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第48話 : 四人の春

第48話 : 四人の春


 スマホの画面に、四つの顔が並んでいる。


 夜の九時。自室。ベッドの上にあぐらをかいて、スマホを枕に立てかけた。窓を少し開けている。三月末の夜の風が入ってくる。沈丁花の匂い。甘くて重い。春の夜の匂い。ビデオ通話。左上にルカ姉。右上にレン。左下にカケル。右下にわたし。四分割の画面。四つの部屋。四つの灯り。


 ルカ姉の背景はシェルターの共有スペース。白い壁。蛍光灯の光。テーブルの端にマグカップが置いてある。ルカ姉は髪を一つに結んで、すっぴんに近い顔をしている。歌舞伎町にいた頃の赤いメッシュはもうない。黒髪。でも目の強さは変わっていない。


 レンの背景はシェアハウスの自室。狭い部屋だけど、壁にメイク道具が並んだ棚が見える。LEDのリングライトが光っている。レンはしっかりメイクをしている。動画撮影の延長線なのかもしれない。画面に映るときは「盛る」のがレンの流儀だ。


 カケルの背景は自宅の部屋。広い。机の上にPCのモニターが二台。キーボードとミキサーが見える。DTMの機材。部屋は暗いが、モニターの光で青白く照らされている。カケルはいつものように前髪が目にかかっている。イヤホンはしていない。両耳とも。


「揃った揃った。久しぶりじゃん、四人全員」


 ルカ姉が画面をのぞき込むように顔を近づけた。カメラに鼻がぶつかりそうになっている。


「ルカ姉、顔近い。画面から出るって」


 レンが笑った。ルカ姉が「うるさいな」と言って少し引いた。


 カケルが画面の端で小さく手を上げた。


「……どうも」


 カケルの挨拶は相変わらず短い。でも今日はカメラの方を見ている。以前は画面から目を逸らしがちだった。変わっている。少しずつ。


「なぎも映ってる映ってる。おー、教室行ったんでしょ。制服姿見せてよ」


 レンが催促した。わたしは部屋着だ。


「もう着替えたよ。夜だし」


「えー、つまんない。明日撮って送ってよ。制服なぎ見たい」


「いやだよ、恥ずかしい」


 ルカ姉が「レン、しつこいよ」と止めた。レンが「はーい」と引き下がる。この流れ。懐かしい。歌舞伎町のローソンの前で、コンビニのおにぎりを食べながら交わしていたやりとりと同じリズム。場所が変わっても、四人の空気は変わっていない。


「じゃ、近況報告しよ。言い出しっぺのルカ姉から」


 レンが仕切る。ルカ姉が「なんでわたしから」と言いながらも、画面の中で姿勢を正した。


「えーと。猫カフェの面接、受かった。これはもう報告したか」


「聞いた聞いた。で、いつから?」


「来週から。研修が二週間あって、その後シフトに入る。時給は最低賃金だけど、猫と一緒にいられるからいい」


 ルカ姉が少し照れたように笑った。この人が照れる姿を見ると、胸が温かくなる。歌舞伎町にいた頃のルカ姉は「強い姉」だった。照れたり、弱さを見せたりしなかった。今のルカ姉は照れる。弱さを認めた上で笑える。


「高卒認定の勉強は?」


 わたしが聞いた。ルカ姉が顔をしかめる。


「数学が無理。因数分解ってなに。二乗ってなに。マジで意味わかんない」


「ルカ姉、おれっちに聞いてくれよ。通信制で今やってるから教えられるよ」


 レンが胸を張った。ルカ姉が「レンに数学教わるとか、世界の終わりじゃん」と言った。


「ひどくない? おれ成績いいんだけど?」


「嘘つけ」


「嘘じゃないし。レポート全部出してるし。評定平均3.2だし」


「マジで?」


「マジマジ。通信制なめんなよ」


 ルカ姉とレンの掛け合い。テンポがいい。漫才みたいだ。カケルがそれを聞きながら、画面の端で口元だけ笑っている。


「カケルは? どう最近」


 ルカ姉がカケルに振った。カケルがイヤホンのコードをいじりながら——あ、今日はイヤホンしてないんだった。手持ち無沙汰なのか、指がコードのない耳元に触れている。


「まあまあ」


「まあまあって何よ」


「母さんと、ご飯食べるようになった。毎日じゃないけど。週に三回くらい」


 カケルの声は小さい。でも途切れない。最後まで喋り切った。カケルにとって、「母親と食事をしている」という報告は、たぶん相当な近況だ。


「父さんは?」


 わたしが聞いた。カケルが少し間を置いた。


「……この前、リビングで曲作ってたら、父さんが帰ってきて。イヤホン外すの忘れてて、スピーカーから音が出てて。父さんが "何の音だ" って聞いてきて。"おれが作った" って言ったら、黙って五分くらい聴いてた」


