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第6話 : 改札の向こう

第6話 : 改札の向こう


 新宿駅は、わたしを飲み込もうとした。


 ホームから階段を上がった瞬間、人波がぶつかってきた。右から左へ、左から右へ。スーツの肩、買い物袋、キャリーケースの車輪の音。構内放送が天井のスピーカーから降ってくるけど、雑踏にかき消されて半分しか聞こえない。甘い香水の残り香と、誰かの汗と、地下から吹き上がる生温い風が混ざっている。

 三週間、部屋にいた身体には、情報量が多すぎた。


 一瞬、めまいがした。柱にもたれて、目を閉じる。深呼吸。吸って、吐いて。周囲の音が遠のいて、また戻ってくる。目を開ける。足元のタイルが揺れている気がするのは、たぶん気のせいだ。

 世界ってこんなにうるさかったっけ。

 部屋にいた三週間、わたしの耳が聞いていたのは冷蔵庫のモーターと母さんの溜息と、作業配信のキーボードの音だけだった。それがいきなり、新宿駅のど真ん中に放り出されている。耳が追いつかない。目も追いつかない。鼻も。全部の感覚が三週間のブランクを訴えている。


 改札を出るまでに十分かかった。出口がわからなかった。東口か南口か、地下なのか地上なのか。路線図は読めたのに、駅の構内図は頭に入ってこない。人の流れに逆らわないように歩いて、気づいたら東口の外に出ていた。



 地上に出た。六月の午後。空が白い。曇りではなく、湿気のせいで空全体がぼんやりと膜がかかったように見える。梅雨の手前。空気がぬるくて重い。

 歌舞伎町に行くつもりだった。でも、まだ明るかった。午後二時か三時くらい。SNSで見たトー横の動画は、いつも夜だった。ネオンの光。深夜の路地。昼間に行っても、あの景色はないだろう。

 それに、まだ心の準備ができていない。電車に乗るまでの勢いはあったけど、新宿駅の人混みで一度リセットされてしまった。もう少し、地上の空気を吸いたかった。


 東口を出て、歩き始めた。行き先は決めていない。人の流れに沿って歩くと、大きな通りに出た。アルタの前。大きなスクリーンにアイドルの映像が流れている。交差点を渡る人の多さに圧倒される。信号が変わるたびに、何十人もの人が一斉に動き出す。こんなにたくさんの人が、こんなに普通に歩いている。わたし以外の全員が、どこかに行く場所を持っているように見えた。

 横断歩道を渡りながら、すれ違う人の顔を見た。誰もわたしを見ていない。目が合わない。ぶつかりそうになっても、相手は避けて通り過ぎるだけだ。教室でもそうだった。でもここでは、無視されているのではなく、お互いが他人だから目が合わないだけだ。その違いが、少しだけ心地よかった。


 紀伊國屋書店の看板が目に入って、足が止まった。

 本屋。入りたい、と思った。本は好きだった。中学の頃、休み時間に図書室に逃げ込んでいたのは、本が好きだったからでもある。透明になるための場所として選んだ図書室で、わたしは物語の中に潜っていた。物語の中では、わたしは透明じゃなくてよかった。主人公と一緒に冒険して、主人公と一緒に泣いて、主人公と一緒に怒る。そこではわたしにも感情があった。

 自動ドアの前で立ち止まった。ガラス越しに本棚の列が見える。エスカレーターに乗る人の背中が見える。あの中に入ったら、きっと何時間でもいられる。棚の間をうろうろして、背表紙を眺めて、気になった本を手に取って、最初の数ページを立ち読みして。それだけで半日が過ぎる。

 でも、入らなかった。今日は本の世界に逃げ込む日じゃない。自分の足で、画面の中にしかなかった場所に立つ日だ。紀伊國屋の自動ドアに背を向けて、また歩き始めた。


 それでもしばらく新宿の街を歩いた。地下通路を抜けて、百貨店の前を通り過ぎた。ショーウインドウに映る自分の姿がちらりと見えた。パーカーにジーンズ、リュック。百貨店の高級そうなマネキンの横で、わたしは場違いに見える。

 公園を見つけて、ベンチに座った。リュックから水を出して飲む。ぬるくなっていた。ベンチの横に鳩がいて、わたしの足元をうろうろしている。何もあげるものはない。鳩は少し首をかしげて、別の方に歩いていった。

 人を見ていた。買い物をする女性。スマホで道を調べている外国人。手をつないで歩くカップル。ベビーカーを押す父親。みんな自分の世界を持っていて、わたしの存在に気づかない。

