第50話 : 息をする
第50話 : 息をする
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
土曜日の朝。七時。カーテンの隙間から光が入っている。四月の光。オレンジではなく、白。澄んだ白。冬の白さとも違う。春の光には透明感がある。空気ごと洗われたような明るさ。
天井を見た。罅が三本。いつもの三本。去年の五月から数え続けた三本。四本にはならなかった。わたしも割れなかった。
「おはよう、わたし」
声に出して言った。誰にも聞こえないくらいの小さな声。自分だけに聞こえればいい。自分に「おはよう」を言う。十ヶ月前は、朝が来ること自体が苦しかった。目が覚めるたびに「また一日が始まる」と思った。今は違う。朝が来ることを、少しだけ歓迎している。少しだけ。まだ「嬉しい」とは言い切れない。でも、苦しくはない。
布団を蹴って起き上がった。洗面所に行った。水で顔を洗った。冷たい。目が覚める。タオルで顔を拭いて、鏡を見た。
鏡の中のわたし。髪が伸びている。肩を超えた。歌舞伎町にいた頃、レンが「なぎ、髪長いほうが似合うよ」と言っていた。伸ばしてみたら、そうかもしれない。
メイクをした。ナチュラルメイク。レンに教わった技術。肌のトーンを整えて、眉を描いて、まつげを少し上げる。「メイクは変身じゃない。自分をちょっとだけ好きになるための儀式」。レンの言葉が指先に宿っている。ネカフェの薄暗い鏡の前で教わったことが、埼玉の洗面台の鏡の前で生きている。
メイクは「別の自分になるため」のものだと思っていた。地雷系のなぎ。トー横にいるときの仮面。でも今は違う。メイクは「自分を整えるため」のもの。どこかに行くためでも、誰かに見せるためでもなく。今日は土曜日で、学校もない。出かける予定もない。それでもメイクをする。自分のために。
部屋着のまま階段を降りた。台所から味噌汁の匂いがする。
母さんがいた。エプロン。背中。小さい背中。わたしより低い。鍋をかき混ぜている。
「おはよう」
母さんが振り返った。
「おはよう。早いね、土曜なのに」
「目が覚めちゃった」
「味噌汁、あさりだよ。お父さんがスーパーで安かったって買ってきた」
父さんが食材を買ってきた。珍しいことだ。父さんは基本的に台所に関わらない人だった。でも最近、時々スーパーで何かを買ってくる。牛乳。卵。あさり。大したものじゃない。でも、「食卓に参加しようとしている」のだと思う。不器用な参加の仕方。父さんらしい。
食卓に座った。味噌汁。白ご飯。焼き鮭。あさりの味噌汁は出汁が濃い。貝の味がする。海の味。歌舞伎町にはない味。
弟の陸が二階から降りてきた。目をこすりながら。
「おはよ」
「おはよう、陸」
陸が向かいに座って、味噌汁をすすった。「あさりだ。うまい」。母さんが「でしょ」と笑った。
四月の土曜日の朝。家族で朝ごはんを食べている。父さんはもう出勤した(土曜も仕事の日がある)けれど、母さんと弟と三人で。味噌汁とご飯と焼き鮭。テレビがついている。天気予報。今日は晴れ。最高気温十八度。桜は満開。
ただの朝食。日本中の家庭で交わされている、ただの朝食。でもこの「ただの」が、わたしにはまだ新鮮に感じられる。十ヶ月間、この席に座らなかった。コンビニのおにぎりで生き延びた時期があった。母さんの味噌汁を飲むことすらできなかった時期があった。
今、飲んでいる。あさりの味噌汁を。温かい。胃の中に温度が広がる。
「母さん、おいしい」
言えた。「おいしい」。前はこの三文字を言うのが難しかった。感想を言うことが、相手との距離を縮めることが、怖かった。今は言える。「おいしい」。簡単な言葉。でも、言えることが、たぶん成長だ。
母さんが嬉しそうに笑った。「よかった」。それだけ。「よかった」。母さんも変わった。以前なら「もっと食べなさい」「ちゃんと栄養取らないと」と続けていただろう。今は「よかった」で止まる。踏み込みすぎない。わたしたちは、お互いの「ちょうどいい距離」を、まだ手探りで見つけている最中だ。完璧じゃない。でも、「おいしい」「よかった」が交わせる。それで十分。
