前。でもここでは、まだ何の意味もついていない名前。
「……凪沙」
「なぎさ。いい名前じゃん」
いい名前。
そう言われたのは、いつ以来だろう。母さんがつけてくれた名前。「波が穏やかでありますように」という意味だと、小さい頃に聞いた。中学のグループLINEでは「なぎさww」と笑われた。その記憶がべったり貼りついていた名前を、この子は「いい名前じゃん」と言った。何の裏もなく。何の前情報もなく。ただの感想として。
指先がじんと温かくなった。名前を呼ばれると、輪郭が戻ってくるみたいだ。透明だった身体に、少しだけ色がつく。
「こっちはレン」
ルカが、隣に座っている子を指さした。髪を派手に染めている。ブリーチした金髪の上にピンクのインナーカラーが覗いている。メイクが濃い。でも雑じゃなくて、丁寧に描かれたアイラインが蛍光灯の光を反射している。
「いやマジで? 新入りじゃん!」
レンがわたしの顔を覗き込んできた。距離が近い。声のテンションが高い。
「いくつ? 高校生?」
「十六、です」
「マジで? おれっちと同い年じゃん! よろしくー」
わたしは思わず少し後ろに引いた。レンは気にしていない。というか、わたしの反応を見て笑っている。楽しそうに。わたしをからかっているのではなく、純粋に新しい人が来たことが嬉しいという顔だった。
おれっち。一人称。この子はどういう子なんだろう。男の子に見えるし、女の子にも見える。でも、どちらかを判断する必要はない気がした。レンはレンだ。
もう一人、少し離れた場所に座っている子がいた。壁にもたれて、イヤホンをしている。片耳だけ。もう片方の耳は外してある。目は閉じているようにも見えるし、薄く開いているようにも見える。わたしが来たことに気づいているのかいないのか、わからない。
「あれはカケル。無口だから気にしないで」
ルカがそう言うと、カケルが片耳のイヤホンを少しだけずらした。目がこちらを向く。
「……どうも」
それだけ言って、またイヤホンを戻した。カケルの声は低くて、小さかった。でも聞こえた。わたしの「ありがとうございます」より、まだ音量があった。
他にも二、三人いた。名前を言われたけど、覚えられなかった。情報が多すぎる。ルカ。レン。カケル。三人の名前だけが頭に残った。
深夜零時を過ぎた頃から、グループの空気がゆるくなった。
最初のうち、わたしはほとんど喋らなかった。座っているだけ。コンビニの灯りの下で、みんなのやりとりを聞いていた。レンがスマホで撮った動画をみんなに見せている。ルカが「それ前にも見た」と突っ込む。誰かが笑う。カケルだけが黙っている。
たわいない会話だった。好きなアニメの話。推しのアイドルの話。「あのネカフェ、シャワー使えるのにジュース飲み放題ついて千五百円だよ」という情報交換。「今日のドンキ、ポテチ安かった」という報告。
普通の高校生と変わらない。声の大きさも、笑い方も、スマホの持ち方も。違うのは、ここが教室ではなく歌舞伎町の路上であること。蛍光灯ではなくコンビニの看板に照らされていること。椅子ではなくアスファルトに座っていること。
レンがコンビニのおにぎりを買ってきて、みんなに配った。
「はい、なぎさちゃんも」
鮭のおにぎり。三角形のパッケージが手のひらに乗る。まだ冷蔵庫の冷たさが残っている。
「ありがとう」
「いいっていいって。おれっち今日バイトの日だったから、太っ腹なの」
レンが笑う。わたしはおにぎりのフィルムを剥がした。鮭。家の冷蔵庫にもあった、母さんが握った鮭のおにぎりと同じ具材。でも味が違う。コンビニのおにぎりは塩が均一で、海苔がパリパリしている。母さんのおにぎりは塩加減がちょうどよくて、海苔がしっとりしている。
どっちがおいしいかではなく、どこで食べるかが味を変えるのだと思った。歌舞伎町の路上で食べるコンビニのおにぎりは、家のベッドで食べるおにぎりとは違う温度を持っていた。冷たいのに、温かい。
ルカがわたしの隣に座って、自分の分のおにぎりを食べている。ツナマヨ。
「食べれてる?」
「はい」
「敬語やめなよ。同い年のレンにまで敬語使ってるでしょ」
「癖、で」
「ま、そのうち取れるよ」