 歌舞伎町にいなくても、ここでもわたしは透明だった。でも、部屋で透明でいるのと、街の中で透明でいるのは、少し違った。部屋の透明は窒息する。街の透明は、風が通る。



 夕方になった。空の色が変わり始めた。白から薄い紫へ。ビルの隙間に見える西の空がオレンジに染まっている。時刻はたぶん六時過ぎ。

 足が、歌舞伎町の方へ向かっていた。


 別に行くだけ。見るだけ。危なかったらすぐ帰る。

 自分に言い聞かせた。バスに乗る前の子どもみたいに。大丈夫、大丈夫、と心の中で繰り返しながら、靖国通りに向かって歩いた。


 一番街のアーチが見えた。まだ夕日が残っている時間帯の歌舞伎町は、思ったより普通の繁華街だった。居酒屋の看板、カラオケの看板、ラーメン屋のドアから出てくる湯気と醤油の匂い。観光客がスマホを構えている。家族連れもいる。映画館に向かう人たちが並んでいる。

 普通だ。テレビで見たような、危険な街には見えない。

 わたしはアーチをくぐった。上を見上げると、「歌舞伎町一番街」の文字。ここから先が、画面の中でしか見たことのなかった場所だ。足を踏み入れた瞬間、何かが変わるかと思った。でも何も変わらない。アスファルトの感触は駅前と同じだし、空気の温度も同じだ。特別な場所のはずなのに、足の裏の感覚は普通だった。


 でも、暗くなるにつれて、街が変わっていった。


 ネオンが灯り始める。最初はぽつぽつと、まばらに。やがて一斉に、赤、青、ピンク、金色。看板の光が路面に落ちて、水たまりの上で揺れている。さっきまで灰色だったビルの壁が色に染まっていく。空気の匂いも変わった。昼間はラーメンとコーヒーの匂いだったのが、夜になると焼き鳥の煙と、排水溝の湿った匂いと、すれ違う人たちの香水が混ざり始める。街が着替えている。昼の服を脱いで、夜の服を着ている。

 客引きの声が聞こえ始めた。「いらっしゃいませー」ではなく、「お兄さん、どう?」「ねえ、飲みに行かない?」。道端に立っている男の人たちが、通り過ぎる人に声をかけている。わたしの横を通るとき、一人が視線を向けた。でもすぐにそらした。十六歳のパーカー姿は、彼らのターゲットではないらしい。それが安心でもあり、少し寂しくもあった。ここでも透明か、と思った。

 酔った人が増えた。ネクタイを緩めたサラリーマンがふらふら歩いている。大声で笑う集団がいる。タクシーのクラクションが鳴る。カラオケの低音がどこかのビルから漏れてくる。


 怖かった。

 心臓が早くなっている。人混みの圧力が、新宿駅のときとは違う種類の圧迫感を持っていた。駅の人混みは「通り過ぎる」人たちだったけど、歌舞伎町の人混みは「留まっている」人たちだ。道端に立ち、座り、声を出し、こちらを見ている。


 でも、同時に気づいた。

 怖いのに、息ができている。


 部屋にいるとき、息をしている感覚がなかった。呼吸はしていたはずだけど、肺に空気が入っている実感がなかった。ただ生きているだけ。機能としての呼吸。

 ここでは違う。心臓がばくばくしている。足の裏でアスファルトを踏んでいる。湿った空気が鼻の奥に入ってくる。ネオンの光が目に刺さる。身体の全部が反応している。怖いけど、生きている感じがする。


 皮肉だった。危ない場所にいることで、「自分が存在している」と感じている。安全な部屋では透明だったのに、危険な街では輪郭がある。


 わたしは歌舞伎町の奥へ歩いた。東宝ビルが見えてきた。ゴジラの頭が、夜空を背景にシルエットになっている。SNSで何度も見た景色だ。でも画面の中のゴジラには匂いがなかった。本物の歌舞伎町には匂いがある。焼き鳥と排水溝と香水とタバコが混ざった、あの匂い。

 シネシティ広場に行ってみた。フェンスがある。警備員がいる。あの動画みたいに同年代の子たちが集まっている場所は、ここじゃないのかもしれない。周辺をうろうろした。歌舞伎町タワーの方面に、若者が何人か集まっている気配を感じた。でも近づく勇気がなかった。声をかける言葉を持っていなかった。