朝食の後、自室に戻った。
ベッドに座って、スマホを開いた。メモ帳。二百十八件。昨日の夜に書いた最新のメモが画面の上に表示されている。
今日、やること。メモ帳を整理する。二百十八件の中から、最初に投稿する一つを選ぶ。
全部を読み返した。一件目から。
一件目。「この家の天井には罅が入っている。三本。毎日数えている。明日四本になったら、わたしも割れるかもしれない」。五月。不登校が始まった頃。暗い部屋で、天井を見上げて書いた。文字が震えている気がする。画面の文字に震えなんかないのに。書いたときの手の震えを覚えている。
二十件目あたり。「コンビニのおにぎりは、百円で買える小さな約束だ。明日もここにあるっていう」。六月か七月。歌舞伎町に通い始めた頃。レンが「これすごいよ」と言ってくれたメモ。
五十件目あたり。「コンクリートの隙間から、空が見えた。星はなかったけど、飛行機が横切った。あれに乗っている人は、わたしたちが地面にいることを知らない」。地べたに寝転がった夜。ビルとビルの間の細い空。
百件目あたり。「透明人間には影がない。だから誰にも踏まれない。でもそれは、誰にも触れられないということでもある」。これもレンが反応したメモ。「おれのことでもあるじゃん」。
百五十件目あたり。「優しさには二種類ある。一つは、何も求めない優しさ。もう一つは、借りを作るための優しさ」。鶴見のファミレスの後に書いた。指先が冷たかった記憶がある。
二百件目。「"ごめんね" は、壁を溶かす言葉じゃない。壁に穴を開ける言葉だ」。母さんとの電話の後。涙でぐしゃぐしゃだった。白石さんが何も聞かずに紅茶を出してくれた。
二百十五件目。「白石さんはわたしの灯台だった。わたしはいつか、誰かの灯台になれるだろうか」。灯台の事務所を最後に訪れた日。
二百十六件目。「居場所は一つじゃなくていい」。教室に戻った日。
二百十七件目。四人のビデオ通話の後に書いたメモ。来年の桜と卵焼きとカケルの曲。
二百十八件目。昨日。新宿駅のホームから歌舞伎町を見た夜。
全部がわたしだ。暗い部屋の天井から、新宿のホームまで。点と点が線になって、線が面になって、面がわたしの形をしている。
最初に投稿する一つ。どれにしよう。
迷った。三十分くらい迷った。ベッドの上でスマホを持ったまま、メモを行ったり来たり。
結局、一件目を選んだ。
「この家の天井には罅が入っている。三本」。
最初に書いた言葉。いちばん暗い場所で書いた言葉。ここから始まった。だから、ここから始める。
SNSのアプリを開いた。
新規投稿画面。白い画面。カーソルが点滅している。何かを書いてくださいと待っている。
タイトル欄に打ち込んだ。
「ネオンの下で息をする」
指が震えていた。靴紐を結ぶときみたいに。灯台のドアノブに手を伸ばしたときみたいに。教室のドアを引いたときみたいに。全部の「怖くて震えた瞬間」と同じ震えが、指先にある。
本文欄にメモ帳の言葉を貼り付けた。一件目。天井の罅。三本。
そのまま貼り付けただけではない。昨日の夜と今朝、少しだけ整えた。走り書きを、ちゃんとした文章にした。段落を分けた。句読点を直した。でも、言葉そのものは変えていない。あのとき感じたことを、あのときの温度のまま。
投稿ボタン。画面の右上。青いボタン。指がその上にある。
怖い。
中学のLINEを思い出す。グループLINEに流れた加工画像。「瀬川さんの名場面集www」。笑われた。わたしが何かを「外」に出すと、笑われる。傷つく。そういう記憶がある。
でも。
「透明の声」のコメント欄を思い出す。「この曲に救われました」。わたしの言葉が、知らない人に届いた。笑われなかった。「救われた」と言ってもらえた。
レンの声を思い出す。「なぎ、これすごいよ」。
カケルの声を思い出す。「なぎの言葉は、おれの曲に必要だから」。