 五分。カケルの父親が五分間、息子の曲を聴いた。カケルにとって、それは革命みたいなことだろう。「お金はあった。でも "おはよう" がなかった」と言っていた家庭で、父親が五分間、音楽を聴いてくれた。


「で? なんか言ってた?」


 レンが前のめりになった。


「"悪くない" って」


 ルカ姉が吹き出した。「悪くない。お父さん、褒め下手じゃん」。


 カケルが小さく笑った。「おれと似てるんだと思う。言葉が少ないところ」。


 親子は似る。言葉の少なさも。不器用さも。でも、「悪くない」という三文字の中に、カケルの父親なりの全部が入っている。カケルの「よかった」と同じだ。短い言葉に、長い感情を詰め込む。その詰め込み方が、親子で同じだった。


「レンの番。報告して」


 ルカ姉がレンを指差した。レンが画面の前で髪をかき上げるポーズを取った。動画用の癖が出ている。


「おれっちはですね。通信制、ちゃんとやってます。スクーリング週三で通ってます。レポートも全部出してます。偉いでしょ」


「偉い偉い」


 ルカ姉が適当に相槌を打つ。レンが「もっとちゃんと褒めてよ」と膨れた。


「あとね、メイク動画。フォロワーが二百二十超えた」


「おー」


「いや "おー" じゃなくて。二百二十だよ。先月は百五十だったから、七十人増えた。一ヶ月で。これ、けっこうすごくない?」


 レンの目がきらきらしている。数字の話をするとき、レンは本当に嬉しそうな顔をする。フォロワー二百二十。SoundCloudの「透明の声」の再生数八十七。わたしたちの「外」はまだ小さい。でもゼロじゃない。


「レン、どんな動画上げてんの。見たことないんだけど」


 ルカ姉が言った。レンが「え、見てないの。ひどい。ファミリーなのに」。


「だってSNS見ないし。シェルターのWi-Fiが遅いし」


「言い訳じゃん。なぎは見てくれてるよね?」


 突然振られた。正直に答えた。


「最新のは見た。アイシャドウの塗り方のやつ。わかりやすかった」


 レンの顔が輝いた。


「でしょ。おれっちの動画、初心者向けにわかりやすく作ってるんだよ。おれ自身が最近までメイク初心者だったから、初心者の気持ちがわかるわけ。そこが強みっしょ」


「自己分析がしっかりしてるじゃん」


 ルカ姉が感心したように言った。レンが「当然。おれは自分のこと、けっこう冷静に見てるよ」と返した。


 レンは変わった。軽さは変わらないけれど、その軽さの下に、芯ができている。「おれは自分のこと、冷静に見てる」と言えるレン。歌舞伎町にいた頃は、冷静に見ることから逃げていた。楽しいこと、面白いこと、軽いことで自分を覆い隠していた。今は覆い隠さなくても大丈夫になっている。


「あ、それとさ。おれ、自分のジェンダーのこと、動画で話そうかなって思ってる」


 レンの声が少しだけ低くなった。真面目なトーン。


「動画で?」


「うん。"男の子" って言うの、ずっと違和感あるって話。まだ自分でもわかんないけど、わかんないまま話してみようかなって。同じように悩んでる人、いると思うから」


 わたしたちは黙った。レンの言葉の重さを受け止める時間。


「いいじゃん」


 ルカ姉が言った。短く。でも力がある。


「いいと思う」


 カケルも。


「レンらしいと思う」


 わたしも。レンが画面の中で少し照れたように笑った。「ありがと」と小さく言った。レンの「ありがと」は珍しい。いつもは「おれっちを褒めろ」とか「当然でしょ」とか軽く返すのに。今日の「ありがと」には重力がある。