ルカが何でもないように言った。「そのうち」。また来ることが前提の言葉だった。一回きりの訪問者ではなく、「そのうち」敬語が取れるくらい長くここにいる人間として、わたしは扱われている。
深夜一時を過ぎた。レンは自分のスマホで配信をチェックしている。カケルはイヤホンをつけたまま壁にもたれている。他のメンバーはネカフェに移動したらしく、二人ほどいなくなった。残っているのは、ルカとレンとカケルとわたしの四人。
レンが「寒くない? おれっちコンビニで温かいの買ってくるけど」と言って立ち上がった。カケルも「トイレ」と言って一緒に行った。
ルカとわたしが、二人きりになった。
コンビニの看板が、わたしたちを照らしている。青白い光。自動販売機の低い唸りが、遠くのカラオケの音に混ざっている。
ルカが横を向いて、わたしの顔を見た。
「なぎさ、学校は?」
直球だった。でも、責めるような声じゃなかった。窓口の係員が「お名前は?」と聞くのと同じくらい、事務的な声。踏み込んでくるのに、踏みつけない声。
「……行ってない」
言えた。「行ってない」。この三文字を、母さんの前では言えなかった。担任の横山先生にも言えなかった。「わかりません」とか「考えます」とか、そういう曖昧な言葉で逃げていた。でもルカの前では言えた。理由はわからない。この人が怖くないからか。それとも、この場所が教室でも家でもないからか。
ルカは追及しなかった。
「そっか」
二文字。それだけ。
理由を聞かない。「なんで」と問い詰めない。「いつから」も「どうして」も聞かない。ただ「そっか」と言って、また前を向いた。自動販売機の光を見ている。
わたしは泣きそうになった。
涙は出なかった。でも、鼻の奥がつんとして、呼吸が震えた。「そっか」の二文字が、わたしの中のどこか深いところに届いた。
理由を聞かれない。追い詰められない。「そっか」と受け止めてもらえる。それがどれだけ楽だったか。母さんの「いつまでこうしてるの」や、担任の「いつ頃来られそう?」や、父さんの沈黙や。そういうものの全部が、「そっか」の二文字で中和されていく気がした。
ルカが缶ジュースの最後の一口を飲み干して、ベンチの横に置いた。
「泊まるとこある?」
「電車で、帰れます」
「始発まであと三時間くらいかな。ネカフェ行く金ある?」
財布を確認した。千円札が二枚と小銭。行けなくはない。でも、ネカフェに一人で入ったことがない。入り口がわからない。システムがわからない。
「まあ、ここにいなよ。朝まで」
ルカはわたしの迷いを見透かしたように言った。押しつけがましくない。「ここにいなよ」は命令ではなく、提案だった。選択肢を渡してくれただけ。行きたければ行けばいいし、いたければいればいい。
「はい」
「だから敬語」
「……うん」
ルカが少し笑った。わたしも笑った。笑えた。歌舞伎町の路上で、深夜一時に、知り合って数時間の人の隣で。こんな場所で笑えるなんて思わなかった。
レンとカケルが戻ってきた。レンが温かいカフェオレを二つ持っている。一つをわたしに差し出した。
「はい、新入りさん。眠気覚まし」
受け取った。紙カップの温かさが、指先にじんわり広がる。六月の夜は蒸し暑いはずなのに、地面に座っていると身体の芯が冷えてくる。温かい飲み物が、その冷えを溶かしていく。
「ありがとう」
「だから敬語じゃないのは偉いけど、もうちょい崩していいよ。おれたちそんな偉くないから」
レンがへらっと笑った。カケルは何も言わずに壁に戻って、イヤホンを両耳につけた。自分の世界に閉じこもっている。でも嫌な閉じこもり方じゃなかった。カケルにとってのイヤホンは、わたしにとっての布団みたいなものかもしれない。安全な場所。
その後、四人でしばらく過ごした。レンが話の中心にいて、ルカが時々突っ込んで、カケルは黙って聞いている。わたしはほとんど喋らなかった。でも排除されている感じはなかった。四人目の椅子が、静かに用意されている感じ。座っていていいという空気。