ルカ姉の声を思い出す。「あんた、作家になれよ」。
白石さんの声を思い出す。「なぎさちゃんがドアを開けてくれて、ありがとう」。
母さんの文字を思い出す。「おいしく食べてね」。
ドアは何度も開けた。全部怖かった。全部の向こう側に、何かがあった。このボタンも、ドアだ。押したら、わたしの言葉が外に出る。ネオンの外に。世界に。
押した。
画面が切り替わった。「投稿しました」。
投稿された。わたしの言葉が。天井の罅。三本。あの暗い部屋で書いた言葉が、インターネットの上に載った。誰でも読める場所に。世界中の人が——いや、誰も読まないかもしれない。でも、読める状態にはなった。
手がまだ震えている。スマホを置いた。深呼吸した。四秒吸って、七秒吐いて。呼吸法。フラッシュバック用の。今はフラッシュバックじゃないけれど、心臓が速い。
窓を開けた。四月の風が入ってくる。桜の匂い。薄い。でも確かにある。花の匂い。生きている匂い。
空を見上げた。青い空。雲が少しだけ。広い空。埼玉の空は広い。歌舞伎町の空はビルに挟まれた細い帯だった。ここでは空が全部見える。
この空の下に、わたしの言葉がある。スマホの中。サーバーの中。電波に乗って、どこかの誰かの画面に届くかもしれない。届かないかもしれない。でも、出した。外に。
五分経った。スマホを見た。反応はない。
当たり前だ。投稿したばかりだ。フォロワーはゼロ。誰もわたしを知らない。検索しない限り、誰の画面にも表示されない。知っている。わかっている。
十分経った。まだない。
部屋の中を歩き回った。ベッドに座って、立ち上がって、窓の前に立って、またベッドに座った。落ち着かない。でも後悔はしていない。出した。それだけで、十分。白石さんなら「投稿できただけで十分だよ」と言うだろう。横山先生も「それで十分」。
十五分。スマホを見た。
通知が一件。
心臓が跳ねた。指が滑って、画面をうまくタップできない。落ち着け。深呼吸。タップした。
通知を開いた。
「いいね」が一件。
知らないアカウント。アイコンは猫の写真。プロフィールには何も書いていない。フォロワー数は少ない。どこの誰かもわからない。
その人が、わたしの言葉を読んだ。天井の罅。三本。あの暗い部屋で震える手で書いた言葉を、どこかの誰かが読んで、「いいね」のボタンを押してくれた。
たった一件。
たった一件の「いいね」。SoundCloudの「透明の声」は再生数八十七。レンのメイク動画はフォロワー二百二十。数字としては、一件は小さい。
でも。
この一件は、どこかの誰かがわたしの言葉を受け取ったということだ。わたしの声が、届いた。透明じゃなくなった。少なくとも一人の画面の上で、わたしの言葉が光った。一瞬かもしれない。スクロールの途中でたまたま目に入っただけかもしれない。でも、その人は止まって、読んで、ボタンを押した。
猫のアイコン。
トー横にいた頃、SNSでフォローしていた匿名アカウントを思い出した。猫のアイコンの子。「今日もここにいるよ」と投稿していた子。あの子のおかげで、わたしは歌舞伎町に行った。あの子の言葉が、わたしの背中を押した。
今度はわたしの言葉が、誰かの画面に届いた。巡っている。言葉は巡る。誰かの言葉がわたしに届いて、わたしの言葉が誰かに届いて。灯台の光みたいに。光は誰かに届いて、届いた人がまた光を出す。
涙が出た。嬉しいからじゃない。悲しいからでもない。言葉にならない感情。十ヶ月分の全部が胸の奥から込み上げてきて、目から溢れた。
泣きながら笑った。変な顔になっていると思う。メイクが崩れる。レンに怒られる。ティッシュで目元を押さえた。
落ち着いた後、グループLINEを開いた。
スクリーンショットを撮った。投稿画面と、「いいね」一件の通知。二枚の画像をグループに送った。メッセージを添えた。
「投稿した。一件 "いいね" が来た」
送信。
既読がつくのを待つ。一つ。二つ。三つ。
ルカ姉から。