「なぎは? 教室行ったんでしょ。どうだった」


 ルカ姉がわたしに向き直った。四つの画面の中で、三つの視線がわたしに集まる。


「行った。一日いた」


「すごいじゃん」


「すごくはない。座ってただけ。授業わかんなかったし」


「それでも行ったんでしょ。座ったんでしょ。それがすごいんだよ」


 ルカ姉の声は強かった。断定形。「すごい」を断定してくれる。わたしが自分で自分を「すごい」と思えなくても、ルカ姉がそう言ってくれる。


「隣の席の子が、お弁当一緒に食べてくれた。唐揚げあげたら、ウインナーくれた」


「おにぎり交換の進化版じゃん」


 レンが笑った。そうだ。おにぎり交換の進化版。歌舞伎町のコンビニおにぎりから、教室の弁当おかずへ。分け合う相手が変わっても、分け合うという行為は続いている。


「母さんがお弁当作ってくれてる。毎日」


「真由美さん、がんばってんだね」


 ルカ姉が母さんの名前を呼んだ。ルカ姉は母さんに会ったことがない。でもわたしが何度も話したから、名前を覚えている。


「弁当箱に "おいしく食べてね" ってメモが入ってた」


「泣くわそんなの」


 レンが鼻をすすった。演技かもしれない。でも目が赤い。本当に泣きかけている。


「レン、泣くなよ。おれまで泣きそうになるじゃん」


 ルカ姉が笑いながら言った。カケルは黙っていたけれど、画面の端で唇を噛んでいる。カケルなりの「泣くのを堪える」仕草だ。



 四人で笑い合った。泣きそうになりながら笑った。画面越しなのに、温度がある。声の振動がスマホのスピーカーを通して、わたしの部屋の空気を揺らしている。


 歌舞伎町の非常階段の踊り場で四人で夜景を見た夜。レンが「おれたちの王国みたい」と言った夜。あの夜の空気と、今の空気は似ている。場所が違う。時間が違う。でも、四人でいるときの温度は同じだ。


「おれたちってさ、成長したよね」


 レンが言った。ルカ姉が即座に返す。


「成長って言うな。恥ずかしい」


「でも事実じゃん。ルカ姉は猫カフェで働くし、カケルは父さんと話せるようになったし、なぎは教室行ったし、おれはフォロワー二百二十だし」


「最後のは成長なのか?」


「成長だよ。ゼロから二百二十だよ。なめんなよ」


 カケルが口を開いた。


「……でも、変わったのは本当」


 カケルが言うと、全員が黙った。カケルの言葉には黙らせる力がある。短いから。短くて、的確だから。


「変わったね」


 わたしが言った。


「変わった」


 ルカ姉が頷いた。


 変わった。わたしたちは変わった。歌舞伎町の地べたに座っていた四人が、それぞれの椅子に座っている。シェルターの椅子。シェアハウスのベッド。自宅のPCチェア。今のわたしはベッドの上だけど、明日はまた教室の椅子に座る。でも明日はまた教室の椅子に座る。


 四つの画面の中に、四つの部屋がある。歌舞伎町の路上ではなく、それぞれの場所。天井がある。壁がある。ドアがある。鍵がある。「自分の場所」がある。あの頃はなかった。路上には天井がない。壁もない。鍵もない。誰でも入ってこれるし、いつでも追い出される。


 今は、四人とも「閉じた場所」を持っている。閉じることができる場所。外の世界から自分を守れる場所。それは当たり前のことじゃなかった。


「ねえ」


 ルカ姉が声のトーンを変えた。少しだけ真剣な声。


「来年の桜が咲いたら、四人で花見しようよ。オフラインで」


 花見。四人で。画面越しじゃなく。同じ場所で。同じ空の下で。


「いいね。どこで?」


 レンが即答した。


「上野公園とかどう? 桜きれいらしいよ」


「上野か。行ったことないけど」


「おれもない。だからいいじゃん。初めての場所」


 カケルが画面の端で少し体を動かした。何か言いたそうにしている。


「……歌舞伎町じゃなくていいの?」


 カケルの問いに、全員が止まった。


 歌舞伎町。わたしたちが出会った場所。わたしたちの「王国」だった場所。あの場所で花見をする選択肢もある。桜はないけれど。歌舞伎町に桜はない。コンクリートとネオンの街だ。


 ルカ姉が答えた。


「歌舞伎町は卒業。これからは "普通の場所" で会おう」


 卒業。ルカ姉がその言葉を使った。歌舞伎町を「卒業」する。学校を卒業するように。灯台を卒業するように。通過した場所を、通過したと認めること。それが卒業だ。


「普通の場所で、普通に会う」


 わたしが言った。自分で言ってから、その言葉の重さに気づいた。


「それって、すごいことだよね」


 全員が黙った。数秒間の沈黙。画面の中で、四つの顔が同じことを考えている。「普通」がどれだけ遠かったか。「普通の場所で会う」という、どこの高校生でもやっている当たり前のことが、わたしたちにとっては冒険だった。