レンが凪沙に話を振ることがあった。「なぎさちゃんってさ、好きなアニメとかある?」。わたしは「あんまり見ない」と答えた。レンが「えー、じゃあ何してんの普段」。わたしは少し考えて「本を、読む」と答えた。レンが「おー、知的じゃん」と目を輝かせた。大げさな反応。でも嘘じゃないとわかる。レンは人の話を聞くのが好きな子だ。
午前三時を過ぎると、さすがに眠くなってきた。レンがあくびをしている。ルカも目を閉じている。カケルは相変わらずイヤホンをしたまま壁にもたれている。寝ているのかもしれない。
わたしも目を閉じた。アスファルトの冷たさはもう気にならなかった。背中にコンクリートの壁。ローソンの看板の光がまぶたの裏を薄く照らしている。遠くでタクシーのクラクションが鳴った。酔っ払いの笑い声が通り過ぎていった。歌舞伎町のノイズが、不思議と子守唄のように聞こえる。ノイズキャンセリングの逆だ。全部の音が入ってくるのに、うるさいはずなのに、そのざわめきの中にいると安心する。
部屋の沈黙よりも、この騒音のほうが眠れる。おかしな話だ。
始発の時刻が近づいていた。空が変わり始めている。黒から濃い紫へ。紫から灰色へ。ネオンの光が薄くなっていく。街が夜の服を脱ぎ始めている。
わたしは目を開けた。首が痛い。壁にもたれて眠っていたから。隣を見ると、ルカがまだ目を閉じている。レンは起きていて、スマホをいじっている。カケルは同じ姿勢のまま壁に寄りかかっている。
立ち上がった。足がしびれていた。
「帰る」
自分の声が、思ったより大きく出た。ルカが目を開けた。
「ん。始発?」
「うん」
ルカが片手をひらっと上げた。大きな身振りではない。軽い挙手。それだけの動作に、「気をつけて」と「またね」が両方入っているように感じた。
「またおいでよ」
ルカが言った。また、だ。さっきと同じ。「もし来るなら」じゃなく「また」。わたしがまた来ることを、前提にしている。
「……うん」
レンが顔を上げた。
「おー、帰るの? 気をつけてね。電車で寝過ごすなよ」
「ありがとう」
カケルは何も言わなかった。目だけがこちらを向いて、すぐにそらされた。でもそれが、カケルなりの「またね」だったのかもしれない。
ローソンの前を離れた。歌舞伎町の路地を歩いて、大通りに出る。朝の空気が冷たい。夜とは匂いが違う。六月の朝はまだ少しだけ肌寒くて、湿った空気が肌に張りつく。ゴミ収集車がどこかでエンジンをかけている音が聞こえる。ホースの水音。始発に向かうスーツ姿の人とすれ違う。
夜の歌舞伎町が終わろうとしている。
新宿駅に向かいながら、一度だけ振り返った。一番街のアーチの向こうに、まだ消えきっていないネオンがちらちら光っている。あの光の下に、ルカたちがいる。
駅に着いて、改札を通って、ホームに降りた。始発の電車を待つ。早朝のホームにはまばらな人影。酔い覚ましのサラリーマン、早朝シフトの作業着の人。わたしはベンチに座って、スマホを取り出した。
メモ帳を開いた。何か書きたかった。今夜のことを、言葉にしておきたかった。消えてしまう前に。
「歌舞伎町の夜は、匂いで始まる」
それだけ書いて、指が止まった。もう一行。
「名前を呼ばれた。"いい名前じゃん" と言われた。それだけで、指先から温度が戻ってくる」
メモを閉じた。電車が来た。乗り込んで、端の席に座った。車内はがらがらで、蛍光灯の白い光が目に痛い。窓ガラスに自分の顔が映っている。目の下にクマ。唇が乾いている。一晩中起きていた顔だ。でも、行きの電車のときとは何かが違う。
表情だろうか。口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。
電車が動き出す。新宿の灯りが遠ざかる。ビルの光が流れて、やがて住宅街の屋根と電線に変わる。朝の光が車窓から差し込んで、わたしの膝の上に四角い光の影を作った。
わたしは久しぶりに、「誰かに名前を呼ばれた夜」を過ごした。「なぎさ」と呼ばれた。「いい名前」と言われた。おにぎりをもらった。カフェオレをもらった。「ここにいなよ」と言われた。「またおいでよ」と言われた。
たったそれだけのことだ。学校なら一日に何度もある種類のやりとり。でもわたしにとっては、何ヶ月ぶりかの出来事だった。
帰りの電車は、行きよりずっと軽かった。