「やっと出したね。遅いよ。もっと早く出してよかったのに」
ルカ姉の「遅いよ」は、叱っているんじゃない。待っていてくれたということだ。
レンから。
「見た見た。いいね一件とか、初投稿にしては上出来じゃん。おれの動画、最初はいいねゼロだったからね。一件は奇跡だよ」
レンの励まし方は、いつも数字で来る。でもその数字に嘘がない。
カケルから。
「読んだ。天井の罅。あの言葉が最初なんだ」
カケルは内容を読んでくれた。「あの言葉が最初なんだ」。カケルは、わたしがなぜ一件目を選んだのかを、たぶんわかっている。いちばん暗い場所で書いた言葉だから。そこから始めるのが正しいと、音楽を作る人間にはわかるのだと思う。曲も、いちばん静かな音から始まることがある。
ルカ姉が追加メッセージ。
「次はいつ上げんの。二件目。待ってるんだけど」
レンが重ねる。
「おれも待ってる。なぎの言葉、全部読みたい」
カケルが短く。
「おれの曲にも、また言葉つけて」
三人が待っている。わたしの言葉を。三人だけじゃない。猫のアイコンの人も。SoundCloudのコメント欄の人も。まだ見ぬ誰かも。
わたしの言葉を読みたい人がいる。
その事実が、わたしの胸の中でゆっくりと形を成していく。かつて、わたしは透明だった。名前を呼ばれない。声が届かない。教室の中で存在しない人間だった。
今、わたしの言葉が画面の上にある。誰でも読める。誰かが読んだ。「いいね」を押してくれた。わたしの声が、届いた。透明じゃなくなった。
グループLINEに返信した。
「二件目、明日上げる。二百十八件あるから、しばらくネタ切れしないよ」
ルカ姉が「二百十八件て。あんたどんだけ書いてんの」。
レンが「毎日上げたら七ヶ月分じゃん。連載だ連載」。
カケルが「楽しみ」。
スマホを閉じた。窓の外を見た。四月の空。桜が見える。通りの向こうの桜並木。ピンクの花びらが風に揺れている。
一年前、この道を歩いた。真新しい制服で。リセットボタンを押したつもりだった。新しい学校、新しいクラス、新しいわたし。でもリセットはできなかった。壊れた。逃げた。歌舞伎町に流れ着いた。
今年の桜は、リセットじゃない。「続き」だ。壊れたところから、続けている。十ヶ月の空白を含めて。歌舞伎町の夜を含めて。ルカ姉のODを含めて。鶴見の恐怖を含めて。母さんとの電話を含めて。全部を含めた「続き」。
桜は毎年咲く。去年と今年は別の花だけれど、同じ木から咲いている。わたしも同じだ。去年のわたしと今年のわたしは違う人間だけれど、同じ根っこから生えている。根っこには、暗い部屋の天井も、歌舞伎町の地べたも、灯台のソファも、教室の椅子も、全部が含まれている。
夕方。
母さんが台所で夕食の準備をしている。肉じゃがの匂い。昨日と同じ。わたしが好きなおかず。
「母さん」
台所に立つ母さんの背中に声をかけた。母さんが振り返る。
「なに?」
「わたし、文章書いてるの。知ってた?」
母さんが少し驚いた顔をした。「文章?」
「メモ帳に。ずっと書いてた。今日、ネットに上げてみた」
母さんは黙っていた。何を言えばいいかわからない顔。でも、否定はしなかった。「ネットは危ないんじゃない」とも、「そんなことしてないで勉強しなさい」とも言わなかった。
「読みたい?」
聞いてみた。母さんが少し考えて、「読んでいいの?」と聞き返した。
「うん。でも、重い内容もあるから。覚悟して」
母さんが小さく笑った。「覚悟はしてる。この十ヶ月で、覚悟はぜんぶした」。
スマホを渡した。投稿画面。天井の罅。三本。母さんが画面を見つめた。文字を読んでいる。目が文字を追っている。
母さんの顔が変わった。眉が下がった。唇が震えた。
「これ、あんたが書いたの」
「うん」
母さんが画面から顔を上げた。目が赤い。泣きそうな目。でも泣いていない。堪えている。
「続きも、あるの」
「二百十八件」
母さんが息を吸った。ゆっくりと。深く。
「全部、読みたい」