「うん」


 カケルが頷いた。短い。でも全部が入っている。


「じゃあ来年の四月。上野公園。桜の下で」


 ルカ姉が指を立てた。約束するときの仕草。歌舞伎町のファミレスでルールを作ったときと同じ。「困ったら言う。見捨てない。嘘はつかない」。あの夜の約束は守られた。形は変わったけれど。


「桜の下で何するの」


「花見でしょ普通に。弁当持ち寄り。レンはおかず担当」


「え、おれ料理できないんだけど」


「じゃあコンビニで買ってこい」


「コンビニのおにぎりでいいじゃん。おれたちの原点だし」


 レンが笑った。みんな笑った。コンビニのおにぎり。百円の約束。あの頃は生存のための食事だった。来年の花見では、笑いながら食べるおにぎりになる。同じおにぎり。でも意味が変わる。


「なぎは何持ってくる?」


「卵焼き。母さんに作ってもらう」


「甘いやつ?」


「甘いやつ」


「おれ甘い卵焼き好き。多めに持ってきて」


「はいはい」


「カケルは?」


「……おれは、曲を持っていく」


 カケルの答えに、三人が「お」と声を上げた。カケルが少し照れたように画面から目を逸らした。


「スピーカー持っていく。花見のBGM」


「最高じゃん。カケルの曲聴きながら花見とか、おれたち文化的すぎない?」


 レンがテンションを上げた。ルカ姉が「文化的って言いたいだけでしょ」とツッコむ。カケルが画面の端で、ほんの少しだけ笑った。


 来年の四月。上野公園。桜の下。コンビニのおにぎりと甘い卵焼きとカケルの音楽。四人で。オフラインで。普通に。


 一年後の約束。守れるかわからない。あの雨の夜にネカフェで「ずっと一緒にいよう」と言ったときも、守れるかわからなかった。実際、「ずっと一緒」ではなくなった。バラバラになった。でも、バラバラになっても繋がっている。「ずっと一緒」の形が変わっただけだ。隣にいることだけが「一緒」じゃない。離れていても、声が届くなら、一緒だ。


「あ、そうだ。ルカ姉」


 レンが思い出したように言った。


「おれ、美容師の専門学校調べてんだけど。来年受験しようかなって」


「マジで? レン、専門学校行くの?」


「行きたいなって。通信制卒業してからだけど。メイクアップアーティストになるなら、資格あったほうがいいし」


 ルカ姉が画面の中で大きく頷いた。


「いいじゃん。やりなよ」


「お金がやばいけどね。奨学金とか調べてる」


「灯台の白石さんに相談してみなよ。支援制度とか詳しいから」


「あ、そっか。白石さんに聞けばいいのか」


 白石さんの名前が出た。わたしたちを繋いでくれた人。灯台の光。白石さんはきっと、レンの相談にも乗ってくれる。強制しないで、急かさないで、選択肢を並べてくれる。


「おれも」


 カケルが口を開いた。みんなが画面を見る。


「音楽の学校、調べてる。高校出たら」


「カケルも?」


「うん。DTMの専門コースがあるとこ。母さんに話したら、見学行ってみたらって言ってた」


 カケルの母親が「見学行ってみたら」と言った。それは、カケルの音楽を認めたということだ。「お前の曲、聴いたぞ」と言った父親と、「見学行ってみたら」と言った母親。少しずつ。少しずつ。カケルの家庭が、音楽を通じて動き始めている。


「おれたち全員、進路あるじゃん」


 レンが指折り数えた。


「ルカ姉は猫カフェ。レンは美容師の専門学校。カケルは音楽の学校。なぎは——なぎは?」


 わたし。わたしの進路。


「わたしは、まだわかんない。でも、書く人。書くことに関わる人。そこは変わってない」


 変わっていない。歌舞伎町のファミレスでルカ姉に聞かれたとき、同じことを答えた。「書く人。書くことに関わる人」。あのときは漠然とした夢だった。今は——まだ漠然としている。でも、メモ帳の二百十六件がある。カケルの「透明の声」がある。「もっと読みたい」というコメントがある。漠然の中に、小さな手がかりが見えている。