 そのまま歩き続けて、ドン・キホーテの前に出た。あの黄色い看板。こっちは知っている。近所にもドンキはある。見慣れた看板が一つあるだけで、心拍が少し落ち着いた。

 入り口の前に立ち止まった。ドンキの店内は明るくて、ごちゃごちゃしていて、安い。あの混沌とした棚の並びは、歌舞伎町と似ている気がした。何でもあるけど、何が必要かわからない。


 近くのベンチに座って、スマホを取り出した。時刻は午後八時を過ぎている。母さんにLINEを送らなきゃいけない。何も連絡しなかったら、また泣かれる。母さんが泣くと、わたしの中の罪悪感が胃の底に沈んで、何日も溶けないから。


 「友達と遊んでる。遅くなるかも」


 送信ボタンを押す。嘘だ。友達はいない。遊んでいない。一人で歌舞伎町のベンチに座っている。画面を見つめていると、罪悪感がまた胃の底に溜まっていくのがわかった。

 返信が来た。既読がついてから、三十秒。


 「わかった。気をつけてね」


 短い。たった二行。でもその二行に、母さんの安堵が透けて見えた。「友達と遊んでいる」。その嘘は、母さんにとっては希望だ。娘が外に出て、友達と過ごしている。学校には行っていないけど、少なくとも引きこもりからは脱しつつある。そう思えることが、母さんにとっての救いなのだ。

 わたしは母さんに希望を渡した。嘘でできた希望を。

 返信のスピードが三十秒だったことが、余計につらかった。ずっとスマホを握って待っていたのだろう。わたしからの連絡を。「友達と遊んでる」という嘘を、母さんは嬉しそうに信じるのだろうか。それとも嘘だとわかっていて、それでも「わかった」と返すのだろうか。どちらにしても、わたしは母さんを騙している。


 スマホをポケットにしまった。空を見上げた。ビルの間の細い空に、星は見えない。ネオンが明るすぎるから。でも飛行機の光が一つ、ゆっくりと横切っていった。

 あの飛行機に乗っている人たちは、下を見ているだろうか。新宿の灯りを、きれいだなと思って見下ろしているだろうか。この光の一つ一つの下に、わたしみたいな人間がいることを、知っているだろうか。


 時間を潰すように歌舞伎町を歩いた。コンビニに入って、棚を眺めた。おにぎりの棚の前で立ち止まる。鮭、ツナマヨ、昆布。家の冷蔵庫にある母さんのおにぎりと、棚に並ぶコンビニのおにぎり。同じ形をしているのに、意味が違う。母さんのおにぎりは「食べなさい」で、コンビニのおにぎりは「買えるなら食べていいよ」だ。

 何も買わずにコンビニを出た。


 九時を過ぎた頃、ドン・キホーテの前の自動販売機で缶コーヒーを買った。微糖。ベンチに座って、一口飲んだ。苦くて、あとから甘い。

 六月の夜風が首筋を撫でた。蒸し暑いはずなのに、少しだけ冷たかった。ベンチの横を酔っ払いが通り過ぎる。どこかのビルからカラオケの低音が響いている。遠くでサイレンが鳴って、すぐに消えた。


 全部の音が混ざって、大きなざわめきになっている。わたしはその真ん中に座っていた。


 帰ろうかな、と思った。

 帰る場所を思い浮かべた。埼玉の家。カーテンを閉めた部屋。天井の罅。三本。母さんの溜息。父さんのリモコン。陸のゲームの話。

 足が動かなかった。


 ここにいたい、とも思わなかった。帰りたくないだけだ。ここにいたいのと帰りたくないのは、似ているけど違う。ここが好きなわけじゃない。ただ、あの部屋に戻りたくない。罅を数える夜に戻りたくない。

 わたしは何をしに来たんだろう。居場所を探しに? 違う気がする。居場所がないことを確かめに来たのかもしれない。学校にも家にもどこにもいられないわたしが、この街にもいられなかったら——。


 缶コーヒーのアルミが、手のひらの温度を吸い取っていく。ぼんやりと人通りを見ていた。ネオンの光が路面を染めている。赤。青。ピンク。金。


 わたしはあの夜、歌舞伎町で何を探していたのだろう。居場所だったのか。仲間だったのか。それとも、「透明じゃない自分」になれる場所だったのか。

 答えは、もう少し先にあった。缶コーヒーの温度が指先から消えかけた頃、その答えの最初の欠片が、赤いメッシュの髪と一緒に、わたしの前に現れることになる。

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