五文字。母さんの「全部、読みたい」。弁当箱のメモの「おいしく食べてね」と同じ重さ。わたしの言葉を読みたいと言ってくれる人が、また一人増えた。ルカ姉とレンとカケルと、猫のアイコンの人と、SoundCloudの人と、母さん。
「ゆっくり上げるから。毎日一件ずつ」
「待ってる」
母さんがスマホを返してくれた。指が触れた。母さんの指は温かかった。料理をしていたから。玉ねぎを切っていた手。人参を剥いていた手。わたしのために夕飯を作っている手。
「母さん」
「なに」
「ありがとう」
言えた。「ありがとう」。前は言えなかった三文字。助けてもらうことが借りを作ることに感じられたから。でも今は違う。「ありがとう」は借りじゃない。繋がりだ。ひなたにノートを借りたときに言えた三文字が、今度は母さんに向いている。
母さんが笑った。「こっちこそ」と言った。それだけ。短い。でも十分。わたしたちの距離は、まだ「ありがとう」「こっちこそ」くらいがちょうどいい。抱きしめ合うには早い。でもドアは開いている。
夜。自室。ベッドに座っている。
窓を開けている。四月の夜の風。少し冷たいけれど、気持ちいい。沈丁花の匂いが入ってくる。あと少しで散ってしまう。春の匂いは短い。
スマホを開いた。投稿した記事をもう一度見た。「いいね」は一件のまま。増えていない。でも減ってもいない。あの猫のアイコンの「いいね」は、まだそこにある。
メモ帳を開いた。新しいメモ。二百十九件目。今日の分。
書いた。
「今日、わたしの言葉を外に出した。たった一件の "いいね" が来た。それは、どこかの誰かがわたしの声を聞いてくれたということだ。透明人間には声がない。でもわたしは書いた。書いて、出した。声が届いた。わたしは、ネオンの下で息をすることを覚えた少女だ。今は、朝の光の下で、自分の言葉で、息をしている」
保存した。
スマホを閉じた。枕元に置いた。昨日、書店で買った本が横にある。表紙の薄い青。夜明け前の空の色。まだ途中までしか読んでいない。明日の朝、続きを読もう。
部屋の灯りを消した。暗くなった。
天井の罅。三本。見えない。でもある。最初のメモに書いた三本。今日、その言葉を世界に出した。天井の罅は変わらない。わたしは変わった。あの罅を見上げていた少女が、今日、自分の言葉で一歩を踏み出した。
目を閉じた。
明日は日曜日。二件目を投稿する。「コンビニのおにぎりは、百円で買える小さな約束だ」。あの言葉を外に出す。明後日は三件目。その次は四件目。二百十八件。全部出す。全部がわたしだから。
月曜日には学校がある。教室に行く。ひなたが「おはよう」と言ってくれる。数学の授業がわからなくて、ノートを見せてもらう。弁当箱の中に母さんのメモがある。放課後、横山先生が「それで十分だよ」と言ってくれる。
来年の四月には、四人で花見をする。上野公園。桜の下。コンビニのおにぎりと甘い卵焼きとカケルの音楽。ルカ姉とレンとカケルとわたし。普通の場所で、普通に会う。それがどれだけすごいことか、わたしたちだけが知っている。
全部がわたしの場所だ。教室も。家も。スマホの中も。メモ帳の中も。そしてこれから、投稿した先の画面の中も。わたしの言葉が届く場所が、全部わたしの場所になる。
風が入ってくる。沈丁花の匂いが薄れて、夜の空気だけが残る。静かだ。エアコンの音も、窓の外の風の音も、遠い。呼吸の音だけが聞こえる。
わたしは息をしている。
ネオンの下で覚えた息を、朝の光の下で続けている。あの光も、この光も、わたしの光だ。二つの光の間に、わたしの十ヶ月がある。暗い天井から始まって、星の見える空に辿り着いた。全部が繋がっている。全部がわたしを作っている。
たった一件の「いいね」。でもそれは、どこかの誰かがわたしの言葉を読んで、ボタンを押してくれたということだ。わたしの声が、届いた。透明じゃなくなった。
わたしは、ネオンの下で息をすることを覚えた少女だ。
今は、朝の光の下で、自分の言葉で、息をしている。