「なぎの言葉は、おれの曲に必要だから」


 カケルが言った。短く。でも真っ直ぐに。


「おれっちも必要。なぎの言葉、動画のキャプションに使いたい」


 レンも。


「わたしは猫カフェのPOP書いてもらおうかな。"この猫は百円じゃ買えない約束です" みたいな」


 ルカ姉が笑いながら言った。


「何それ意味わかんない」


「わかんないけど、なぎっぽいでしょ」


 四人で笑った。わたしの言葉を必要としてくれている人が三人いる。まだ三人。でもゼロじゃない。SoundCloudのコメント欄の人を含めたら、もう少しいる。少しずつ、わたしの言葉は「内側」から「外側」に出始めている。



 通話が一時間を超えた。


 話題が一周して、四人とも少し疲れてきた。レンが欠伸をした。カケルが背もたれにもたれている。ルカ姉がマグカップの中身を飲み干した。


 沈黙が来た。でも気まずい沈黙じゃない。穏やかな沈黙。お互いの顔が画面にあるだけで十分な時間。歌舞伎町の路上で、四人で黙って空を見上げていた夜と同じ種類の沈黙。あの頃はビルの間の細い空だった。今は、それぞれの窓の向こうの空。見ている空が違う。でも同じ月が出ている。


「そろそろ切るか。明日おれシフトあるし」


 ルカ姉が伸びをした。猫カフェの研修前の準備があるのだろう。


「おれも寝る。明日レポートの締切」


 レンが手を振った。


「おれも」


 カケルが画面に向かって小さく手を上げた。


「じゃあまた。来年の四月、上野公園で」


 ルカ姉が言った。


「忘れんなよ、みんな」


「忘れないよ。メモ帳に書いとく」


 わたしが言ったら、ルカ姉が笑った。「なぎは書くことでしか約束を残せないのか」。


「それがわたしのやり方だから」


「知ってる」


 通話が切れた。四分割の画面が消えた。スマホの画面が暗くなった。わたしの顔だけが黒い画面に映っている。部屋が静かになった。


 エアコンの音。窓の外で風が鳴っている。さっきまで四人の声で満たされていた空間が、急に広くなった。寂しい。でも、寂しさの質が変わっている。歌舞伎町を離れた直後の寂しさは、何かを失った寂しさだった。今の寂しさは、「また会える」ことを知っている寂しさ。来年の四月に会える。上野公園で。桜の下で。


 窓の外を見た。埼玉の夜空。星が見える。歌舞伎町の空では見えなかった星。あの街のネオンは星を隠す。ここにはネオンがない。代わりに星がある。


 ファミリーは離れた。でも繋がっている。スマホの中に。手紙の中に。カケルの曲の中に。レンの動画の中に。わたしのメモ帳の中に。


 わたしたちの居場所は、もう歌舞伎町じゃない。歌舞伎町は通過した場所。卒業した場所。でも、あの場所がなかったら、今のわたしたちはいない。ネオンの下で出会って、名前を呼び合って、おにぎりを分け合って、傷を見せ合った。全部が、今に繋がっている。


 わたしたち自身が、お互いの居場所だ。


 ルカ姉はシェルターの白い壁の前にいても、わたしの居場所。レンはシェアハウスのリングライトの前にいても、わたしの居場所。カケルは自宅のモニターの前にいても、わたしの居場所。場所じゃない。人だ。


 メモ帳を開いた。書いた。


 「画面越しに四つの顔が並んでいた。四つの部屋、四つの灯り、四つの声。バラバラの場所にいるのに、同じ温度だった。わたしたちはファミリーだった。今もそうだ。ただ、家の形が変わった。路上から、それぞれの部屋へ。来年の四月、桜の下で会う。コンビニのおにぎりと甘い卵焼きを持って」


 保存した。二百十七件目。


 スマホを枕元に置いた。部屋の灯りを消した。暗くなった。天井の罅は見えない。でもあることは知っている。三本。変わらない。変わらなくていい。


 目を閉じた。


 明日も学校に行く。教室に座る。ひなたが「おはよう」と言ってくれるかもしれない。数学の授業がわからないかもしれない。弁当箱の中に母さんのメモがあるかもしれない。


 そして今週末。一人で新宿に行こうと思う。歌舞伎町には行かない。ただ、新宿駅から遠くにネオンを見てみたい。通過した場所を、離れた場所から見つめてみたい。あの光が、今のわたしの目にどう映るのか、知りたい。

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